第7話 恋に落ちるとき
隣で歩くと、私とぶつかりそうな髪が、ある。
その髪は緩くウェーブがかかっていて、当たるたびに柔らかい。
香山はピーナッツバターのような、甘ったるい匂いがする。
私が待ち合わせ場所のカレー屋の前で待っていると、香山が会釈をして横断歩道を渡ってきた。
雨が、降りそうな曇り空だったのに私は傘も持ち合わせていない。
香山の右手にはビニール傘があり、なんだか申し訳ない気持ちになる。
「じゃあ、行こうか」
隣あわせに並んで歩くと、香山の肩が少しぶつかった。私も、香山も、何も言わないまま、道の端っこを歩いていく。
猫王子の話でもしようかと横を向くと、香山は何やら陽気そうに口ずさんでいたので、なんの歌かと問うた。
香山は声をもう少し大きくして、聴いたことがない? と笑った。
満面の笑顔を向けられて、私は焦ってしまう。焦ってしまった。それは仕方ないことのように思えた。
香山は、素敵な笑顔をしているから、仕方ないことだった。
「そうか、俺と果歩さんて、歌の趣味がちがうんだね。普段はどんなのを、聴くの? 」
勝太に勧められたJAZZシンガーの名前を出すも、ほうほうと頷いて、香山はそれからそれからと促す。かろうじて流行っていたであろう歌手の名前を出すと、ふうん、と唸って黙ってしまう。
香山が突然黙ると、なんだか怖かった。それは、たとえば今にも降り出す雨を含んだ雨雲のよう。もう既に一粒目はこの世界のどこかに落ちていて、おでこを出した少女にそれは衝突をし、少女は雨が降っていることを知っているのに、私にはまだわからない事実である、そういう怖さがあった。
だから、私は唐突に歌を歌い出す。その歌はクラシックの有名な曲を歌手がカバーしたものだったが、香山は驚く素ぶりも、楽しそうな素ぶりもせずに、そのかわりつまらなさそうな顔もせず、私を眺めた。
「声、綺麗だね。歌うと」
そんなことを言われ、私はまた焦ることになってしまった。
猫王子の個展にたどり着いたが、最後だった。
香山と私は涙を流しながらひとつずつの絵をじっくりと堪能したし、お互いの存在を忘れるほどに執着した。しつこく眺め回す私たちはどこか一種異様で、他のデートのついでに来たようなカップルは奇妙な視線をくれたが、そんなことはどうでもよかった。
私たちは頷きあって、最後の絵を見終わると、握手をした。
どちらからともなく、握手をした。
感動した私の心の叫びを、香山もそれに呼応するように笑った、それは素敵過ぎるほどの笑顔だったが、私はもう焦らなかった、ただ笑い返し、二人で出口の横に突っ立ってひたすらに笑いあったら、私は香山が好きなのかなと思った。
それから私たちは喫茶店に入り、遅い昼食をとる。
パスタをスプーンとフォークで器用にするりするりと食べる香山を見ていると、掃除機みたいだ、と言葉がそのまま口に出た。
「果歩さんだって、テトリスみたいだ」
香山が仏頂面で返して、どうしてよと聞き返しても、パスタをくるりくるりと翻しては口に運ぶその手を止めず、私もオムレツをスプーンで割りながら、食べていたら、本当だ、テトリスみたいだ。と気づき口にしていた。香山は吹き出すように笑いながら、水を飲んだ。
私がこんなに自然体になれる相手なんて、この世に居たことが奇跡だ、そう思ったのは、夕方に香山の手を振って去る姿を、駅のホームで見送ってすぐ後ろを向いて帰ろうと改札を通ったその瞬間だった。
胸は甘く、ときめいていた。帰る電車の中で、私はしかし、勝太の通知を見ていた。どうにかしなくてはいけない問題だった。
私は、香山に恋をしている。
それは、当たり前のことのようにも思えたし、奇跡のようにも思えた。
優しいと、自由だと、私を肯定した彼に恋をするのは、そうだ、時間の問題だった。そう、考えながら、しかしこの、胸に迫る甘く苦しいときめきは、勝太の時には一度だって訪れなかったものだ。どうしたらいいのかもわからないほど、私は恋を始めてしまったようだった。
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