10 喪失の夜

 ◆8



「少し帰りが遅くなります。いろいろと予定外のことが起きてしまいまして。ガスパーさんも一緒です。お伝えしたいことが山とあるので、仕事を片付けて待っていてくださると助かるのですが」


 何度聞き直しても同じ声を届けてくる通信端末を机上に置き、スカーレットは掛け時計を見上げた。とりどりの妖精たちで賑わう文字盤は、時刻が9時を回ったことを知らせている。

 彼の助言通りに仕事を切り上げ、寝仕度を済ませて待っていたというのに、当人は一向に現れなかった。手持無沙汰に通信を試みてみても、無機質な呼び出し音が流れるばかりで、繋がる気配はないのだった。


「レンリ……」


 静謐せいひつな室内を、寂しげな声が漂う。ぽっかりと空いた予定を再び埋める気にはなれず、ふらりと自室を抜け出した。

 並んだ扉を二つ超えて、3つ目の扉の前へ。ノブを回して、主が不在であることを確かめる。

 暫時、彼女はその場に立ち尽くしていた。

 通信端末ミミアに音声メッセージが届いてから、すでに4時間以上が経過している。自分自身ならまだしも、彼が約束を違えるなど考えられない。

 不吉な予感が足元にわだかまり、間もなく背筋を這い上ってくる。言いようのない不安感に突き動かされ、自室へと取って返した。

 デスクの引き出しを乱暴に開き、奥から鈴のついた鍵を引っ張り出す。めったに使うことのないマスターキーは、社員に何かあった時のために、社長である彼女が保管している物だ。時折恋人を驚かせる目的で乱用することはあれど、この鍵が適切な理由で使用されたことは未だないのだった。


「っ!?」


 自室のドア枠に肩を強打しながら、逸る足を恋人の部屋へ向ける。


「……」



 マスターキーで開けたレンリの部屋は、普段と何ら変わらぬ内装で訪問者を迎え入れた。

 モノトーンでまとめられた質素な家財。ベッドの上に整然と畳まれた寝具、着替え。机上にきっちり重ね置かれた数冊のスケッチブック。

 整頓された部屋に感じる強い不足感は、主の不在のためだろうか。否、それだけではない。人より脆弱な記憶の海を彷徨って、スカーレットはその正体を突き止めた。

 ないのだ。いつもはそこにあるはずの、魔法絵の筆一式が。


 カロン・ブラックに遭遇したこと。彼がこちらの現状を正確に把握していたこと。逆理の異形が想像以上に危険なものだということ。全て、レンリが戻ったら伝えるはずだったことだ。


「レンリ……」


 彼は、予定外のことが起きたと言っていた。恐らく、本日休みだったガスパーとともに魔法絵を描きに出かけたのだろう。

 そして、そこでアクシデントに見舞われ、帰ってこられなくなった。自分たちがカロンに遭遇していた時、彼等の身にも何らかの危険が降り掛かっていたとしたら。

 加速する思考に待ったを掛けたのは、扉を遠慮がちに叩く音であった。静かに開いた扉の隙間から、夕日色の瞳が覗く。ナナハネだった。

 頼れる社長の顔を用意して、声を掛けた。


「ナナハネちゃん、どうしたの?」

「あの、レンリさんは……」


 泣き出しそうな表情のナナハネを、目線で中へと促す。おずおずと従ったナナハネは、目的の人物の姿がないことを認めてはらりと涙を零した。


「ガスパーがいないんです。ミミアも……繋がらなくって……」



*



「あーあ、つっかれたー!」


 向かい合ったソファーの一つに身体を横たえて、黒髪の少年、もとい、少女ハウは大きな伸びをした。脱力して、細い手足をだらりと投げ出す。

 向かいのソファーで足を組み替えながら、女が話しかけた。


「案内ご苦労様、ハウ。その顔じゃあ、事は上手く行ったようね」

「誘導は満点。魔法書のお土産も喜んでくれたよ。確かにあそこは教会の監視もゆるゆるだし、活動はしやすそうだね。ぜーんぶカロンの読み通りだったよ」


 白銀の短髪、薄紫の瞳。黒尽くめの薄い布地に身を包んだ女は、手首から先のない左腕を頬に添えて、億劫おっくうそうに視線だけを動かした。


「良かったわね、カロン。あなた、参謀になれるんじゃない?」


 青い髪の男は、ソファーの間のローテーブルで広げた紙束の上に肘をついていた。白銀の女に話を向けられたカロンは、顔を上げることなく応じた。緊張感のない声に、たっぷりと喜色を滲ませている。


「裏で動くだけだなんて柄じゃないない。俺は、何の声もしない建物の中なんかより、血と悲鳴と愛憎の渦巻く戦地に立ちたいの。ぞくぞくするじゃないですかー」

「相変わらず趣味の悪い兄さんだこと」


 女から投げられる冷ややかな声。しかしカロンは知っている。その言葉に反意が含まれていないことを。

 そこへ、もう一つのソファーから少し尖った声が掛かった。


「セラフ姉、自信満々じゃない。あんなに堂々と名前を書き残しちゃってさ」

「試してみたくなったのよ。魔法教会が、どこまで私に近づけるかってのを」

「ふーん。いつか後悔することにならないといいけどね」

「安心なさい。ここには絶対に辿り着けないわ。私の『絶対隠蔽』がある限りね」


 興味を失くしたように、ハウは視線を天井へと向けた。色褪せた内壁はしみと傷、そして埃で覆われて、今にも落ちてきそうな四角い光源が薄汚れた光を下ろしている。

 セラフと呼ばれた女は、瞑目して何事かを思案していた。会話は途絶え、無音の空間には外の夜気が染み入ってくるようであった。


「カロンー。どうしたの? ぼうっとしちゃってさぁ」


 沈黙を破ったのは、ハウだった。元より高い声はおもねるような響きを存分に含んでいる。

 床に胡坐あぐらをかき、テーブルに両肘をついていたカロンが、赤紫の優美な瞳を声の主へと流した。物憂げな台詞が続く。


「欲しいなぁと思ってねぇ。勇・者」

「ふーん。カロンもあんないい加減な女がいいんだ」


 大げさに口先を尖らせて、ハウ。カロンは顔を上げた。浮かんでいるのは、嗜虐的な笑みだ。


「俺も男だからねぇ。美しい物を見ると侵したくなるのさ。不意打ちした時の反応、最高だったなぁ。遊び甲斐があるってねぇ。君たちにも見せたかったよ。俺に勝てないと分かった時の勇者の無様な慌て方を」


 カロン、セラフ、二人の手が同時に伸びて、テーブルの中央に積まれた小さな包みを鷲掴む。

 包装を解き、揃って中身を口の中へと放り込んだ。セラフは3つ、カロンは2つ。

 横目に見ていたハウが、ぷいと顔を背けた。浮かんでいるのは、嫌悪の顔だ。


「僕、カロンのそういうとこ、大っ嫌い。あと、二人ともエーテル飲みすぎ。早死にするよ」

「余計なお世話ね。『絶対隠蔽』が使えなくなってもいいわけ?」

「俺等は元々長く生きようなんて思っちゃいないからねぇ。やっぱりエーテルはオリエンス商会のをもらっておかないとねぇ。いつなくなるか分からないしねぇ」

「もう。カロンが死んだら僕も死ぬから」

「うわっ、重っ!」

「はは。じゃあその時は一緒に死んでもらおうかなぁ?」

「僕は本気だから」


 揶揄からかうようなカロンの薄笑いを、少女は真剣な眼差しで受け止めた。



「あれに触れてみて分かったんだけど、本当に規格外なんだ。俺たちとは身体の作りが根本から異なっている。恐らく、生まれながらに完成されていたんじゃないかなぁ? 強力な魔法師としてさ」

「なーにそれ、よく分かんない」

「私は勇者ってのを見たことないから知らないんだけど、兄さん。そんなに強いの? そいつ」


 不満と、懐疑。二つの相貌を順に追った目が、窓の外へと向いた。


「魔力の量が桁違いだったよ。ただの人間じゃないねぇ、あれ」

「べた褒めだねえ」

「大げさに言っているのじゃないよ。あの魔力の感じ、似てるんですよねぇ」

「誰に?」


 自然に聞き返すハウに、即答が返される。心底楽しげな声音だ。

 すぐさま、訝る二つの声が重なった。


「はぁ?」

「脅威って……あいつが?」


 驚愕、戸惑い、疑惑。女たちの顔には、様々な感情がせめぎ合っている。

 カロンは饒舌に語った。


「普通の人間ならちょっと触れれば簡単に殺せるけど、勇者を殺すには相当な時間を拘束しておかなければいけないだろうねぇ。今日だって、ただの人間なら4、5人は殺れるぐらいの逆理を使ったけど、あれはちょっと具合悪そうにしただけで、普通に立っていたんだから。驚いたよ、正直言って」


 外に広がる闇を眺めたまま、目を細め、頬を紅潮させるカロン。その様子は、恋焦がれる乙女のようでもあり、新品の玩具を目の前にした童子のようでもある。


「こんなことがあるか? あぁ、おもしろい……! おもしろいよねぇ!」

「殺れんの? それ」

「俺にならできると思うなぁ」


 カロンは浮ついた足取りで家の中を一周した。妹に冷めた眼差しを向けられていることにも気が付いていない様子だ。熱の籠った弁舌から一転、冷静な声音になって、続けた。


「まっ、親切に教えてあげないと俺たちに見張られていることにすら気が付かない、隙の多い勇者のことですし。いざとなれば感嘆に殺せるのだから、まずはこっちに引き入れることを考えてはどうですかねぇ?」

「だってさ。セラフ姉」


 相変わらず脱力した姿勢のままで、ハウが言う。その顔は不服そうで、どこからどう見ても得心しているようには見えない。


「そうね。魔法教会とやり合うんだもの。もうちょっと戦力が欲しいのは確かだわ。今回の計画で勇者陣営が崩れたら、そのあとで引き摺り込めばいいんじゃない? カロンでもハウでも、どっちでもいいけど」

「いいの? 俺が行ったら、うっかり壊しちゃうかもしれないよぅ?」

「僕は嫌だね。あいつは父さんの仇なんだ。顔を見たら殺したくなっちゃうもん」

「安心なさい、ハウ。いくらあんたが『広域支配』の異形者でも、あんたにあの女は殺せやしないわよ。兄さんの見立てに間違いはないんだから」

「……ふん」


 錠剤の包みをひと掴み取ると、カロンは奥の扉へと歩き出した。ソファーの上の二人に軽々しい言葉を投げる。


「まぁ、これぐらいのことで勇者陣営がどうにかなるなんて、俺は思っちゃいないんだけどねぇ。そうじゃなきゃおもしろくないでしょう? ねぇ、セラフ?」


 扉の前で振り返って、カロンは獰猛に笑った。セラフも負け時といびつな笑みを返す。


「あはは。楽しみだわ。正義の味方のつもりが、実はとんだ邪魔者だったなんて知った時、白き勇者様はいったいどんな顔をするのかしらねぇ? 感動的な告白タイム、絶対に私にも見せてちょうだいよ。カロン兄さん」

「もちろんだよ。特等席で拝もうじゃないか。勇者の心が堕ちるところを、ね」


 古ぼけた扉が開かれ、耳障りな音を立てて閉まる。

 ソファーから身体を起こしたハウは、彼の消えた扉をしばし見つめていた。やがて、小さな口からぽつりと言葉が零れる。


「ねえ。異形者僕等ってさあ、何なんだろうね?」

「生まれた瞬間から全うに生きる道を閉ざされた人間。それが異形者私等よ」


 応じた白銀の女は、全てを諦めたようながらんどうな表情をしていた。


勇者あいつもそうだって言うの?」

「ある意味じゃあ、そうでしょう」


 ハウは露骨に鼻を鳴らした。自嘲と憐憫とをないまぜにしたような憂い顔は、この年の少女にはおよそ似つかわしくない物である。


「哀れだよね。勇者あいつワンライン僕等も、魔法教会の連中もさ」


 彼等は、世界に仇なす亡霊組織、ワンライン。酷薄な策略を胸に秘め、世界の在り方を呪いながら、今夜も安らぐことのない夜を過ごすのだ。

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