第88話『一つの予感』

 激動の八月は終わりを迎え、暦は九月に。夏休みが明けたことにより、学生たちはまた本分である学業に励む日々を過ごすことになる。


 往々にして休み明けというものは気怠いもので、それが夏休みのような長期休みともなれば一入ひとしお。それでも日も経つごとにその雰囲気は薄れていき、一週間もすれば表立って不満を口にする者もいなくなってくる。


 昼休みを迎えた高校の食堂は喧噪にまみれており、学生特有の騒がしさに包まれていた。


 そんな中、やけに鬱屈とした雰囲気を漂わせる者が一人――


「はぁぁぁぁぁぁああああああああ……」


「何だそのクソデカため息」


 身体の中の酸素全てを吐き出さんばかりの長いため息をついた雄一。対面の席に座る雅人は冷ややかな目でその姿を見つつ、食後の温かいお茶(セルフサービス)で一服している。


「ったく、いつまでそうやってしょげてんだか……。そんなモン見ながら飯食わなきゃならなかったこっちの身にもなりやがれ」


「うるせーやい……」


 随分と覇気の無い返事をした雄一は、きつねうどんをずる……ずる……と啜る。すでに食事を終えて食器を返却した雅人と違い、雄一の器の中にはまだ三分の一ほどの麺が残っていた。そのことが雄一の箸の進まなさを如実に物語っている。


「お前、夏休み明けはそんなでもなかっただろ。ここ二、三日で何かあったのか?」


「……別に」


「だからそんなしょげたつらで言われても説得力ねーよ」


 雅人の指摘通り、雄一がこんな精神状態に陥っているのは二日前の“とある出来事”が原因だ。雄一自身もいつまでも落ち込んでいるわけにはいかないと分かっているのだが、今回ばかりはそう簡単にもいかない。


「ふーむ、今のお前をそこまでにさせることと言ったら……やっぱ白取さん関連か?」


「……っ」


「ははっ、分っかりやすいなーお前」


 ビクッと肩を震わせた雄一に笑うと、雅人は少し離れたテーブル席へと視線を送る。雄一も釣られて目を向けると、そこでは今まさに話題に上がった少女が食事のついでに談笑していた。紗菜を始めとするクラスの女子数人と仲睦まじく。いわゆるガールズトークに花を咲かせているようだ。


 澄乃の紫がかった銀髪は、今日も今日とて綺麗なものである。


 少女たちの和気あいあいの風景を眺めながら、雅人はぽつりと呟く。


「白取さん、また一段と可愛くなった感じだよなー。雰囲気っつーか、表情っつーか」


「……そうだな」


 夏休みが明けてからこっち、澄乃の表情には屈託のない笑顔が多い。今までだって柔らかな雰囲気を漂わせる彼女ではあったが、最近はいつにも増して笑顔が生き生きとしている。まさしく、憑き物が落ちたといった様子だ。


 その理由はもちろん、澄乃の母――霞との一件が無事に解決したことに違いない。その内情を知っている雄一としては、澄乃が今、何の憂いもなく笑っていられることをとても嬉しく思う。


 だがしかし、それだけの笑顔は当然他人の目にも魅力的に映るわけで、雅人の言う通り一段と可愛らしくなった澄乃はこれまで以上に異性の人気の的だ。つい昨日も一年生から告白されたらしく、今まで遠巻きに眺めていた下級生らも徐々に恋人レースに参入してきているようだ。


 ちなみに、結果はいつも通り玉砕だったらしい。ご愁傷様……とまでは思わない。今や雄一だって、澄乃のことが好きな男の一人であるのだから。他の奴には負けたくない。


「やきもきするぐらいだったら、さっさと告っちまえよ。夏祭りの時も雰囲気良かったし成功すると思うぞ? これ、煽ってるとかじゃなくて、普通に客観的に見た上での意見な」


「……そういうわけじゃねぇよ」


 雅人に返した言葉通り、雄一が懸念しているところはそこではない。


 いやまぁ澄乃への恋心を自覚した今となってはそこもかなり気になる部分ではあるのだが、とりあえず一旦置いておく。


「…………はぁ」


 変わらず笑顔で話している澄乃を見ながら、またもや重苦しいため息を一つ。


 雄一が抱えている懸念。


 それは澄乃との――“別れ”の予感だ。











 放課後。何となくすぐに帰る気になれなかった雄一は、一人屋上に足を運んでいた。転落防止の頑強なフェンスに背中を預けつつ、ふと首だけ振り返って眼下の校庭を見下ろす。野球部やサッカー部あたりの活気ある練習風景が、何故だか目に沁みるようだった。


「はぁ……」


 本日何度目になるかも分からないため息。早々に二桁超えたので、数えることはすでに放棄していた。


 ――事の発端は、一昨日の昼休みに遡る。雄一が中庭を歩いていると、ベンチに座って嬉しそうに電話をしている澄乃の姿を見かけた。ここ数日はよく目にする光景で、電話の相手は霞とのことだ。


 今まですれ違っていた分を埋めていくように、ありふれた親子の会話を楽しむ澄乃。雄一としても尽力した甲斐があったというもので、肩を弾ませている澄乃を見るとそれだけで頬が緩んでくる。


 一瞬声をかけようかとも思ったが、会話が盛り上がっているであろう様子を見ると、このままそっとしておく方が良いだろう。そう思って背後を通り過ぎようとした瞬間――偶然にも、澄乃のその言葉を聞いてしまったのだ。


『え、またそっちで……?』


 短い文に込められた意味を理解するのに、そう時間はかからなかった。


 そもそもの話、澄乃がこの高校に転校してきたのは霞から離れるための、いわゆる逃避のための行動だ。だが関係が修復された以上その必要も無くなり、親子がまた一緒に暮らすことになるのも自然な流れである。


 つまるところ澄乃の発言の直前、霞から『またこっちで一緒に暮らさないか?』という提案をされたのだろう。


 澄乃は『少し考えさせて』と返事していたので結果こそ分からないが……たぶん、親元へ帰る選択を取るのだと思う。


 澄乃の父である勝が亡くなり、澄乃と霞の関係が歪になってから約四年半。ようやくそれが“普通”のものに戻れた。そのことを大事に享受したいというのもまた自然な流れだ。


 澄乃が帰ることを選択するのなら、雄一はそれに口を挟もうとは思わない。


 ……思わないが。


「はぁぁぁぁぁああああああああ……」


 好きな人が近くからいなくなることを割り切れるほど、雄一は物分かりが良くないのだ。


 別にこれが今生の別れになるわけでもないし、情報社会である現代ならメールや電話でいくらでも繋がれる。今回の夏休みのような長期休暇を利用して会いに行くことだって可能だ。


 けれど、日常的に澄乃の顔を直接見れなくなるというだけで、雄一の心の中の空洞はどんどん広がっていく。


 ……いっそ離れ離れになってしまう前に、この想いを伝えようか。


(でもなぁ……)


 仮に澄乃に告白したとして、OKされる確率は……自分でも言うのもなんだが、まぁ、他の男よりは高いんじゃないだろうか。


 だが正直、タイミングが悪い気がする。晴れて恋人になってもすぐ離れ離れになるし、下手したら、澄乃にとって自分の存在が霞との生活の余計な足枷になるかもしれない。


 それに、だ。澄乃を助けた後に告白するというのは、ある意味断りづらい状況で交際を迫るようなものではないだろうか……? もちろん受け入れて欲しくはあるが、決して無理強いしたいわけではない。


(……いや、違うな)


 結局、自分は怖いだけだ。アレコレ理由を付けて前に踏み出そうとせず、今の関係が壊れかねないことを恐れている。てんでヒーローらしくない、弱虫で臆病な思考だ。


「ヘタレめ……」


 思わず漏れた自分への悪態は、夕暮れの空に消えていく。


 澄乃に手を差し伸べた時の勢いはどこへ行ってしまったのやら。


 そんな自己嫌悪ばかりを繰り返していたところで――不意に屋上の扉が開いた。


「あ。雄くん、ここにいた」


 現れたのは――まさかの澄乃。フェンスに寄りかかったままの雄一を見つけると、彼女は軽い足取りで歩み寄ってくる。


 その姿に雄一の心はざわついて仕方がない。


 夕日を浴びた澄乃の微笑みは、文句無しに綺麗だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る