第71話『つまり、そういうこと』
「あー……いってぇ……」
じきに始まる花火に向けて、多くの人が神社近くの広場に集まる中、花火観賞用に設置された簡素な長椅子に腰かけた雄一は唸る。氷水とビニール袋で作った即席の氷嚢を額に押し当てるが、先ほど殴られた痛みはなかなか引いてくれない。額で受け止めた分、鼻が折れるとかそういった被害は無かったものの、代わりに全ての痛みが額の一点に集約された形だ。
すぐ隣に座る澄乃はその姿を気遣わしげに眺めつつ、ほんの少しだけ呆れたようにため息をついた。
「当たり前だよ。よりにもよって指輪着けてた方で殴られたんだから」
「いやー……単純にあの人、良い
どちらにしても大の男にぶん殴られたのだ。つい先ほどまではアドレナリン辺りがどばどば分泌されたおかげで軽減されていたのだろうけど、そのドーピングが時間切れとなった今では、どうしたって痛みを感じてしまう。
澄乃のために用意した氷嚢も、「雄くんの方が重傷!」と言われて押し付けられてしまった次第である。
まぁ、澄乃を無事に助けられたのなら安い出費だ。
「ごめんね……。私のせいで、怪我までさせちゃって……」
押し当てる角度を変えながら患部を冷やしていると、澄乃がぽつりと呟いた。顔が伏せられて表情は分かり辛いが、暗く沈んでいるであろうことは声音と雰囲気だけで分かる。
雄一はそんな澄乃の額に片手を近付けると――
「こら」
「ひゃうっ」
軽いデコピンを喰らわせた。最小限の力だけ込めての一撃だったが、澄乃は面を喰らったように目を見開く。
「悪いのは強引にナンパしてきた方だ。澄乃はもちろん、雅人や紗菜だってこれっぽちも悪くない」
実のところ少し前、騒ぎを聞き付けて合流した雅人たちからも謝られたのだ。不用意に別れるべきではなかった、と。確かに四人で行動していれば澄乃をあの場に一人で残すことはなかったし、ナンパに遭う可能性も低かっただろう。
けれど所詮そんなのは結果論、謝罪されるほどの理由には足りえない。
「澄乃が無事で良かった。俺はそれだけで十分だよ」
「雄くん……」
慰めるように頭を撫でると、一瞬潤みかけた瞳をすぐに引っ込めて、澄乃は「ありがとう」と柔らかな笑みを浮かべる。桜色に染まったその表情は、文句無しに綺麗だった。
「……いっつ」
何はともあれ結果オーライだが、雄一の額だけはそうもいかない。冷やすのを怠るとすぐに痛みがぶり返してきて、再び氷嚢を押し当てて痛みを和らげにかかる。
すると、何か妙案を思い付いたらしい澄乃から「雄くん」と肩を叩かれた。
「ちょっと横になりなよ。その方が楽だと思うし」
「横になるったって、どこに……」
座っている長椅子は二人でちょうど良いぐらいのサイズだし、よもや澄乃を立たせて自分だけ寝っ転がるというのは気が引ける。
そんなことを考えていると……あろうことか澄乃は、両手で自分の膝をぽんぽんと叩いた。
「ここ」
「……はい?」
「だからここ。私の膝使って?」
もう一度、強調するようにぽんぽん、と。
(……いやいやいやいやいやいや)
まさかの膝枕の申し出に、雄一の心はざわざわと騒ぎ出す。
ありがたい上にとても魅力的な誘いではあるが、おいそれと首を縦に振るわけにもいかない。周囲には花火を見に来た多くの人がいるし、少し離れたところには雅人たちだっている。二人とも気を遣ってこちらをそっとしておいてくれるが、十分視界には入る距離だ。
膝枕なんてしようものなら間違いなく目撃されるし、後々からかわれるのは明白。
どう答えるべきかと雄一が迷っていると、そんな逡巡に業を煮やしたらしい澄乃からがしっと肩を掴まれる。
「ほら、遠慮しないの!」
「いや、別に遠慮とかじゃ――」
是非もなし。
半ば強引に引き倒された雄一の頭を、澄乃の太腿が迎え入れる。浴衣の生地はそれなりに厚いはずなのに、後頭部にもたらされる感触はとても柔らかい。どんな高級枕だろうと、この心地良さには勝てないだろうと断言できるほどだ。
太腿の感触にドギマギするのも束の間、今度は前面からの刺激が雄一に襲いかかった。見上げれば少し恥ずかしそうに頬を染めた澄乃の顔と……浴衣の上からでも確かな存在感を主張する豊かな膨らみが目に入る。
見た目の大きさはある程度抑制されているし、単純な露出度でも以前見た水着姿の方がよっぽど破壊力に優れているのに、これはこれで想像力をかき立てられて心臓がざわつく。
ついでに周囲からも否応なしに視線を感じてしまい、それが余計に雄一の心臓を責め立てていった。
「どう、気持ちいい?」
「あ、いや、気持ちいいけどさ……これはやっぱり……」
「ダーメ、もうしばらくこのまま。……ちょっとぐらい恩返しさせてよ」
「……おう」
それ以上は何も言えなかった。
雄一の怪我は決して澄乃のせいではないが、かといって簡単に割り切れるものでもないのだろう。こうして申し出を受け入れることで澄乃の気が少しでも軽くなるのなら、素直に甘えさせてもらうのはやぶさかではない。
――というのは正直建前で、ものの数秒で膝枕の魅力にすっかり陥落してしまっただけなのだが。
「……ふふっ」
さらっと奪い取った氷嚢を当ててくる中、澄乃は小さく笑った。
「どうした?」
「あ、ごめん、なんか思い出しちゃったの。雄くんと初めて喋った日も、似たような感じだったなぁって……」
「初めて喋ったって……あのゴールデンウィークの?」
「うん。あの時も今日みたいにお祭りで、ナンパに困ってた私を雄くんが助けてくれた」
「……あぁ、そういやそうだったな」
澄乃が二人組のナンパに言い寄られていて、見かねて助け船を出したのがこの関係の始まりだ。
まぁ、雄一が介入してすぐ引き下がった辺り、あの時の二人はまだ物分かりの良い方だったが。
「ごめんな、澄乃」
「え? 何で雄くんが謝るの?」
まるでわけがわからないといった様子で、澄乃は小首を傾げる。
「その……あの時みたいに、もっとそれとなく助けられれば良かったんだけど……あれしか方法がなくてさ」
相手の横暴さに対抗するためだったとはいえ、真っ向から歯向かった雄一の態度が事態を大きくしてしまったのも、また事実。実際軽く騒ぎにはなったし、成り行きを見ていた人からも「警察を呼ぼうか?」と持ちかけられたぐらいだ。これ以上水を差したくなかったので断ったものの、もう少し穏便に済ませることができれば良かったとも思う。
それこそ、こうして澄乃に余計な気遣いをさせることもなかったはずだ。
雄一が自らの行動を悔いていると、澄乃は緩く首を振った。
「雄くんが謝ることなんて、これっぽちもないよ。あの時と同じ――ううん、あの時以上にカッコ良かった」
澄乃が穏やかに雄一を見下ろす。夜の闇にも負けじと輝く、透き通った藍色の瞳。
「助けてくれて、ありがとう」
ただそれだけを告げると、澄乃の顔には満面の笑みが浮かんだ。
「どういたしまして」
雄一も一言だけ返し、澄乃のことを真っ直ぐに見つめ返す。まるで磁石のN極とS極。お互い目を逸らさずに見つめ合っていると――夜空に大輪の花が咲いた。
「あ、花火始まったね」
澄乃に釣られて空を見上げると、すでにそこでは煌びやかな光と音のパレードが始まっていた。大小様々で色鮮やかな花火が、咲いては消え、咲いては消えを繰り返し、遅れて派手な轟音が耳に響く。
「綺麗だね、花火」
一瞬に全てを出し切る花々を眺めながら、澄乃は静かに呟き、それに同調するように雄一も「そうだな」と返す。
本当に綺麗だった。夜空に咲き誇る花火――それを見る、彼女の全てが。
花火の光に合わせて明滅を繰り返す、澄乃の綺麗な顔。広がる光景に輝く瞳も、嬉しそうに弛む口許も、興奮で淡く色付く頬も、何もかもが魅力的で仕方がなかった。
そうして眺めている内に、雄一の口許は自嘲気味に歪む。
(あれしか方法がなくて、か……)
――我ながら、何て白々しいことを口走ったか。
方法は他にもあった。例えば警察を呼んだ振りをするとか、そういった形のもっと穏便に物事を運ぶ方法が。
けれどあの時、今にも泣き出しそうな澄乃を見た瞬間、一切合切が頭の中から吹き飛んだ。
ただ許せなかった。澄乃から笑顔を奪い、あまつさえ泣かせた男のことが、どうしようもないくらい許せなかった。
気付けば駆け出して、澄乃に触れる男の手を力任せに捻り上げて、彼女を守るために自分の身体を張っていた。思考を挟む余地もない、溢れる感情だけに身を委ねた行動。
つまり、
(俺は――)
その涙で、我を忘れるぐらい。
その温もりで心臓がざわつくぐらい。
その笑顔で心の底から嬉しくなるぐらい。
(澄乃のことが――好きなんだな)
それはまるで、パチリと、パズルの最後のピースがはまるような感覚だった。
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