第50話『ごり押し澄乃さん』

 なぜ、よりにもよって、このタイミングで。


 カゴを片手にいかにもお買い物中な澄乃を前に、雄一の脳内ではそんな言葉ばかりがぐるぐると回っていた。


 そもそもの話、雄一と澄乃の自宅はそれなりに距離がある。そしてこのスーパーは雄一の自宅から近い場所にあるので、必然的に澄乃の自宅からは離れた場所にあるということになる。澄乃の自宅周辺のお店事情はよく分からないが、わざわざ離れたところにあるスーパーなんて利用しなくてもいいじゃないかと、そんなことを思わずにはいられない。


 穴があったら入りたいどころか色んな意味で逃げ込みたい雄一を余所に、声をかけた相手が雄一であることを確信した澄乃は嬉しそうに顔を綻ばせる。


 膝丈の薄い水色のワンピースに、昨日とはまた装いを変えたポニーテールの髪型。ほっそりとした白い首筋が強調されて妙な色気を感じさせる。


 そのまま写真にでも収めたい魅力的な笑顔を浮かべる澄乃だが、すぐに怪訝そうに眉を寄せた。


 藍色の瞳が見つめる先は雄一の口許――を覆う使い捨ての白マスク。次にその瞳はゆっくりと下がり、今度は雄一の持つカゴの中身を観察していく。


 スポーツドリンク、ゼリー飲料、レトルトのお粥等々――THE・病人御用達セットの一つ一つを確認していき、そして視線がもう一度雄一の顔に戻った辺りで……すぅとその目が研ぎ澄まされた。


『あ、やっべ』と思った時にはもう遅い。瞬く間に二人の間の距離を詰めた澄乃が雄一のカゴをがしっと掴むと――意外にも柔らかい微笑みを浮かべた。


「他に足りない物は?」


「へ?」


「風邪、引いてるんでしょ? お買い物手伝うから早く終わらせちゃおう? 病人さんがいつまでも出歩いてたら、身体に良くないし」


「あ、ああ……じゃあ、あと栄養ドリンク。向こうの棚にあるから……」


「分かった。カゴは私が持つね?」


「助かる」


 二人分のカゴを携えた澄乃は雄一の指差した方へと足を向ける。その後ろを付いていきながら、雄一はそっと澄乃の後ろ姿を窺った。


(怒ってないのか……?)


 嘘を吐いてまで隠した体調不良があっけなく露見。澄乃のことだから、『また私に変な気を遣って……!』と文句を言ってくるのがありありと想像できて、てっきりお小言の一つや二つは言われるものと思って覚悟していたのにそんな様子は見受けられない。


 雄一が安堵のため息をつこうとした矢先、前を歩く澄乃が「英河くん」と振り返った。


 とても、それはそれはとっても穏やかな笑顔を浮かべて。


「色々と言いたいことはあるけど……治ってからね?」


 にっこり。


「はい……」


 風邪、治ってほしくないなぁ……。


 心の片隅でちょっとそんなことを思ってしまう雄一であった。











「お邪魔しまーす」


 雄一が自宅の玄関を開けると、澄乃は律儀にも一礼してからその扉をくぐった。玄関先でお洒落なリボンサンダルを脱いで、きっちりと踵を合わせて隅の方に置く。礼儀正しいというか、几帳面というか、澄乃のしっかりとした人柄がよく表れた所作だ。


「ペットボトルとかは冷蔵庫で良い?」


 スーパーのビニール袋を下ろした澄乃が問い掛ける。雄一の分の買い物はもちろんのこと、澄乃も澄乃で自分用に色々と買ったらしく、合計二つのビニール袋はそれなりに膨らんでいた。


 どちらもスーパーからここまで運んだのは澄乃だ。最初は片方ぐらい持とうと手を伸ばした雄一だったのだが、澄乃からの圧のある笑顔によってすごすごと引き下がる羽目に。病人は大人しくしていろということらしい。


「ベッドの近くに置いときたいから、一本だけそのままにしてくれ。あとは全部冷蔵庫で」


「はーい」


 雄一の返事に頷くと、澄乃はテキパキとした動きで冷蔵庫の中に買った物を詰め込んでいく。見事な手際に感心しつつ、いつもの癖で何気なく玄関の鍵をかける雄一。


 がちゃりと硬質な音が嫌に響いた瞬間、雄一の心臓がドクンと跳ねた。


 今、この部屋の中にいるのは自分と彼女だけだ。ある種の密室空間に澄乃と二人きりという状況が雄一の血流を急激に早めていく。ただでさえ高い体温が余計に上がったような気分になり、二、三度深呼吸して精神を落ち着かせた雄一は、とりあえず玄関の鍵を外した。精神安定上、何となくそうした方がいい気がしたから。


「英河くんってお昼まだだよね? 食欲はどう?」


 そんな雄一の葛藤など露知らず、冷蔵庫の整理を終えた澄乃が今度はキッチンの流しの下を開けていた。何やら色々と確認しているらしく、視線を巡らせてはふむふむと頷いている。


「食欲は……まぁ、ぼちぼちかな。どっちにしてもろくに食べるモンがなかったから、買い物に出かけたわけだけど」


「そっか。――んー、調味料は一通り……お米もあって……冷蔵庫に卵も少し……。足りない分は追加で買いに行こうと思ったけど、これなら……」


 考え込むようにぶつぶつと呟いていた澄乃が、やがて「よしっ」と納得がいったように両手を握り締めた。そのまま流しの下からボウルやザルを取り出して、これまた淀みの無い動きでキッチンに調理器具を並べていく。


「なるべく早くお昼ご飯用意するから、とりあえず英河くんはベッドで休んでて」


「……ちょっと待て、白取が作ってくれるのか?」


「え、うん。そのつもりで色々買ってきたし」


 そう言って澄乃が手に取るのは、彼女の分の買い物が入ったスーパーの袋。肉や野菜の中身が透けて見える。


 買ったこと自体は把握していたが、てっきり澄乃が自分で使うものだとばかりに思っていた。


「気持ちはありがたいけど……そこまで無理しなくていいぞ? 昼用にレトルトのお粥買ったし」


「英河くんこそ、風邪の時ぐらい無理しないの。こういう時こそちゃんと栄養取らなきゃだし、レトルトだけだと不十分でしょ」


「それは、まぁ、そうだけども……」


「大丈夫。私、お料理は結構自信あるんだよ?」


 むん、と力こぶを作るようなポーズを取る澄乃。生憎とその白い細腕に力強さは感じられないが、自信のほどは伝わってくる。可愛らしいアピールへの苦笑を抑えつつ、雄一は「そこは心配してない」と返した。


 澄乃の料理姿をお目にかかったことはないが、先ほどの手際の良い様子を見る限り、家事全般は得意そうに見える。家庭的なイメージはむしろ澄乃にぴったりなぐらいだ。


「ただ……あんまり長くいると、下手したら風邪うつすかもしれないだろ? 白取だって一人暮らしなんだし、そうなったらキツいと思ってさ」


 雄一の懸念はまさにそこだ。看病を買って出てくれるのは本当にありがたいのだが、それで澄乃の体調まで悪くしてしまっては申し訳が立たない。辛い思いをするのは、体調管理を怠った自分だけで十分だ。


 けれど澄乃は、雄一のそんな心配をふんわりと笑って受け止めた。


「ならさ……もし私が風邪引いちゃった時は、英河くんが看病しに来てよ」


「えっ、俺が?」


「うん、英河くんが」


「いや、でも、俺は……」


「……来てくれないの?」


 しょんぼりとした上目遣いを向ける澄乃に、雄一は慌てて手を振った。


「嫌とかじゃないし、俺で良ければいくらでも看病しに行くけどさ……逆に、白取はいいのかよ?」


「何が?」


「何がって……」


 澄乃の警戒心の無さに思わず絶句してしまう。自分がどれだけ魅力的な女の子であるか、少しは自覚して欲しいものだ。


 これから口にすることには気恥ずかしさを感じてしまうが、雄一は覚悟を決めて口を開く。


「だからその……一人暮らしの部屋に男招いていいのかよって話」


 言い切った後に、雄一は堪え切れずにそっぽを向いた。


 どうあがいても澄乃のことを異性として意識している自身の発言に、否応なしに頬が熱くなる。けれどそれだけ澄乃は魅力的だし、自分も一人の思春期の男なのだ。とにもかくにも澄乃には、その辺りをしっかり落とし込んだ上で発言してもらいたい。


 雄一が澄乃の顔を直視できないままでいると、不意に「ふふっ」と微笑む声が聞こえてくる。


 何だと思って視線を向けてみれば、ほんのりと頬を朱色に染めた澄乃が――


「私はいいよ、英河くんなら」


 悪戯っぽい笑みを浮かべて、そう口にした。


「え……?」


 雄一の動きが止まり、代わりに澄乃の返事の意図を探ろうと脳内が高速回転を始める。


 雄一なら、いい。


 それは果たして、どっちの意味だ。


 自分なら不埒なことをしないと、そう信頼してくれているということ?


 それとも……。


 その先の言葉を想像して、雄一の頬にさっき以上の熱が集まった。言葉にするどころか考えただけで後戻りできなくなりそうで、必死にその考えを頭の隅に追いやる。


 そしてそんな悪戦苦闘する雄一の様子を見て、澄乃は思わずといった感じで吹き出した。


「あははっ、ごめん、冗談。ちょっと嘘ついちゃった」


 ぺろっと舌を出して澄乃が謝る。大変可愛らしい姿なのだが、さすがに雄一としては物申したい。


「おまっ、白取……! 冗談でも言って良いこと悪いことが……!」


「はいはい。お詫びに栄養あるご飯作りますから、英河くんはベッドにゴー」


 文句などどこ吹く風。雄一の背後に回り込んだかと思うと、澄乃はぐいぐいと背中を押してキッチンから追い出しにかかる。珍しく力技な澄乃にあっけなく敗れ去った雄一は、尚も恨めしい視線を向けながらも大人しくベッドへ向かった。


 家主のいなくなったキッチンで、一人残された澄乃はどこか熱っぽい吐息を吐く。


「英河くん“なら”じゃなくて……英河くん“が”いいな」


 もちろん、その呟きが雄一に届くことはなかった。

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