47. 曇天 - Cloudy sky -
分厚い雲間から柔らかな日差しが差しこんでくる。
外からは、人々の営みの喧騒が響いてくる。
ここは、ウォルサム・フォレスト区、町はずれの閑静なところにあるジョリエット病院。窓際のベッドの上に大の字で寝転び、雑誌をひらいているひとりの男がいた。
「だーっ、暇だ」
読んでいた雑誌を、そばの床頭台へ放り投げ、アーロン・アローボルトは大きくため息をついた。銀行強盗事件に鉢合わせ、腹部に鉛玉が突き刺さるという大怪我を負い、現場から近かったこの病院へ問答無用で入院させられているという状況だ。
目を覚ましたときにはすでに手術も終わっていたが、当然すぐに退院はできない。痛みと発熱にうなされる中、見舞いに来たモッズコートがトレードマークの先輩刑事に、べつの事件に巻きこまれた挙句大怪我してるんじゃねぇ、と無謀な行動を諌められた。
彼の話では、人質の中でアーロン以外に怪我を負ったものはいなかったとのことだが、ただ、血を噴いて倒れた強盗犯の男だけは命を落としたらしい。あの中で怪我をしたのは自分だけという結果には一安心だったが、犯人に拳銃を向けられたあの女性は大丈夫だっただろうか、とアーロンは窓の外の風景を見つめながら思った。
そんなとき、病室に入ってくる足音があった。同室には、ほかにも入院患者がいるため、見舞いや看護師など、病室に立ち入ってくる人はそれなりに多い。アーロンもまず自分に用のある人の来訪だとは考えず、そちらには視線も向けなかった。だが、足音はアーロンのベッドのそばで止まる。
「あの~……」
控えめに話しかけられて、はじめてアーロンは風景を見ていた顔を室内に向けた。
そばに立っていたのは、色白の肌に艶のある栗毛のショートヘアがきれいな女性。コートとブーツに、両手には皮の手袋。気合の入った防寒グッズに身を包んでいる人だった。
「お、あっ、あなたは……」
アーロンは目を丸くして起きあがる。腹筋に力が入ったことで傷口から痛みが走ったが、それよりも驚きのほうが勝った。面差しが特徴的な人ではない。どこにでもいそうな二十代前半ほどの女性だが、アーロンにとっては強烈な印象を残していた人だった。
「あのとき、助けていただいたエレン・マクレインと申します。先日は、本当にありがとうございました」
深々と腰を折る彼女は、先日の銀行強盗で一緒になった女性だった。
「あぁいや、でも、どうしてここが?」
予想外の人物の急な来訪に動揺するアーロンだったが、ふと湧いた疑問を口にした。
「えっと、モッズコートの刑事さんに教えてもらったんです。お礼を伝えたいからって言うと、快く教えてくださって」
「なるほど」
「あの、それで……これを」
エレンと名乗った女性は、おそるおそるといった様子で、持っているトートバッグをアーロンに差しだした。
「手術をされたばかりと聞いて、食事の制限をされているかもしれないとは思ったんですけど、ほかにお礼らしいお礼が思いつかなくて……パンを、焼いてきたんです。よかったら、どうぞ」
彼女から手渡されたバッグの中には茶色い紙袋が入っており、それを開けると甘くかぐわしい香りがあふれてきた。中を覗きこむと、丸々としたパンがたくさん詰められているのが目に入る。
「いいんですか?」
「はい、もちろん」
微笑む彼女の返答で、アーロンは早速紙袋の中へ手を突っこんだ。
「病院食は味気なくて食った気がしなかったから、ありがたい限りだ」
焼いてすぐに持ってきたのか、まだほんのりと温かなパンに思いきりかぶりつく。芳醇な香りが口いっぱいに広がり、中から甘酸っぱいマーマレードがあふれてきた。
「うまい、こんなうまいパンはじめて食いましたよ」
「本当ですか? よかった……」
エレンはほっとした様子で胸に手を当てていた。ひとつめを平らげ、次のパンへと手を伸ばそうとしたところでアーロンは手を止める。
「いや、でも……謝らなきゃいけないと思ってたんですよ」
「え?」
「俺が周りも顧みずに、犯人を取り押さえようとしたことです。上司からもしこたま叱られました。俺が無謀な真似をしなければ、あなたが人質に取られることも、犯人のひとりが死ぬこともなかっただろうと」
手もとに視線を落とし、アーロンはつづけた。
少しばかり重い空気がただよう。偶然、ちょうど周りの物音や病室の外から聞こえてくる喧騒がやみ、一瞬だけ静寂が生まれた。
「あれは、私が……」
ゆえに、うつむき気味でぽつりと呟いたエレンの言葉は妙に響いて聞こえた。目立ってしまったと彼女も感じたのだろう。
「わ、私を庇ったせいで、刑事さんが大怪我をしてしまったので、助けてもらったお礼もなんですけど、まず謝らなきゃと思って、それで……来ました」
がばっと面をあげ、口早につづけた。
「いや、俺は全然。もう大丈夫だって言っても、医者が退院を許してくれなくて」
問題ないというように、アーロンは腹を軽く叩いた。完治こそしていないが、このままベッドの上で新聞や雑誌、テレビを見るだけの生活を送っていると、べつの病気にかかってしまいそうな気がしてくる。
「あと、ひとり口うるさいナースがいて、酒もタバコも許可してくれないんですよ。病気でもないし、単なる怪我だから問題ないって言ってんのに」
入院生活の愚痴をこぼしながら、アーロンは紙袋に手を突っこみ、パンを取りだしてかぶりついた。次のパンは小さく刻んだクルミが生地に混ぜこまれた、素朴な味のパンだった。プレーン味と表現するのが適当なパンでも、今まで味気ない病院食ばかり食べていたアーロンにとって、彼女が焼いてきたパンはじんわりと全身に染み渡るような美味さだった。
退院すれば好きなものを好きなだけ食べられる。仕事もしばらく内勤にまわしてもらえば大きな問題はない。やはりもう一度、主治医へ退院の旨を頼んでみよう、と考えながらパンを頬張っていると、白衣に身を包んだ恰幅のよい女性がひとり、病室へ入ってきた。その人は、アーロンが手に持っているものを目にするや否や、ずかずかと病床へ歩み寄り、
「アローボルトさん! 食事の時間でもないのに、なにを勝手に食べているんですか!」
と声を荒げた。
噂をすればなんとやら、ちょうど話に挙げていた例の看護師の登場に、アーロンは目が点になる。
「いっ、いやこれは……」
しどろもどろになるアーロンの手から、看護師はパンを奪い取り、
「アローボルトさんは大怪我をして入院しているんですよ! 勝手な真似をされては、早く治るものも治りません! まだ傷は完全にふさがっていないんですからね!」
「はい……すんません」
「あ、あの」
看護師に叱られ、身を縮こまらせるアーロンを見かねたのか、エレンがおずおずといった様子で口をひらいた。
「それ、私が作って持ってきたんです。なので、彼はなにも悪くなくて。すみません」
彼女がそう言って頭をさげると、看護師はわかりやすく驚いた反応を示した。
「まぁっ、いつもむさ苦しい男の人しかお見舞いに来ないから、女っ気のない人だと思ってたのに。アローボルトさん、あなた可愛らしい彼女がいるんじゃないの」
「っ!?」
パンを取りあげられたために仕方なく、水筒の水を飲んでいたアーロンは思いきり咳きこんだ。
「だっ、大丈夫ですか!?」
ぼたぼたと口からこぼれる水で病衣を濡らすアーロンへ、慌てたエレンがバッグの中からハンドタオルを差しだす。それを受け取って胸元を拭いつつ、
「彼女は、そっ、そんなんじゃない……!」
ゲホゲホと噎せながら、アーロンは弁明を口にした。
「そ、そうです。私はただ、お礼に来ただけで……」
「この人、大怪我をしたばかりなのに、ちっともおとなしくしないで勝手な行動ばかりなのよ。あなたからもしっかり言ってあげてちょうだい。医者や私たちの言うことをしっかり聞くようにって」
話をほとんど聞いていないらしい看護師は、それだけ言ってアーロンの病床を離れた。ベテランらしく手早くほかの入院患者の様子を確認してから、病室を出ていく。
「あ、あー……すみません、早とちりな看護師で」
「い、いえ……」
なんとも微妙な空気が立ちこめる中、アーロンが先に口をひらいた。対するエレンは、うつむいてもじもじしたまま、小さく首を振る。
ただ、この看護師の勘違いが、強引にふたりの意識をお互いへ向けさせたことに違いはなかった。アーロンが退院するまで彼女は足しげくお見舞いに顔を出し、次第に互いの距離も縮まっていき、交際に発展するのにそう時間はかからなかった。
そんな彼女はどこか、不思議な雰囲気のある人だった。画家の仕事をしているという彼女の絵が、よくある風景画や人物画ではなく、抽象画だったことがその印象に拍車をかけていたのかもしれない。
芸術の知識やセンスがからきしなアーロンには、彼女が描いた絵をなにを書いているのか、説明を受けてもなかなか理解は難しかったが、楽しそうに絵を描いている彼女を眺めるのは好きだった。
幸せという言葉の意味を、日々の生活の中で実感するようになったのは、彼女と出会ってからのことだった。
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