29. 月の雫 - Moon Drip -
カランカラン。
アーロンがコーヒーを飲み干したと同時に、入店を知らせるベルの音が響いた。男三人の視線が、一斉にドアへと向く。扉を開け入ってきたのは、ひとりの若い女性だった。暗いストレートヘアを後ろで括り、パンツルックの動きやすそうな軽装に身を包んでいる。全体的にスラリとしていて、スポーティーな印象を受けた。
「いらっしゃいませ」
「あの~……ここって、オカルトに強い喫茶店だって聞いたんですけど」
装いからはイメージがつきにくい彼女のその言葉に、男三人は互いに目を見あわせる。
「なにか、ご相談でもおありでしょうか?」
「あ、はい。そんなところです」
店主であるヴォルフガングがまず尋ねると、彼女はコクリと同意した。
「どうぞ、こちらへ。なにかお飲みになりますか」
「それじゃあ、アールグレイのブラックをお願いします」
注文をしながら、彼女もカウンター席へ座る。そして、ひとつ空席を挟んで座っているアーロンをじっと見つめた。
「……俺の顔に、なにかついてるか?」
無視しようとしたがどうにもむず痒く、たまらずアーロンは口をひらく。
「あっ、いえすみません。失礼ですが、どこかでお会いしませんでしたか?」
そう言われてはじめて、アーロンも彼女の顔をまっすぐに見つめた。見た目だけで判断すると、彼女の年齢は二十歳くらいか。もしかしたら未成年である可能性も捨てきれない。そこまで若い女性の知り合いは、アーロンにはいない。せいぜい、気も目つきも鋭い舞台女優がひとりだ。
「いや、俺に覚えはないが」
「あれ、それならあたしの勘違いかな」
「それで、ご相談というのは?」
首を捻っている彼女に飲み物を差しだしながら、ヴォルフガングが話を促した。
「あぁ、えっと……相談、というほどではないんですけど」
こほん、とひとつ咳ばらい。
「
首を捻るアーロンとノアだったが、ひとりだけ、ヴォルフガングは少し驚いた様子で、
「久しく聞いていなかった名前ですね。あなたは、どこでその花のことを?」
「父が、その花に執心で。毎日のように分厚い本を読み漁っては、植物研究に没頭しているんです」
「父親は、植物学者かなんかか? こんな場末の喫茶店で話すようなことじゃないと思うんだが」
ペンドラゴンがオカルトチックな相談に乗っている喫茶店だということはしっかり承知のうえで来店しているらしい彼女の口から出た話は、どこか方向性がずれているように思えた。が、半ば呆れの色を滲ませるアーロンとは対照的に、店主であるヴォルフガングは真面目に耳を傾けている。
「お父様には、なにか叶えたい願いでもあるのでしょうか。例えば、死者に会いたいとか」
「はぁ?」
ヴォルフガングが口にした言葉は、端的に言って突拍子もないものだった。思わず、アーロンの眉根が寄る。
「月の雫という花は、魔術に関連して知られていて、半ば伝説と化しているとても珍しい花なんですよ。古い魔術書には、よくその名前が登場します。その花を材料にした魔術は、死者を生き返らせるとか、どんな病気も治す薬になるとか、後世には誇張されてどんな願いも叶うとまで言われるようになったほど、とても優秀な魔術の材料として、多くの魔術師が追い求めたと聞いています」
「マスターさん、とてもお詳しいんですね」
スラスラと語るヴォルフガングの話に、彼女は感心した様子で目を輝かせた。しかし、それでもなおアーロンの表情は晴れない。
「それはただの伝説だよな? そんな力を持つ花が実在するとは思えねぇんだが」
「お前がオカルトに懐疑的になってどうする」
元刑事としての性か、疑うことからはじめてしまうアーロンに、隣に座っているノアが呆れたような顔で口を挟む。
「ですので、お父様にはなにか、魔術に縋ろうとするほど強い願いがあるんだろうと」
「たぶん、母のことなんです。亡くなってはいないんですけど」
一瞬、彼女の表情に陰りが見えた。
ロンドンのとある大学に通う、メイ・ファレルと名乗った彼女は、とつとつと本題を語りはじめた。
心神喪失というか、意識障害というか。意思疎通もできないし、喋ることもしないんです。自活能力がまったくなくて、身のまわりのお世話は父とふたりでやっていて。
昔はとても元気だったんです。持病もなくて、風邪もひかない病気知らずの母でした。
もう、八年くらい前になります。あたしと買い物の帰りに突然、意識を失って倒れたんです。そのときはすぐに持ちなおしたんですが、それから母は少しずつ物忘れをするようになったり、言葉が出てこなくなったりして……医者を頼っても原因はわからなくて、脳の働きが少しずつ弱まっているとしか考えられないとしか言われませんでした。
いろんなことを試しましたし、お医者さんも手を尽くしてくれました。それでも、母の症状は日に日に悪くなるばかりで、今ではもう、さっき言ったようにほとんど反応を返してはくれなくなって。最後に父が頼ったのが、その花という感じです――
いつの間にか、ノアは目を閉じて両腕を組み、彼女の話に耳を傾けていた。
「それで、アンタはどうしてほしいんだ? 親父さんにその研究とやらをやめてほしいのか」
アーロンのその言葉には、メイはゆっくりと首を横に振った。
「今の父にとっては、それが生きがいになっているようで、やめてほしいとは言いづらくて。でも、寝食も惜しんで没頭している姿を見ると、父の身体のほうが心配になるし、そもそも、魔術なんて非科学的なこと、やってて危なくないのか、とか。そういう心配もあります。あたし自身、ちょっと調べてみたりしたんですけど、あまり詳しいことはわからなくて。こんな話、どこに相談したらいいかもわからないし」
困ったような笑みを浮かべる。
「そんなときに、バイト先の人から、オカルトに詳しい喫茶店があるらしいから相談してみればと言われて、お邪魔した次第です」
一連の話に、店主であるヴォルフガングは〝なるほど〟と首肯した。
「月の雫は単なる素材という意味合いが強いですし、毒草というわけでもないので、特に危ないことはないと思いますが。ただ、求める効果が得られるかはわかりませんね」
その話に、メイはほっとしたような安堵の表情を浮かべた。
「父も、なにか手を尽くさないと気が収まらないという感じだと思いますし、安全だというだけでひとまず安心しました。あたし、ちょっと責任を感じてたので」
「責任?」
「はい。父がオカルトに熱をあげたのは、あたしのせいかもしれなくて」
「どういうことでしょう」
「母が意識を失ったときに見た気がするんです。白く光り輝く天使のようなものが、ものすごい速さで空から降ってきて、母に重なったのを」
天使。
意外なワードに、ヴォルフガングは興味を示し、アーロンはさらに突飛な話になったと頭を掻いた。
「それをあたし、父に伝えたんです。あまり深くは考えずに、軽い気持ちで。でも父は、それを深刻に受け取ったようで、母にはなにか悪いものが憑りついているって思っているようなんです」
今まで難しい顔をして黙っていたノアが、腕組みを解き、小さくため息をついた。
「もう頼れるのは真偽不明の伝承だけ、か。ま、医者もお手上げとなれば、そう考えるのも無理はないと思っちまうな」
アーロンはというと、悪いものが憑りついている、という彼女の言葉に反応した。
「そう思ってるなら、たとえば、悪魔祓いに頼ったりはしなかったのか?」
「父は頼ろうとしたみたいです」
彼女の返事に、やっぱりか、と内心で納得する。
「でも、カトリックにおいて悪魔が憑依しているという判断をするには、いくつか条件があるみたいで」
「四つの規定、ですね」
はい、とメイは頷いた。
そのまま、ヴォルフガングが説明をつづける。
「人知を超えた力を発揮する。本人が知らない言語や、本人のものではない声で話す。本人が知りえない事柄について知っている。十字架や聖水、教会関係のものや神聖なものに対し冒涜的になる。こういった症状に当てはまってはじめて、悪魔に憑かれていると診断されます」
「母の場合、どれにも当てはまらないんですよ。なにせ、喋らないし反応もしないので」
たしかに、話を聞く限り、悪魔憑きの診断は能動的な行動を引き起こした場合にのみ言及しているように思える。もし仮に彼女の母に悪魔が憑いていたとしても、なにもアクションがなければ、教会としては判断できないということなのだろう。
「だから、教会からも医者を頼れとしか言われなかったみたいです」
「なんだ、試しにでもやってみてくれりゃいいのにな」
ノアがさらりと口にする。
いかにも、宗教を信じていない人間の言いそうな台詞である。
効果なんてなさそうだから、やってみても悪い方向には転ばないだろう、とでも言いたげだ。
「そうはいきません。カトリックの悪魔祓いには、れっきとした決まりがありますから。悪魔に憑かれているという認定から、悪魔祓いをおこなうかどうかの判断まで、個人の一存で決められるものではないんです」
ヴォルフガングがノアに話をしているそばで、アーロンは眉尻を落とし、彼女へ向きなおった。
「結局、なにかできることがあるとは、思えないんだが」
「あっ、そうですよねすみません。どうにかして母を助けてほしいっていうことではなくて、その、ただ話を聞いてもらいたかったというか……こんな話、なかなか周りにはできないので」
「まぁ、そうだよな」
うんうん、とノアがうなずく。
「こんな話を真面目に聞いてくださってありがとうございました。月の雫についても少しは知ることができたし、いい息抜きになったというか、よかったです」
ふふ、と柔らかい笑みを浮かべる彼女に、アーロンはやっと愁眉をひらいた。
「こんなところに話に来るんだから、てっきり魔術の手伝いでも依頼されるのかと思ったが」
「あはは……あたし自身は、あんまり信じてないというか。お父さんも、心底から信じてやってるわけじゃないとは思うんですけどね」
案外、メイ・ファレルという女性はリアリストな一面があるらしい。こういった事例は家族ぐるみでオカルトやスピリチュアルな方向へはまっていく印象があったが、彼女の家庭はそうでもないようだ。
「それにしても、願いを叶える魔法の花か……嬢ちゃん、よかったら親父さんが育ててる花を見てみたいんだが」
急に隣から、突拍子もない言葉が飛んできた。ぐるりと首をまわすと、ノアがニッコリと彼女に笑顔を向けている。
「アンタ花なんかに興味……」
思わずそうこぼれたが、すべてが口から漏れる前に足の爪先から重い衝撃が立ちのぼった。
「いッ」
「なぁ、マスターも興味あるんじゃねぇか?」
顔を歪めるアーロンの隣で、ノアは対面に立っているヴォルフガングへ話を振る。
「そうですね。お母様の病状というのも、どんなものなのか見てみたい気もします。力になれるかはわかりませんが」
その言葉に、メイはぱぁっと表情を明るくした。
「それなら、うちにいらっしゃいますか? 家はハーリンゲイなので、ちょっと距離がありますけど。普段はウエストエンドの喫茶店でアルバイトをしてるので、待ち合わせなら簡単にできます」
「そりゃ都合がいいな、まず寄らせてもらおうか」
アーロン以外の三人で話が盛りあがり、メイは懐から一枚の小さな名刺を取りだした。隣に座っていたアーロンがそれを受け取り、手渡された札に記されている文字に目を落とす。
喫茶ホワイトシープ。
その名を目にした瞬間、アーロンは硬直した。
脳がぐるぐると回転し、最近あった出来事が走馬灯のように思い返される。
ここではじめて、彼女のことを思いだした。
「おい、どうした?」
声をかけられ我に返る。
顔をあげると、三人から怪訝そうな視線を向けられていた。男ふたりはともかく、メイ・ファレルの丸い双眸に射抜かれると、思わず視線をそらしてしまった。
ごほん、とわざとらしい咳払いをし、アーロンはなんでもないと返しながら名刺をノアに押しつける。
そして、メイが退店するのを見送ってから、不本意な流れになってしまったことの責任を元上司に求めた。
「おい警部、いきなり花が見たいなんてどういう風の吹きまわしだ」
ギロリ、と琥珀色の瞳が突き刺さるが、当の現職刑事はどこ吹く風で、
「そりゃあもちろん、調べてみるんだよ。魔法の花なんて、もしかしたらクスリの暗喩かもしれねぇだろ」
ニッ、と笑みを浮かべてサムズアップした右手を突きだした。
その態度にアーロンはすっかり毒気を抜かれてしまう。
ヴォルフガングが毒草ではないと言ったばかりにもかかわらず、すべてを疑うくらいの心持ちでいるらしい。仕事熱心な元上司に呆れるほかなかった。
冷静になった頭で考えてみる。警官が内偵に行こうとしているのを、部外者である自分がどうこう言うこともない。
「まぁ、俺には関係ないからいいが」
「なに言ってる。お前も一緒に来い」
しかし、ノアはずいっと顔を近づけてきた。
「なんでそうなる、クスリにも魔法の花にも興味ねぇよ」
「いやいや、願いが叶う魔法の花が本当の話ならお前も頼れるだろ。な!」
「な! じゃねぇよ、カケラも信じてねぇくせに」
バシバシと背を叩いてくるノアの手を払い、アーロンは毒づく。ひょうひょうと口車に乗せようとするのは彼の常套手段だ。そしてそれに乗っかったのはアーロンではなく、店主のヴォルフガングだった。
「月の雫が本物なら、
はじまった、とアーロンは内心でぼやく。
「いや、俺が見たってわかんねぇって」
「白い花ですのですぐにわかると思いますよ」
「そう言われてもな」
「彼女の母親が悪魔に憑かれている可能性だってあるだろ?」
「それも俺が見たってわかんねぇよ」
追い打ちのように同伴させる理由を付け加えてきたノアに対しても、アーロンは口を尖らせる。が、
「大丈夫ですよ、アーロンさんがどう見るかを伝えていただければ」
と、これにもヴォルフガングが要らないフォローを足した。
退路をことごとく断たれ、アーロンは閉口する。このふたりはなにがなんでも自分を巻きこむつもりでいるらしい。もっとも、ノアは単に同伴者がほしいだけで、ヴォルフガングのほうは単なる興味関心とそれぞれ理由は異なっているのだが。
なにがいったいそこまでふたりを駆り立てるのか。
理解できないまま、アーロンは返事の代わりに大きなため息を吐きだす。
そして、その機会は案外すぐに訪れた。
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