短編小説『真の愛』
川住河住
第1話 お嬢様と執事と不思議なこと
屋敷の玄関前を掃除していると、左ハンドルの高級車が門をくぐるのが見えた。
腕時計を確認したらまだ二時にもなっていない。
いくらなんでもお帰りが早すぎる。
なにかあったのかもしれない。
私は掃除の手を止めて、深々と頭を下げたまま到着を待つ。
車が玄関先に停まるとすぐにドアは開き、中から着飾った女性が飛び出してきた。
「ただいま!」
その人が私の胸に飛び込んできた瞬間、心臓の鼓動は速まり、顔が熱くなるのがわかった。
胸の高鳴りに気づかれないよう、そっと体を離してから平静をよそおって話す。
「おかえりなさいませ、お嬢様」
「
お嬢様はこちらの気も知らずに顔を近づけて話す。
その姿は、保育園であった楽しいことを親に話したがる子どものようだった。
もし自分に子どもがいたらこんな感覚だろうか。
笑みを浮かべて目を輝かせる彼女の話ならいくらでも聞いてあげたい。
だが今は自分の職務を遂行しなければならない。
私は落ち着き払った声でお願いする。
「お話は聞かせていただきます。しかし、その前に着替えをなさってください」
「着替えなんてあとでいいわ。そんなことより……」
「お嬢様。どうかお願いします」
「わかったわ。部屋で待っているからすぐに来てちょうだい。これは命令だからね」
不満そうに、
そんな姿もまたかわいらしいと思ってしまうのは……惚れた弱みだろうか。
しかしこの想いは届かない。
決して届くことはないのだ。
なぜならお嬢様は、私のことを使用人としか見ていないから。
お嬢様と初めて会った日のことは今でもハッキリ覚えている。
当時大学生だった私は、就職活動をしていた。
これといって志望する業界も職種もなく、周りの人間がやっているから自分もやる。そんな熱意も希望もないダメ学生に内定が与えられるわけもなく、書類選考すら突破できないほど難航していた。
見かねた父が、自分の仕事を継ぐ気はあるか、と提案してきた。
その仕事とは、ある大企業の社長とその家族が住む屋敷の管理と家事全般。
いわゆる『執事』というやつだ。
父は先代社長の頃から働いており、そろそろ屋敷の仕事を他の人に任せて秘書にならないかと今の社長に誘われているらしい。
そこで就職活動中の私に声がかかったというわけだ。
最初は断るつもりだった。
まじめで勤勉な父とは違い、不真面目で怠惰な私に務まるわけがない。
期待に応えるどころか父親の顔に泥を塗るはめになる。
とはいえ、すぐに断るのもまた失礼にあたるかもしれない。
まずは詳しい仕事内容や雇用条件について聞いてからでも良いだろう。
私は菓子折りを持って屋敷を訪れる。
現れたのは小柄で細身の女の子。
落ち着きある紺色のブレザーを着て、チェック柄のスカートを履いている。
それがお嬢様だった。
こういった屋敷で客を出迎えるのは、使用人の役目だと思っていたから驚いた。
考えていたあいさつの言葉も、お断りの謝罪も一瞬にして吹き飛んだ。
緊張してなにも言えない私をお嬢様はジッと眺めた後、突然笑い出した。
なにがそんなにおかしいのか。
顔に変なものでもついているのか。
「ごめんなさい。執事のお子さんが来ると聞いていたから、どんな怖い人が来るかと心配だったの。でも来たのはとても優しそうな人だったから驚いちゃって……本当にごめんなさい」
私が知る限り、父が怒ったり暴力を振るったりしたことは一度もない。
むしろ虫も殺せないほど優しい性格をしていると思う。
ただ、お嬢様が怖いとおっしゃることも同意できる。
なぜなら父は見た目が怖いのだ。
黙って立っているだけで威圧感が半端ない。
泣いている子どもが泣き止み、その筋の人からも恐れられそうなほど極悪な面構えだ。
もしかしたら社長は、秘書でなくボディーガードとして父を雇いたいと思っているのではないかと邪推してしまう。
会ったばかりの女の子に謝らせるのは申し訳ないと思ったので適当な言葉を返す。
「こちらこそすみません。私は母親似なんです」
その一言でまた笑い出すお嬢様。
気づけば私もいっしょに笑っていた。
あの時お嬢様に出会っていなければ、私はここにいなかったかもしれない。
そう考えるとまた笑いがこみ上げてくる。
部屋の前に着いたのでノックしてから呼びかける。
「お嬢様。お茶をお持ちいたしました」
返事はない。
「お嬢様。大丈夫ですか?」
もう一度ノックするとようやく返事が届いた。
失礼しますと言ってから入室する。
お嬢様はすでに着替えを終え、鏡を見ながらネックレスを外しているところだった。
「真さん。お願い。取ってくれる? どうしても外れないの」
お嬢様はネックレスに悪戦苦闘しながら鏡越しに呼びかけてくる。
私はティーポットとカップの載ったお盆をテーブルに置いてから背後に立つ。
肩まで伸ばしたきれいな髪。
その下にのぞくうなじは色白で透き通るような肌をしている。
惚れ惚れするほどの美しさ。
どんな女優やモデルよりもお嬢様の方がはるかに美しいと断言できる。
今までどんな人と付き合ってもどこか冷めていた私が初めて愛おしいと思えた人。
しかしこの恋は決して報われない。
報われるわけがないのだ。
「真さん?」
また鏡越しに呼びかけられてすぐに顔を上げる。
不思議そうに首を傾げるお嬢様の顔と苦悩の表情を浮かべる私の顔が映っていた。
「申し訳ありません。すぐに外します」
謝りながら首にかかったネックレスに手を伸ばした時、お嬢様の柔らかな肌に少しだけ触れてしまう。
「あはは。くすぐったいよう」
「動かないでください。このままでは外せません」
楽しそうに笑うお嬢様につられて私も笑みがこぼれる。
高校生だったお嬢様も成長して今は大学生。
『華の女子大生』なんて古臭いかもしれないが、
とはいえ、まだまだ子どもっぽいところが抜けていない。
社長は「早く大人になってほしい」と言っていたけれど、私はこのままでいてほしいと思っている。
ずっと、いつまでも、このままで。
カップにお茶を注いでいる間にお嬢様が鞄からなにか取り出した。
テーブルに置かれたそれは透明な袋に赤いリボンが結ばれている。
中には丸や四角、星や花などいろいろな形のクッキーが入っている。
帰ってくる途中で洋菓子店に寄ったのだろうか。
お嬢様は甘いもの、いや食べることが大好きな方だから。
それでいて体型が細いままなのはうらやましい。
お嬢様はクッキーを一枚かじる。
それから私の淹れた紅茶を飲んだ。
「おいしい」
柔らかな唇から言葉がもれる。
それはクッキーか。それとも紅茶か。
どちらでもいい。
お嬢様が喜んでいるなら私にとっても喜ばしいことだから。
ふと熱い視線を送られていることに気づいた。
お嬢様の目は口ほどに物を言う。
きっとお見合いの席であったという不思議なことを話したくて仕方ないのだろう。
本当に子どもらしくてかわいらしい人だ。
このまま気づかないふりをして困惑する姿を見ていたい。
だがそんなことをしたら彼女の機嫌を損ねてしまうかもしれない。
けれど怒った表情もまた魅力的なのだ。
どうすべきか自問自答した末、ようやく結論を出した私は口を開く。
「お嬢様」
「なあに?」
「お見合いの席でなにがあったのか、聞かせてくださいますか?」
お嬢様は、パッと笑顔の花を咲かせてうれしそうに語り始めた。
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