辛いことから逃げないと、何も救えない。

 その日、社内は騒然とした。


「く、鞍井君……。それ、本当かい……?」

「そっすね。あ、やっぱ、まずかったすか?」


 崩壊寸前の帝泉グループから奪ってきたクライアントたちの機密情報が漏れてしまったのだ。それも、鞍井の使っている社内PCにコンピュータウィルスが仕掛けられたことが原因だという。


「なんか、しらないUSBメモリが置いてあって、データって書いてあったから使うやつだと思ったんすよ。」

「それは…、鞍井君……。えぇ…」


 さすがの部長も言葉が出ないらしく、頭を抱えたまま何も言わない。そもそもうちの会社では、データのやり取りを自社内だけのメールでしか行っていないため、USBメモリを使うことはあり得ない。さすがにカバーしきれないミスであり、部長は茫然としたまま動けなかった。


「まずいよね……。今度は首が飛ぶ……。うっそだろぉ……。」


 周りのデスクに座る社員も異常事態に気づいて、ざわつき始めた。と同時に一声に鳴り響く電話の音。情報漏洩に気づいたクライアントたちからの抗議の電話だろう。


「まずくないですか……?」

「まずいなんてレベルじゃないよ。下手したら会社がつぶれる。」


 いつもは髪で隠して見えない陰山の表情も、この状況では焦ったようなものになっていることが伺える。騒然としているオフィスだが、大きな咳払いと共にやってきた専務によって静まり返る。


「鈴木君、鞍井君、あと、虹村君。少し来なさい。」

「うっす。」

「は、はひ……。」


「大丈夫ですか?」

「ああ、多分な」


 部長と鞍井と共に専務室までいく。縁もゆかりもない一室だと思っていたが、ここ最近で二回も来てしまっていた。二人が呼ばれる理由はわかるが、俺まで呼び出される理由がわからない。だが、決していい意味ではないだろう。


「鈴木君、あのUSB誰のかわかるかな?」

「はい!ただいま調査中でありまして、早期原因の発見に……


「誰の、かな?」


 肘をついて座る専務から鋭い視線を向けられる。それに気づいた部長は声を震わせながら、ゆっくりと俺の名前を呼んだ。


「それはつまり、虹村君のミスってことかな?」

「ちょっと待ってください。さすがに無理が…」


「静かにしたまえ。」


 有無を言わさない眼光に思わず後ずさる。この会社の中で、すでに決定されていることなのだ。


 もう、逆らえない。


「時期に社長もいらっしゃる。最終的な判断は社長に仰ぐことになるが、その前に虹村君は私に提出する書類がないかい?」


 彼が懐から取り出したのは、いつか見た退職願。だが、その中身は前と違って少し膨らんでいる。不審に思いながらも渡されたものを黙って受け取ると、かすかに重い。

 中を開けろというジェスチャーに従って、中身を見てみると、それなりの金額が入っていた。


「この件については、一人の社員のミスであり、内内で処理した。そうだね?」

「はい!!全く持ってその通りでございます。」

「え、いいすか?あざっす。」


 中に入っていた金を、俺のスーツのポケットにねじ込むと、綺麗にたたみ直した退職願の封筒が専務のスーツにしまわれた。専務が二人に戻るように告げて俺だけが取り残される。


「分かってると思うけどさ、鞍井君を首にするのは対外的にマズいんだよね。」

「それで、俺、ですか?」


 立ち上がって窓の方を眺めたかと思うと、反射越しに語り掛けてくる。


「もし、次の仕事の当てがないのなら、いくつか斡旋してやってもいいぞ?」


 優し気な口調で話しかけてくるが、その真意は、鞍井カンパニーの下請け企業に俺を入れて、不利益になるような情報を漏らさないために飼い殺したいのだろう。

 俺一人であれば、これ以上この会社にとどまる理由はないし、フリーでも食っていけるだけの自信がある。専務の提案を断って、今すぐこの部屋から出てってもいい。けれど、この会社を出て待っているのは、何も知らず家にいる悠だ。まだ子供だ。


「今すぐに決めろとは言わないよ。さぁ、今日は一度帰りたまえ。」


 時刻はまだ昼を過ぎたばかり。学校に行っている悠は家にいない。考えるとしたら、その時間だ。


 すでにうわさが広がっているのか、道行く社員たちが俺の顔を見てはくすくすと笑って後ろ指を指す。目が合った陰山が微かに手を伸ばして、花寺に止められた。あとで二人にはお礼を言っておかなくては。


 家に一人きり。

 何もできず茫然と待っていると、不意に悠が帰ってくる。時計はすでに五時を指していた。


「量さん、今日は早いんですね?すぐにご飯の準備します。」

「悠…。」


 ただ一点を見つめて、彼女の名前を呼ぶと、様子がおかしいことに気づいた彼女が目の前に座る。


「どうかしたんですか?」

「会社…クビになった。」


「そうなんですね。」と、たいして驚いた様子もなく呟く。視線を外さず、「なぜ?」とも聞かない悠は、ただずっと俺の顔を見ていた。


「じゃあ、私、学校辞めてアルバイトしますね。しばらくは、貯金とか、私のバイトで食べていけますよ。あ、おかずは少なくなっちゃうかもしれないですけど……。」

「お、怒らないの?」


「怒る?なんでですか。」


「量さんが頑張ってきたのは、ずっと見てましたから。」


 何ら気張った様子もなく、ただ普通のことのように告げる。それが当たり前であるかのように。


「しばらくお仕事は休みにしましょう?一年ぐらい休んで、それから新しいお仕事を探せばいいじゃないですか。きちんと休んだ方が、ですよ。」


「なん……で……?」


 無償に甘やかしてくれる彼女に思わず問いかけた。


 与えられる愛情に怯える哀れな男は、愛情の与え方を知らなかった孤独な少女に問いかけた。


「理由が必要ですか?」


……to be continued


――――――――――――――――――――――――――――――――――――――


悠さん、今日の一言

「もうすぐ最終回です。最後までよろしくお願いしますね。」

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