第26話 諦めは緩やかな自殺
それはハルが西方へ配置換えされた一月後に起きた。
「おいヴェセル、ヤバい!」
「なるほどヤバいのう」
王国西方軍司令部である西方辺境伯別館の執務室で、ヴェセルは書類に目を落としたまま答える。今日はやけに遅いなと思ったが、どうやら朝っぱらから何かしらで錯乱していたようだ。
「いやほんとヤバいんだって!」
「うむ、ヤバいヤバい」
ぺらり、と次の書類に移る。
先日届いた物資の供給先リストと装備品目録だ。違いのないものは放置して兵士の生命に関わる武具まで読み飛ばし、思わず眉を顰める。確かにこれはヤバい。
まさかとは思ったが、短刀短槍のみ、円小楯にフッサートと言われる皮鎧を供給してくるとは予想外であった。軽装武具を必要としていたのは、都市の奪い合いをしているためにハルの言うゲリラ戦まで用いる市街戦を繰り広げていたこと、セーガル河の支流や湿地帯、森林帯など様々な地形や環境で戦う必要のある戦域だったことからだ。
西方は同じ人族が相手であり、見渡す限りの平原が国境つまり主戦場であるので、重装歩兵による防御陣形が中心となる。必要なのは重装鎧や長槍、長弓の類だ。
ここで戦陣を張る西方辺境伯は、武断の家系らしさで王室派にも融和派にも着いていない。ハルが指揮する軍の中核を成すのはそんな辺境伯軍であり、その去就定かでない辺境伯に対して、ハルへの嫌がらせだけで巻き添えにするとは、王室派は馬鹿しかいないのだろうかと頭痛がした。
「なあヴェセル、まじでヤバいんだって!」
「あー、うるさいのう。ヤバいのはわかっとるわ」
書類を進めるに従って頭はガンガン痛くなる。
ハルの声もどんどん大きくなる。
「いやそっちもヤバいけど、こっちもヤバいんだよ!」
「あああ!もうやかましい!何じゃいったい」
ヤバいがゲシュタルト崩壊しそうになったヴェセルは怒鳴り返しながらようやく顔を上げる。そこにはいつになく真剣な表情のハルがいた。
「……うむ。確かにヤバいのう。司令官が寝巻きのままで司令部をウロついているのは、ヤバい以外に表現が見当たらん。まずは着替えてこい馬鹿ものが」
「あ」
慌てて走り去る九十歳に届かんとする爺を見送りながら、八十超えの爺は疲れたように書類を放り投げた。
「それで?何がヤバいんじゃ。支給装備品が西方の戦闘で使い物にならない事実よりヤバいんじゃろうな。でなければ」
「でなければ?」
いつもの軍装に着替えてやってきたハルに、ヴェセルがにやりと片頬だけをあげて凄む。
賢者と呼ばれ好々爺然としているが、そもそもはハルを拾った最前線で武闘派だった小隊長だ。左手が机の横に立てかけた杖に伸びているのを視界に納めたハルは震え上がる。
「あ、うん、ヤバいと思う。いや装備品のヤバさもわかってるけど、それはそれで対応ちゃんと考えてあるからその棍棒にしか見えないごっつい杖から手を離して頂けないですかね?」
挙動不審になりながら答える。
アルノを脳筋脳筋と言うだけあって、ハルはこれでもしっかり全体を見て必要な書類には目を通している。正直、火薬が存在していれば打てる手は多いのだろうが、物理法則が異なれば化学も異なるこの世界でないものねだりをしても始まらない。
手持ちでやれるだけやるしかないのだ。
ヴェセルからすれば思い出したくもない光景なのだが、最初にハルを見つけた時はないない尽くし、服すら着ていなかったのだ。
言葉もわからない、服も靴もない、記憶もない、金も人脈もない。
そんな中で生き抜いてきた以上、相応の能力をそれ以上の努力で何とかしてきた力があるし、そのこと自体はヴェセルも良くわかっている。彼が対応を考えてある、と言った以上は考えてあるのだろう。
読む必要のなくなった書類を「処理済み(ハル)」箱に入れると、
「わかったから話せ。結局、何がヤバいんじゃ」
ようやくまともに話を聞く気になったヴェセルにほっとしながら、自席に着いたハルは先ほどの真面目な顔で、
「アルノって男?女?」
唐突にぶっこんで来た。
「はあ?」
ヴェセルからすれば、いやヴェセル以外でも誰がどう見ても美少女もしくは美幼女でしかないのだが、ハルにはアルノが無意識にかけ続けている精神魔法がある。
それが切れた?
ああ距離と時間が、と気づいたヴェセルはここらで真剣に向かい合わせておこうと咳払いをひとつすると、
「つまり、お主にとっても女性になったということじゃな」
表現が妙だが、ハルはそのことに触れず真剣なまま頷いた。
「儂にとっても女性じゃよ」
「……精神魔法か」
ヴェセルの回答からほぼ察したハルは独り言のように呟く。
念押しですらなく、すべて理解しているであろうことはヴェセルの頷きにも反応せず考え込んでいることからも明らかだろう。
「大方だが……勇者に舐められないよう男装したが、男に成り済ますではなくただの少女の男装にしかならなかった。だからお前も兵士たちもアルノが女であることはわかっていたけど、俺だけに精神魔法が掛けられて気づかなかった」
だがなぜ、とハルは考え込む。
この「なぜ」は理由ではなく原因の「なぜ」だ。
女神の祝福、こればかりはハルにとっても祝福と言って差し支えないのだが、彼には最強の抗魔力がある。人類ただ一人の黒檜級の魔法操作とセットになっているそれは、アルノが全力で幻視魔法をかけても何ひとつ偽りを見せることはできないほどのものだ。
魔王クラスになるとどうなるか不明だが、聖女の治癒魔法や医療魔法と異なり害意のあるものは彼自身の認識を問わず弾く。その医療魔法ですら傷口を開くようなものは意識して受け入れなければならないくらいだから、アルノが自分を騙すために掛けた精神魔法も彼の意志によらず弾くはずだ。
女である自分を男と思わせる、その程度の魔法だから害意ありと判断しなかった可能性もあるが、それにしたってハルの抗魔力からすればおかしい。
事実と理由は認識できたが原因がわからない。
ハルはしばらく考え込むと、諦めたように頭を振って興味深げにその様子を見ていたヴェセルに視線を送る。
その間手紙を書いていたヴェエルは、視線に気づいて書き終えたそれを小さく丸めて通信筒に入れると窓を開け、降り立った伝令鳥の足に括り付ける。
「それは?」
「なに、王女殿下と聖女殿にちょっとな」
未だ戦端が切られていない西方で、しかも軍から切り離されているカノ王女と聖女アリアにヴェセルが急電を入れる必要は何か、と思ったが目下の問題はそこではない。
早くしろと目線で促すと、理解したヴェセルは窓を閉めると苦笑して、
「話に出たついでじゃがな」
「何だよ」
「聖女殿には何度も治癒を掛けてもらったじゃろう?お主にとって聖女殿は医療魔法兵かの?」
「いや、そりゃ違うだろ」
「何が違う」
「アリアは俺の娘みたいなもんだ。医療魔法兵を軽んじる訳じゃあないが、娘に治療してもらうのは心理的に違う」
「効果は?」
畳み掛けるヴェセルに、少しだけ黙るとハルは唸った。
「……そういうことか」
ハルの抗魔力はハルの側でコントロールが可能だ。
受け容れるか拒絶するか。受け容れるにしても程度が違う。
アリアに治癒をかけてもらうのと、医療魔法兵にかけてもらうのとでは、当然のことながら効果も異なる。それはハルに限って言えば、アリアと医療魔法兵の力の差ではない。ハルにとって心を許しているかどうか、相手をどれだけ信じ、受け容れているかの違いだ。
「俺がアルノを男であると思いたかった?いや違う、そうじゃなく……」
アルノの魔法を受け容れたのだ。それだけ、アルノを信じ精神的防壁を構築していなかったということ。
敵であり、戦場で殺し合う関係であるのに、アルノを受け容れたいとハル自身が思っていた、そういうことだった。
「男と思っていた時ですらあれだけ苦悩しておったのじゃ、女性だとわかった今ならもう儂が何を言う必要もなかろう」
「……ヴェセルお前、わかってて言わなかったな」
アルノは美少年ではなく美少女だった。
そうなると、今までのあれやこれやが急に恥ずかしくなって睨むようにヴェセルを見る。正直、頭を抱えてベッドにでも逃げ込みたい気分だった。
「アルノ殿も無意識だったようじゃしな。それに」
肩を竦めたヴェセルの言葉には、普段の揶揄だけではなく長年の戦友であるハルにしかわからない程度の真摯さが含まれていた。
「『老い先長い』お主の無聊を慰めてくれるような奇特な人物は、大事にせんとな」
「……ほっとけ」
まったく『老い先短い』爺が、と憎まれ口を叩くハルの言葉もまた、言葉通りの意味だけではなかった。
さて、ここまで自覚すればもう余計な口も手も出さない方が良いだろう、とあれやこれやを思い出して頭を抱えて悶えるハルを叱咤する。
「これハル、いつまで悶えておる。おっさんがそんなことしても見苦しいだけじゃぞ」
「アルノみたいなこと言うな!いやだってお前さ、あれだよ」
ああーとか、ううーとか唸りつつ立ったり座ったり落ち着かない。落ち着いたら一気にやらせよう、と書類をまとめながら待っていると、
「女だったら速攻惚れてるとか言っちまったぞ!それだけならまだマシだが、トイレの気配を察知しちまったりしたし……」
「変態じゃな」
「そう、変た……いや不可抗力だって!」
「女性のご不浄を覗く趣味があったとは……さすがに引くぞ」
「だからそんな趣味ねぇって!いやおいちょっと待て、何書いてんだよ」
「手紙」
「見りゃわかるわ。誰に何を書いてんのか聞いてんだ」
「王女殿下と聖女殿に、ハルの覗き趣味について」
「うぉい!洒落にならん、アリアはマジで洒落にならんからやめろ!」
「聖女殿のお主への傾倒は生半ではないからの、大丈夫じゃろうて」
「だからマズいってんだよ、てかお前わかって言ってんだろ!」
「喜んで覗かせてくれると思うぞ?」
「絶対あいつそれやるわ!お前マジ想像してみろ、聖女が化物につきまとって自分のトイレを覗かせようとするんだぞ、教会の前に俺が滅ぶわ!」
純真無垢な聖女だけに、自分を救ってくれたハルへの思い入れが洒落にならないレベルであることは事実だ。アリアにとってハルが言うことは絶対であり、だからこそ出来る限り会わないようにしつつ会話にも充分に注意を払っている。
ハルが「俺に覗かせるのは当然のことだ」と言ったら絶対その通りにしようとするだろう。
「まあ冗談はおいて」
「いやお前の振り幅が激しすぎて怖い」
す、と差し出された資料の一番上に置かれた紙を手に取る。
「これは?」
「殿下と聖女殿とまとめた方針を、カレン殿に謀っておいた。向こうでも適度にやってくれておるじゃろう。後はお主が本気でアルノ殿と生きようと思うかどうかじゃ」
どうせ軍務に関するものは対処済じゃろう、と「未処理(ハル)」箱に積まれた書類を横目にヴェセルは席を立つ。
諦めは緩やかな自殺だ。
人族に絶望しているくせに、他に居場所を求めようとしなかったハルはまさしくそれに該当していた。
そしてハルは死なない。正確に言えば死ねない。だから諦めの先にある死という救いすら見えていなかった。
だが、そんな消極的自殺から立ち直ったなら後は勝手に生きていく。生物なんてそんなものだし、ましてや神の眷属と言うべきハルとアルノだ。
最期の土産として手伝ってやるくらいはするが、ここから先はハル本人がやりたいようにやれば良い。
「決まったら声を掛けると良い。手伝いくらいはしてやるに吝かではないからの」
「……お節介め」
ほっほっほと笑って扉を閉める直前、ハルが小さく呟いた礼を聞いていないふりをすると、ヴェセルは執務室を後にした。
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