第22話 骨董品
「死ぬ。死んだ」
アルノが借り切った湯治場の離れ、寝室二部屋に挟まれた居間でグロッキーになったハルが死んだ目をして呟く。
あれから本当に馬車と並走させられたハルは、全体力を使い果たしてもはや指ひとつ動かせない。
「……まあ、3時間以上走っていましたからね」
「同じ異界人でもハルは魔法を発現できんからのう……強化も治癒も使えんのでは仕方あるまいて」
魔族各民の良いとこ取りをしたかのような存在である勇者、それと同じ扱いでハルを走らせたアルノに、少しだけ非難を含んだ目を向ける二人。だが、向けられた当のアルノは涼しい顔で今の卓に置かれた茶菓子をぱくついている。
「まったく、惰弱め。魔族ならこれくらいは余裕だ余裕」
どこか楽しげに言うアルノの言葉に思わずヴェセルがカレンを見る。もちろん、黙って首を横に振った。
「しかし、これほどの湯治場が魔王領にあるとは驚きですな」
風呂という環境だからだろうか、靴を脱いで入るようになっている部屋は非常に清潔で、そういった習慣のないヴェセルには物珍しい。
床が板張りだったり大理石だったりすれば冷たくてたまらないし、かと言ってカーペットでは湯上りの雫で痛んでしまうだろう。そこもきちんと考えられているようで、枯れた草のようなものを編んだ畳らしきものになっている。ハルが言っていたような匂いはしないから、彼のいた世界で言う「い草」ではないのだろう。とは言え、感じたことのない居心地であり、快いものであることは確かだ。
「もっと早く知っておれば、人族にもこの様式を取り入れたじゃろうに」
「ヴェセルは気に入ったか。うん、さすがだな、水揚げされたログマみたいにそこで転がってる奴とは違う」
「……そうしたのはご主人様ですけどね」
「ふむ、なるほどそうか、だとしたら私は漁師ということになるか」
「何で嬉しそうなんじゃ」
「魚が大好物ですからね。魔王様からの命令でなければ、南の漁村で魚だけとって暮らしたいとかいつもほざいていらっしゃいます」
「……儂が言うのも何じゃが、カレン殿は本当にアルノ殿の眷属じゃろうか」
「おや、お疑いですか。これほど主に尽くし誠心を捧げているメイドもいないと自負しておりますが」
のんびりと枯れ草の感触を楽しみながらカレンが淹れたお茶を楽しむ三人の会話に、ハルは一切入る余裕がない。アルノが表現した通り、浜に打ち上げられた魚のような死んだ目で轟沈したままだ。
「ご主人様、夕食はこの部屋に運んでくれるそうですので、それまでは露天風呂でも楽しまれてはいかがでしょうか」
「ふむ。そうだな、食事前にまずは一風呂浴びておくのが良いな」
ひと息入れられたと判断したタイミングで出されたカレンの提案に、当然のようにハルの分のお茶菓子まで食べ尽くしたアルノが鷹揚に頷く。
団体もしくは家族用の離れになっているので、ふた部屋と居間だけという作りでなく、専用中庭に面した居間と続きになった広縁、それに露天風呂まである。食事も運んでくれるということは、滞在する三日間はここから一歩も出ずに過ごすことすらできそうだ。
ちら、と転がるハルが気絶したように眠ってしまったのを見たヴェセルは、
「まあ今の内がよろしかろう。ハルもこの通りじゃからな」
「なんで?」
疑問符を浮かべながらヴェセルを見るアルノに、彼は驚きを表して答えた。
「まさか、アルノ殿は本気でハルだけでなく儂らまで騙されていると思っている……?」
幾ら何でもそれはないだろう、という疑問を含んで後半はカレンに投げかける。
ずず、とお茶を飲んだカレンは澄まし顔で、
「そのまさか、でございます」
「え……いや、え?」
「何だ、何なのだヴェセル」
えー、ウッソだろおい、と若い頃に戻ったかのような呟きを心中で発しながらどうしたもんかとカレンを見れば、湯飲みを置いた彼女は黙って頷いた。
ふう、とため息をついて自分を落ち着かせると少し体をずらして、怪訝な顔つきのままなアルノに正対する。
「アルノ殿。その、言いづらいのじゃが」
「一体何なのだ。はっきり言わんか」
「儂は気づいておるぞ?」
「何に?」
「アルノヴィーチェ嬢、本気で人族全体を騙したいならもうちょっと頑張りなされ」
「……は?」
「未だに騙されているのはハル様だけですからね」
「……え?」
「ハルもどこかで歯止めをかけないとヤバイと自覚しておるのじゃろうな。騙されたくて騙されているという深層心理があるから、無意識のうちに受け容れてしまっているのじゃろう」
「……ん?」
「自分の性癖が歪んだままにしておいた方が楽だと、心のどこかで気づいておられるのでしょうか。敵同士、しかも参謀と司令官、人族と魔族の違いなどもありますし」
「……えと?」
「アルノ殿も案外この手のことには臆病なのですな。自分の気持ちに気づきたくないから無意識にハルへの精神魔法だけ強化してしまっておるとは」
「……あの?」
「ハル様の言うところの『ツンデレ』らしいですから。まあ、私からすればただの奥手で面倒くさいヘタレ処女ですが」
「……おおぅ、辛辣。カレン殿、いい加減呆れておるのかの?」
「私たちがこれだけ心配しているのに、自分に鍵かけていつまでも現実を見ようともしない臆病者に、ですか?」
「ふむ。これは怒っていらっしゃる」
呆然として口をパクパクするしかないアルノを他所に、カレンとヴェセルはこの際だとばかりに言いたい放題だ。
「まあハルも似たようなもんじゃがな。素人童貞はこれだから」
「まったくですね。そもそも異界人であるハル様が、この世界の人族と同一であるかどうかなどわからないでしょうに」
「うむ、どう考えても同一ではないな。人族かどうかすら怪しいし、儂が見たところでは神の眷属と言った方が正しいと思っておる」
「ならより一層問題ないではないですか。お嬢様も神の眷属ですし」
「あー。魔王はそちらではそういった扱いになりますな」
「そもそも、女神の制約と魔王様の制約、どちらも種族に制約をかけられる時点で両者が同軸の存在であることは明白です」
「本人は呪いだと言い張るが、女神の祝福を授かっているのはハルひとりだけで、聖女殿すら受命と加護はあっても祝福は受けておりませんからな。そう考えればハルとアルノ殿は生命体としては同じ次元にあるとするのが普通じゃろうに」
「理解はしているんでしょうけれど、認めたくないということでしょうか。全くもって、ヘタレ処女と素人童貞には困ったものです」
ハルの目が覚めていたら、一週間くらいはどん底の気分で落ち込んでいたであろう罵声が続く。
が、幸か不幸か彼は地獄の三時間全力疾走で絶賛気絶中だ。そして不幸なことに聞いてしまっているアルノは、事の次第と彼らの発言を理解するに至って驚愕のあまり言葉を失ってしまっている。
「それで、どうですかなカレン殿。彫像と化した主に、漁港での意趣返しはできましたかな?」
そんなアルノを見ながら、困ったような顔で笑いながらヴェセルが問う。
彼が言っているのはもちろん、人族の港町ザーウィヤで三半規管破壊マシーンと化した暴れ漁船に乗せられ、魚の餌を海に撒き散らさせられた件だ。きっちりしたメイドであることを誇りとしている彼女にとって、あれは耐え難い屈辱であったらしい。
「ええ。これでようやく溜飲が下がりました」
満面の笑顔で心の底から晴れやかな声を出すと、
「そういう訳ですのでお嬢様、ご自分のお気持ちを自覚なされてどんな感じですか?ねえ今どんな感じですか?」
「……黒いのぅ……溜飲下がっておらんじゃないか」
呟くように眉を下げて言うヴェセルから見ても、アルノが自分の気持ちに気づいてしまったことは明らかだ。
鋭い破片で毎年何人か死人が出ている、最高の美味ではあるが温度調節を一秒間違えただけで赤熱して爆散するヒラグモ貝、別名殺人貝の赤熱時点のように真っ赤になっている。
これ、爆散しないよね。
そう思ってしまうほど顔に全身の血が集まってしまった様子のアルノは、相変わらず言葉が出ない。
「ちょうど良い機会です。純潔を捧げられたらいかがです」
「ん?カレン殿、確認しておきたいのじゃが、吸血鬼は純潔でなくとも問題ないのじゃろうか?」
「お嬢様は唯一の吸血鬼、単一種ですから前例や比較対象がないので絶対とは申しませんが……魔王様が生み出された超常生物です。むしろお嬢様の破瓜の血が肉棒経由でハル様にどんな影響を与えてしまうのか、の方が心配というくらいでしょうか」
「……カレン殿は案外あけすけなのですな」
「処女ではございますが、この程度で恥じらっていては魔族の子供達にすら『やーい、アルノヴィーチェっぽい』と笑われてしまいますので」
「主に対して辛辣すぎる。まさか本当にそのような冗句があるとか」
「いいえ、ございません」
「……左様ですか」
そんな脳天気な会話を繰り広げていると、ようやくアルノが起動を果たしたらしい。
「あ、は、あ……」
いや、起動を果たしていなかった。
「はい、かしこまりました。私とヴェセル様に防音障壁を張るくらいなら私でも可能でございます。存分にハル様に蹂躙なされるのが宜しいでしょう。あ、ですがあまり喘ぎ声が大き過ぎますと離れとは言え従業員に聞かれてしまいますのでお控えくだ」
「ちょ、カレン?!」
さすが眷属、主人を再起動させる手法は心得ている。
が、その方法はどちらも女性ということを考えればどうなのか、と魔族の認識を今更ながらに改めてしまいそうなヴェセルだったが、
「ご安心くだされアルノ殿。儂らは大人しく寝るだけですので」
「ちょちょ、ヴェ、ヴェセルまで何言って」
「あらヴェセル様。私は構いませんが」
「ほっほっほ、カレン殿も冗談がお上手なことじゃ。こんな枯れた年寄りをあまり苛めんで下され」
「ご謙遜を。千人斬りヴェセルの名は魔族にすら有名ですのに」
「いやそれ戦場で兵士をたくさん斬ったってことだよね?!卑猥な意味じゃないよね?」
どうやら完全に再起動したらしく、アルノがカレンに突っ込む。
「おやお嬢様。素晴らしい突っ込みでございます。今晩は突っ込まれる方ですが、ぷくく」
「ちょっとーーー!!」
だめだこのメイド。
もう今後は駄メイドって言ってやる、と心に誓いながらアルノはまだ食べごろ直前のヒラグモ貝みたいな顔だが何とか居住まいを正す。
「えっと、その……じゃあもうヴェセルの前では普通にしてた方がいいかしら」
ちょこん、と真っ赤になって小さく座るアルノの姿は、ハルによく枯れ爺いと揶揄されるヴェセルから見ても可憐だった。
ふわりとした栗色の髪をいじいじと触り、大きな赤い目を伏せがちにしている。そんな姿も奇跡的な造形に見える少女の姿は、ハルが女と認識したら混乱の極みに陥るのではないかと思えるくらいに、ハルの好みを熟知したヴェセルにとっては危険物に思われた。
「いや本当に……こうして改めて見れば、アルノ殿はまさしくハルの好みど真ん中ですな。ハルがドヘタレ素人童貞で良かったですなあ」
「良くはありませんが……」
何やら言いたげな顔でカレンが呟くけれども、アルノは駄メイドの苦言を華麗にスルーすることに決めた。このメイドにいちいち反応していては身が、いや心が保たない。
「えぇっと……あのヴェセル、本当に私ってハルの好みなのかしら?」
「ええ、間違いないと思いますが、なにか?」
ヴェセルの疑問にもじもじしたまま視線をうろつかせる主に代わり、カレンが差し出口を挟む。
「前にそう言われたのですよハル様に。幾分か酔っていらした時でしたので、ヘタレお嬢様としてはそれが本心かどうか気になっておられたのです」
「ねぇカレン、私は主……」
「ああ、ありましたな。ご安心くだされ、帰ってきたハルは自分が男色になったのではと悶えておりましたから、間違いなく本心からです」
それを聞いたアルノはいよいよ食べ頃タイミングのヒラグモ貝のようになる。本当に大丈夫じゃろうかとヴェセルは不安になるが、カレンが澄ました顔なので大丈夫なのだろう。
「気を抜いて純粋に楽しめるアルノ殿との時間は、ハルにとっても大事な時間なのでしょう。所詮ヘタレ素人童貞野郎なので、妙にこじらせて意固地になってる感はありますがの」
「お互い、面倒臭い主人を持つと苦労しますね」
「仕方ありますまい。儂らは保護者ですから、その程度の苦労は織り込まないと」
バカにされているのか心配されているのか、たぶん前者が殆どなのだろう。が、それでも二人がそれぞれの主の孤独を心配するのに偽りがないことは、アルノにもよくわかる。
だから、このお節介焼きめと叱りつける訳にもいかない。
自分とハルが、ヴェセルもカレンもいない世界で生きていかなければならないことは確定の未来でしかないのだから。
同じ不老不死だからという消極的な理由ではない。
たまたまハルが、同じ不老不死だった。
この順番はアルノにとってとても大事で、そしてそのことをこの部下たちは正確に理解しているであろうこともわかる。
だから、
「二人とも、ありが……」
「面倒臭い処女はこじらせるとタチが悪いですからね。もらえるならさっさともらわれれば良いんです。骨董品じゃあるまいし、二百年ものに価値なんてないんですから」
「玄人からすら相手されなくなった百年もののクソ童貞野郎も大概ですぞ。勇者どもの幼気の方がまだ可愛げあるわい。どうせ役に立たないなら、腐り落ちる前に刈り取られてしまえと常々」
「まあ、ヴェセル様ったら、うふふふふ」
「ほっほっほっほっほ、いやマジな話じゃて」
いや違う、これ楽しみ半分心配半分ではない。
楽しみ99%、心配1%だ。
「こやつら……」
「じゃ、お風呂入ってくるから」
居間を出ながら声をかける。
が、返事はない。どうやらしかばねのようだ。
「ハルが起きたら部屋に籠らせておいてよ」
あれは不燃ゴミになるのかしら、と突っ伏してぴくぴくしている二人にどうでも良い感想を抱きながら、アルノは露天風呂へ向かった。
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