1日目 人畜無害に生きてきたのに手錠をかけられた話 ①

 僕はそこら中に溢れている量産型の冴えない男子大学生だ。

 鶴見つるみ美術びじゅつ大学だいがくに通う二回生。

 特に殊勝な矜持きょうじも夢もビジョンも持たないシケた野郎だ。

 自分の人生の主人公は自分だと思ってはいるけれど、世界から見れば僕なんかモブ以下の石ころ以下の(以下略)だ。

 僕が何をしようが世界にはなんら、なーんら影響はない。

 そんな冷めた僕だけど、人畜無害を地で行くことだけは心がけている。

 そして大学で専攻している建築、インテリアのデザインに関してだけは情熱を絶やすことはない。できれば将来もその道でメシを食っていければと考えている。

 それをモチベーションに、ぼっち状態でも日々サボらずに講義を受けている。

 三月中旬の今は春休み真っ只中だけど、製作中の椅子のコンセプトとデザインを考えるために自主的に大学で鍛錬している。今日も夕刻まで自主製作をし、今は下校するべく校門に向かっている。

 オレンジ色に輝いている大空を眺めると、なぜだかオレンジジュースが飲みたくなってきた。

 と、大学の入り口にある門を抜けたところで、とある物体が視界に入った。

(事件でもあったのかな?)

 物体の正体はパトカーだ。

 大学の門の前に一台のパトカーが停まっていた。警察の方が来ているようだ。

 ま、量産型ではあるけど人畜無害な僕には関係ない話だ。

 警察の方にお勤めご苦労様ですと心の中で労いの言葉をかけてその場を離れた。

 大学前には遊歩道があり、通学の際にはいつも通っている。

 お洒落もへったくれもないショボい遊歩道だけど風情だけはあり、下町情緒に溢れている。

 遊歩道を抜けて、駅までの一本道に入った。

 と、そこで――

(やば、急にもよおしてきた)

 突然襲いかかってきた尿意は強烈で、周囲に誰もいない状況が僕に悪魔の選択を勧めてきた。

(よし、ちゃちゃっと済ませてしまおう)

 悪魔に抗えなかった僕は道の端で用を足す。膀胱が空っぽになってゆくこの感覚。

「快感だなぁ」

 スッキリしたところでズボンのチャックを閉めようとした、

 ――――その時だった。


「そこのあなた、何をしているのかしら?」


 凛とした声が背後から僕の鼓膜を刺激してきた。

 振り向くと、一人の女性警察官が仁王立ちしていた。

 見た目はとても若く、僕とそこまで歳は変わらなそうだ。

 高めの身長に細い腰回り。対照的にバストとヒップの主張は激しい。

 スカートの先から出ている脚は長く、端的に言えばスタイルが抜群に良い。

 爽やかな短めの黒髪ボブヘアは清潔感がある。

 そして何よりも目を引くのがそのお顔だ。キリッとした両眉は綺麗な坂を描いており、気が強そうなツリ目は大きさも形も大変整っている。筋が通った鼻に、厚すぎず薄すぎないふっくらとした唇はオアシスに咲く果実のように瑞々しい。

 控えめに言っても超絶美人だ。街中を歩いていても滅多にお目にかかれないハイレベルな女性だ。

 そんなアッパーな人が、僕にどのような要件だろう?

「なんですか?」

 ズボンのチャックを閉めた僕は首を傾げてぶっきらぼうに返答する。

「あら、警戒してるのね。そんなに警戒する何かがあるのかしら?」

 今まで警察官から声をかけられた経験などなかった僕は、言葉から警戒の色を消しきれなかった。そしてその心情は警察官にも見透かされているらしい。

「人生で初めてお巡りさんから声をかけられたので驚いてます」

「でしょうね。一見悪さはできなさそうな雰囲気してるわ」

 そう言いつつも、彼女が僕に向ける視線は厳しい。

「僕、見ての通り人畜無害な男ですから」

 僕は両手を伸ばして無害アピールをした。

 しかし、警察官の目からは疑いの色が消えておらず、僕の本心、本性を見透かそうとするかのごとく全身を見つめてくる。

「数日前からこの近辺でわいせつ行為が続いてるのよ。今日も下半身丸出しで付近を歩く若い男がいたと通報を受けて、警察官数名で手分けして捜索してるってわけ」

「へぇ、それはお疲れ様です」

 警察官に一礼して通り過ぎようとすると、腕を掴まれた。

「通報者の証言によると、犯人の外見的特徴は黒髪にもっさりとした髪」

「……ん?」

「身長170センチ前後の痩せ型」

「うっ」

「色白の肌、童顔かつ塩顔の容姿。髭は生えていない」

「げっ」

「赤チェックのシャツ、茶色のチノパン、富士山ポーテージブランドの黒色ショルダーバッグ」

「ノォーーッ!!」

 まんま僕ので立ちじゃないか!

 僕の外見に酷似したどこのどいつか知らないけど、アンタのせいで僕の平穏が脅かされているぞ。どうしてくれる。

「あなたの特徴と一致してるね?」

 警察官はニコッと美しい笑みを向けてきた。

 平常時だったならばドキドキするところだけど、今は非常事態だ。恍惚感こうこつかんを抱いている場合ではない。

「僕によく似た犯人なんですね。僕からしたら風評被害でいい迷惑ですよー」

 僕は引きつり笑いを浮かべてみたが、

 ――カチャッ

「……カチャッ?」

 僕の右手を見ると、

「ど、どういうつもりですか、これ!?」

 無骨な手錠がかけられていた。

「ちょっとちょっと! 僕はわいせつ犯じゃないですよ!?」

 フリーの左手で乱暴に手錠をいじってはみるものの、当然外れる気配はない。無機質な音が無情に響くだけだ。

「ここまで証言と一致してて見逃せるわけがないでしょ。それに、さっき下半身を露出していた瞬間もバッチリ見てるのよ! 現行犯逮捕するわ!」

「ちょっとちょっと! 僕は立ちションしてただけですけど!? それに数日前からのわいせつだって僕じゃないですよ!」

 疑わしきは罰せずのほうげんはどこへ行ったの!?

「証言者によると、わいせつ犯は十三時半くらいに鶴見つるみ美術びじゅつ大学だいがくの方へと歩いていったそうよ」

 警察官は手帳を眺めながら説明する。

「十三時半……」

 自身のアリバイを確保するべく当時の行動を思い出す。

 今日は朝から大学に行って作業をして、昼食を買いに近くのスーパーを目指して大学を出たのが十三時くらい。スーパーから大学に戻った時間が――おおよそ十三時半。

「――僕が大学に戻った時間とドンピシャだ……」

 僕のアリバイ、成立する要素なし。

「はい、決まったわね。署までいらっしゃいな」

 僕のか細い呟きを聞いた警察官が優雅な所作で再び僕の腕を掴もうとしてきたので、

「や、や、やってませんってばー!」

「あっ、こら待ちなさいっ!」

 警察官に背を向けて全力で逃げ出した。

 冤罪だけど話が通じる相手ではない。手錠が右手にのみかけられた中途半端な状態だけど気にする余裕はない。逃げ切ってから考える!

 ――しかし。

「逃げても無駄よ!」

「は、はやっ!?」

 警察官は女性らしからぬスピードで猛追してくる。さすがは警察官と言ったところか。運動神経が並ではない。

 まぁ、僕が平均男性よりも運動能力が低いのもあるんだけど。

「ぐぇっ」

「はい捕まえた――はぁ、はぁ。残念でした」

「ぜぇ、ぜぇ」

 背後からショルダーバッグを引っ張られる形で取り押さえられてしまった。

 僕の逃走劇、一分と持たずに終演。

「僕は無実ですって!」

「だったらどうして逃げたの?」

 警察官はジト目で睨んでくるけど、僕は何も犯していないし嘘もいていない。

 堂々としていればいいんだけど、身に降りかかってくる危機に冷静さを保てない。

「冤罪で逮捕される恐怖を味わってみれば僕の気持ちが分かりますよ!」

「気が動転しているのね。落ち着いて落ち着いて」

 警察官は僕の頭を撫でてくるけど、僕は彼女の手を振りほどく。

「それでも僕はやってませんから」

「まずは警察署に行かないとね」

 ……こともできず、ただ彼女に身を任せて撫でられるだけだった。

「とはいえ突然逃げ出すのは悪質ね」

「逃げても無駄だと分かりましたからもうしません」

 逃走したところで速攻捕まるしね。

「前科がある人間は信用できないわ」

 前科とはわいせつのことですか? 逃走の方ですか?

 どちらにせよ今の僕に人権はなさそうだ。

「はぁ。こうするしかないわね」

 嘆息たんそくした警察官は何を思ったのか、僕の右手についている手錠の片側を自身の左手につけた。

「手錠をかけるなら僕の両手を繋げばいいのでは?」

「それでもあなたが逃亡を図らない保証はないからね。念には念を入れさせてもらったわ」

 確かに手錠で両手の自由が奪われても足が動く限り逃走は可能だ。であれば僕と警察官で繋げば逃げられる恐れはなくなる。

「さて、鶴見つるみ美術びじゅつ大学だいがくの門まで戻るわよ」

 僕は力なく頷いて、女性警察官と手錠で繋がれた状態で大学前まで戻った。


「そうそう、あなたの身分が分かる証明書はある? 免許証とか」

 パトカーの前まで戻ると、警察官が身分証明の提示を求めてきた。

 僕は普通免許はおろか、原付免許すら持っていない。

 けれど学生証ならある。顔写真もあるしこれで十分だろう。

「学生証でも大丈夫ですか?」

「えぇ。ありがとう」

 警察官は微笑をたたえて僕の学生証を受け取った。

 なお手錠で僕の右手はホールドされているため、警察官に財布を持ってもらい、僕が左手で学生証を取り出した。大変不便だ。

「えーっと、蓑田みのだ利己としきさん。鶴見つるみ美術びじゅつ大学だいがくの二回生。年齢は二十歳はたち

 僕の個人情報が警察の方に晒される。

 ご丁寧に読み上げまでされてるけど、手錠で繋がってるせいで距離が近く、声がよく聞こえる。ついでに言うとこの人の上品な香りも鼻に届いてくる。

 あと通行人が警察官と手錠で繋がっている僕を犯罪者を見るような視線で一瞥いちべつして歩き去ってゆくのが切ない。

「私は神奈川県警地域課新鶴見しんつるみ警察署管轄、巡査の中条なかじょういづみよ」

 警察官――中条巡査は警察手帳を取り出して自身の名を名乗った。

「――あら、この住所の建物名」

 と、僕の学生証に印字された文字を追う目が留まる。

「単身用のアパートよね? 一人暮らし?」

「えぇ、大学進学を機にはじめました」

 僕は埼玉県朝霞あさか市出身の神奈川県伊勢原いせはら市育ち。千葉県茂原もばら市に住んでいた時期もある。

 鶴見つるみ美術びじゅつ大学だいがくへの進学をきっかけに横浜市神奈川区に引っ越した。埼玉、千葉、神奈川。東京都を除く三県を制覇したわけだ。

「そう。立派ね」

「褒められるほどのことではないですよ」

 大学進学と同時に一人暮らしデビューをする学生は少なくない。それどころか名門の部活動を目当てに遠方の高校進学のタイミングで一人暮らしをはじめる人もいる。

「立派よ。家事とか生活のやりくりとか、全部自分一人でやってるんだから」

 けれど、中条巡査にとっては誇らしいことのようだ。

「中条巡査は実家暮らしなんですか?」

 僕が問うと中条巡査は、

「私も一人暮らしよ」

 僕の顔を見ずに返答した。

 その横顔はなぜだか寂しそうに感じた。

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