朝靄の中に

紫 李鳥

第1話

 


 篠田優梨しのだゆりが“0円空き家バンク”を知ったのはテレビの情報番組だった。田舎暮らしに憧れていた優梨は興味を示すと、早速検索してみた。すると、次のようにあった。


【町では、手放したい物件を登録する制度“0円空家バンク”を開始します。また、物件を探している方で、年齢要件や定住要件に合致せず、空家バンクを活用できない方や、アトリエ、倉庫、別荘等を探している方も“0円空家バンク”を利用できます。


 町は物件を手放したい方と物件を活用したい方のマッチングを行います。物件のご案内はできませんのでご自身で現地を確認していただくことが条件となります。お申し込みの前に現地の確認をしてくださいますようお願いします。


※契約や登記にかかる費用は物件を譲り受ける方の負担となります】



 沢山の物件の中から庭付き一戸建てを探したがなかった。だが、菜園付きの一階建てはあった。都会の喧騒に疲れていた優梨は、二十年近く勤めた会社を辞めることにした。その決断は、二年ほど付き合っていた彼氏と別れたばかりで落ち込んでいたのもあった。


……環境が変われば気持ちも変わるだろう。自然が豊かな静かな所でゆったりと暮らしたい。


 それが望みだった。優梨は、小さな菜園が付いた木造の家の画像に思いをせた。



 休日を利用して物件を下見した。東京から程近いその町にはよく知れた渓流もあった。家屋が疎らな緩い坂を上ると、画像で見た木造の平屋があった。外観は古かったが、中は特に目立った汚れや傷はなかった。そして、家の裏には小さな畑もあった。隣家とも距離があり、気兼ねする必要はなさそうだ。ストアや郵便局は坂道を下りて少し歩けばある。車がなくても生活できるだろう。



 越してきたのは九月に入って間もなくだった。毎月の食費と光熱費、電話代を概算しても当面はやっていけるが、万が一にも蓄えが底をついたら、東京に戻って再就職しよう。サラリーマンの兄や兄夫婦と暮らしている母親に甘えるわけにはいかない。


 だが、多少の副収入があるので、それほど心配はしていなかった。まだ始めたばかりだが、スマートフォンでネットショップを開業し、趣味と実益を兼ねてレース編みを販売している。予想以上に売れ行きがよく、特にテーブルクロスやコースターが人気があった。仕上げまでに時間はかかるが、その分、手編みならではの温もりを感じてもらえるようだ。大した儲けではないが小遣い稼ぎにはなる。




 それは、朝食の準備をするためやかんをガスコンロに置いた時だった。


「クーンクーン……」


 子犬のような鳴き声が外から聞こえた。


「えっ?」


 思わず声が出た。急いで磨りガラスの引き戸の鍵を外した。開けると、そこにあったのは段ボール箱だった。


「クーンクーン……」


 鳴き声は段ボールの中から聞こえた。恐る恐る開いてみた。そこにいたのは、白地に茶色柄の子犬だった。子犬はしっぽを振りながら円らな瞳で優梨を見つめていた。


「どうしたの? 捨てられたの?」


「クーンクン……」


 子犬を抱き上げてチラッと見てみると、オスだった。段ボールを覗くと、白い封筒があった。中には便箋びんせんがあり、〈事情があって飼えなくなりました。どうか飼ってやってください。お願いします〉と書いてあった。辺りを見回したが、立ち込めたもやで遠くが見えなかった。


「一緒に暮らす?」


 子犬に尋ねると、しっぽを振りながらペロッと優梨の鼻先を舐めた。


 中に入れると、冷蔵庫から牛乳を出した。小さなボウルに注ぐと、台所でオスワリしている子犬の前に置いた。


「さあ、召し上がれ」


 そう言うと、子犬はペチャペチャと音を立てて飲み始めた。その仕草が可愛くて暫く眺めていた。


 トーストとベーコンエッグを作ると、子犬にも少し分けてやった。子犬は美味しそうに食べながら、チラチラと見ていた。優梨は家族ができたみたいで嬉しかった。食事を終えた子犬を浴室に連れて行くと、古紙回収に出す予定の雑誌を破り、簡易トイレを作ってやった。


「ここがトイレよ。分かった?」


 そう言ってトイレに指を差すと、了解したと言わんばかりに子犬が見上げた。ついでにシャンプーで洗ってあげると、ドライヤーで乾かした。次に、洗濯かごに長年着ていないTシャツとセーターを敷くと、子犬のベッドにした。ベッドに入れると、ぐるぐる回りながら寝心地の良さそうな場所を探していた。


「名前は何にしようか?」


 台所の椅子に腰掛け、レースを編みながら子犬を見た。フセをしていた子犬は優梨と目を合わせると首をかしげた。


「ブチ柄だから、“ブッチー”にしようかしら。ブッチー!」


 名前を呼ぶと、優梨を見てしっぽを振った。


「よし、ブッチーに決まり」


 名前が決まると、狂犬病の予防注射をするため動物病院をスマホで検索した。一番近い病院までは電車で三十分ほどの町にあった。電話で予約すると、ボストンバッグにブッチーを入れた。


 車中、少し開けたボストンバッグに指を入れると、ブッチーが舐めた。優梨はそれが嬉しかった。


 病院に着くと、飼い主からの手紙を見せて、捨て犬であることを獣医に説明すると、「迷い犬ではないのは明らかなので、警察への届け出は必要ないでしょう」と言ってくれた。ペット用品店で首輪とリードを買って電車で戻った。


 「注射済票」を持って役場に行くと、「鑑札」を貰った。早速、ブッチーの水色の首輪に「鑑札」と「注射済票」を付けた。



 それは、家の横に立つかしの木にブッチーを繋いで玄関周りの草むしりをしている時だった。


「こんにちは」


 男の声がした。

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