外伝 相克のカレッサリア⑥
窓の外には、良く晴れた青い空が広がっている。
部屋の中で仕事をしているのが勿体無いと思えるほどの昼下がり、ギノヴェーアに報告書の書き方を教わってカレッサリアでの出来事をまとめていたアルウィンのもとに、突然、デイフレヴンがやってきた。
「ギノヴェーア様、ちょっと彼を借りたいのですが。」」
言いながら、許可を得る前にアルウィンの肩を掴んでいる。ギノヴェーアはちらと書類から目を上げたが、すぐに手元に視線を戻した。
「よろしくてよ。ただし、虐めないでね。」
「え、…え?」
昨日の件だろうか。確かに、明日また来い、とは言われたが――。用事が済んでから行くつもりだったのに。
ギノヴェーアは、我関せずという顔で自分の仕事に注意を戻している。助けは求められそうにない。相手がデイフレヴンとなれば抵抗するだけ無駄だ。黙ってついていくしかない。
それに、彼が呼びに来たということは、行き先で待っているのはシドレク以外にはあり得ない。
案の定、と言うべきか、連れて行かれたのは王の書斎だった。だが驚いたことに、そこにはもう一人、ウィラーフもいた。手に何か、大きな荷物をかかえている。
シドレクは妙に上機嫌だ。
「よしよし、来たな。それでは、出かけるとするか。」
「出かける?」
デイフレヴンは、つかつかと部屋の中央に歩み寄り、何の前触れもなく床をこじ開けた。
「…え?!」
「隠し通路だ。誰にも言うなよ」
いたずらっぽく目配せしながら、シドレクは通路の中に入っていく。デイフレヴンは、アルウィンにも続くように促した。床下には、大人が立って歩けるほどの通路が作られている。城などにはありがちな、緊急時の脱出用のようだが、それを平時に使ってしまうというのは、一体…。
狭く、湿っぽい通路は長々と続いた。
どのくらい歩いただろう。一見何も無い壁に突き当たる。そこが出口のようだった。
隠れていた扉を押し開くと、向こうから冷たい風が通路に流れこんでくる。眩しさに、思わず瞬きする。――目の前に広がっていたのは、王宮の裏手の崖下だった。王都の北側の斜面。
塔の上から見たことはあっても、実際に地上に降りて歩くのは初めてだった。アルウィンは、振り返って王宮の高い壁を見上げた。あの中から直接出てきた、というのは、不思議な気分だった。
「どうだ?」
「どうだ、とは。」
「驚いただろう。」
「……。」
アルウィンは、額に手を当てた。
「それは、普通驚きますけど。…何なんです? これは」
「――王の、気晴らしの遊興だ。」
ぼそっと答えたのは、ウィラーフ。
「月に一度程度、こうしてお忍びで羽根を伸ばしに城の外へ出る。」
「なに。国王というのは窮屈な職業でな。自由に出歩くことも出来んのだ。たまには、な。」
「それ以外の時でも無断で脱走しようとするくせに、よく仰います」
「……。」
シドレクは、呆れ顔を隠そうともしない少年に、にやりと笑った。
「ま、そういうわけだ。いつもこいつら同じ顔とばかりではつまらんので、今回はお前にも一緒に来てもらうことにした。」
「…何故、私なんですか。」
「お前が一番面白いからだ。」
「はあ」
見れば、ウィラーフとデイフレヴンは東屋の中に敷物を敷き、簡易テーブルを組み立てはじめている。持ってきたものは、ピクニックセットのようだ。この大国アストゥールの王に、自分の居城の裏手の野原で騎士たちとピクニックする趣味があるとは、予想もしていなかった。どこまでも型にはまらない人物だ。
「ここからは、アンセルムスの町が見えるぞ」
シドレクは、上機嫌なまましゃべり続けている。
「王都のすぐ北にある。行ったことは?」
「ありません」
「そうか。ま、大して面白いものはないが、古い町だ。」
「シドレク様、準備出来ましたよ」
ウィラーフが言った。
「お。では、行こうか」
「……。」
アルウィンは、これも仕事のうちだと思いながら従った。野原には敷物が敷かれ、小さなテーブルの上に食べ物や飲み物が並べられている。アルウィンは、シドレクの向かいに腰をおろした。隣にはウィラーフが。デイフレヴンは王の隣だ。のちに定位置になる四人の座席位置も、この時が初めてだった。
「さて。昨日の続きだ、報告を聞かせてもらおうか」
「ここで、ですか?!」
「狭いところで聞くより気分がいいだろう」
「……。」
アルウィンは、溜息をついた。
「昨日は、…言い過ぎました。申し訳ありませんでした。…改めて、最初から話します」
さわさわと、風が吹き抜けていく。
一通りのことは話し終えた。どんな些細なことも隠しても無駄だと思っているから、すべて正直に話した。マリッドの闇取引が本当は、王国に敵対しうる国境の蛮族や西方に向けられていたことも。
シドレクは、最後まで黙って聞いていた。一度も口は挟まなかった。
「…これで全部です。」
「ふむ」
手にしたグラスのワインを飲み干し、王は口元にうっすらと笑みを浮かべた。
「武器商人マリッド、お前はどう思った」
「どう…と言われますと」
「あれは王国内で険視されている男の中では三本指に入る、扱いにくい奴だ。今まで王国の役人はことごとく、良いようにあしらわれてきた。もちろんマジャール語の話せる奴ばかりだったのだが」
アルウィンは、首をかしげた。
「そうなんですか?」
「武器商人の顧客というのは、その商人と一蓮托生だ。言い換えれば、マリッドが助けを乞えば、奴が取引していた蛮族どもや西方の異国がそれに応じる可能性もあった」
「……。」
「お前は、自分が思っていた以上に危険なことをやったのだぞ、アルウィン。そんな危険な男を、シャイラ自治領の頼りない次の領主の後見人につけたまま野放しにしてきた」
「…あの人は、危険ではないと思います。信頼してもいい」
「何故、そう思う?」
「マジャール人は商売人ですが、仲間意識は大切にします。ユースタスがマリッドにとってもう一人の息子のようなものだと知ったとき、彼がユースタスを支援するのは損得勘定からでないことは分かりました。アストラッド領主も彼の友人です。彼らの不都合になるようなことは、しないでしょう。それに」
「それに?」
「…別れ際にマリッドは、私にも友情を約束してくれましたから。」
シドレクは、驚いた顔をしたあと、膝を叩いて笑い出した。
「これは傑作だ!王国に危険視された武器商人と友達になってきたと!」
声を上げて笑い、きょとんとしているアルウィンの肩を叩く。
「お前は本当に面白い奴だな。どうやって手懐けた?」
「手懐けるとか…人聞きの悪いことを言わないでください」
少年は、口を少しだけ尖らせた。「そういうんじゃ…」
「まあいい、食え! せっかくの天気だ。ほれ、お前はもっと食って大きくなったほうがいいぞ。」
アルウィンの手に、パンケーキを握らせる。
「…もしかして、酔ってるんですか?」
「いつものことだ。」
と、デイフレヴン。何も言われないうちから、王の盃にワインを注ぎ足している。騎士二人は、護衛の役目もあるからだろう、酒には手をつけていない。
「そういえば…マリッドは、途中から私のことに気づいていたようでした。クローナに行商に来たことがあったようで」
隣で、ウィラーフがぴくりと反応するのを感じた。
「お前が、闇取引を誤魔化すのにクローナの名前を使え、などと言ったからだろう。大臣ども相手には、それで正解だろうな。クローナの名前が出れば、それ以上追求することをやめる。あの戦いは予想以上の痛手だった。思い出したくないらしい。私もそうだが」
「……少し周りを見回ってきます。」
クローナの名前が出たせいか、ウィラーフが席を立つ。デイフレヴンはちらと視線を動かしたが、シドレクは構わずに続けた。
「マリッドには、国じゅうに仲間がいる。マジャールの商人だけではない。国じゅうで起きるどんな些細なこともすぐに耳に入るよう、恐るべき情報網を持っている。敵に回らなかったのは良いことだが、何かと理由をつけて排除したかった連中には、残念な結果だろうな」
「排除すれば、シャイラ自治領だけで収まらない事態になっていたのでは?」
シドレクは、肩をすくめた。
「かもしれんな。」
「出かける前に、そんな話は聞いていませんでしたよ。」
「レビアスは知っていた」
アルウィンは、口をつぐんだ。
「もとはといえば、あの男がシャイラの宝石産出量の申告を確認しなかったのがライナスを増長させた原因でもある。優秀ではあるが――いかんせん、人を見る目がない」
「何が、言いたいんです?」
「”リゼル”とは何か、という話しだ。」
シドレクは酔っ払った胡乱な瞳で頬杖をついたまま、アルウィンを見つめた。
「繰り返しになるが、王というのは、不自由な職業でな。自由に出歩くことも、自分の目で確かめることもままならん。自分を何人にも増やすことはできん。だからこそ自分の一部として、自由に動ける正直な別の耳目が必要なのだ。誰にでも務まる役目ではない。経験豊かなだけでも、多くの言葉が扱えるというだけでも不十分だ。」
酔いのせいで頬には赤みがさしていたが、口調は至って真面目で、どこまでが本気で、どこからが冗談なのかが分からない。
「”王の目となり、耳となれ”。”また時には舌となれ”。――それが”リゼル”だ。良く見えぬ目も、聞こえぬ耳もいらん。ためらいのある舌は不必要だ。今回のことで、お前は自分の役目が分かったな。…やれるか?」
アルウィンは、王に視線を返す。
「やれ、と仰るなら。」
いきなり、テーブルの向こうから手が伸びてきた。
首に腕を回されたかと思ったとたん、もう一方の手が力いっぱい髪をくしゃくしゃとかき回した。いたずらっぽく笑う瞳がすぐ側にある。
「――良い返事だ! ははは」
にやりと笑って、豪快に盃を開ける。
「ほれ、ディフレヴン。お前も少しは飲め」
「仕事中です。」
「なんだ――つまらんな。ウィラーフはあれだし、他の騎士どもはつきあってくれんし…」
愚痴りつつも、心から楽しそうに笑い続ける。まるで子供のように笑い、部下たちを友人のように扱う――。苦笑しつつも、憎めないと思ってしまう。
アルウィンが、この気まぐれな王に対して主従ではない別の、親近の情を抱きつつある自分に気がついたのは、この時だった。
――アルウィン自身も、命じたシドレク王も、その時はまだ知らない。
それより約三年の間、アストゥール王国には王国軍が介入するような大規模な紛争は絶え、概ね平和な時代が続く。
人々は、王シドレクが剣をとることを止めた理由を噂しあうようになる。北の果て、五百年に渡り王家の傍系を称してきた歴史あるクローナ領主家を途絶えさせたことで自責の念にかられたのだ、とか、その戦いで息子を失ったことから無力感に囚われたのだ、とか。
だがそれらの噂のどれ一つとして、平和の影で尽力していた、一人の少年の存在に触れることはなかった。
彼の存在が公になるのは、それからさらに時を経て―― 「白銀戦争」と呼ばれたクローナでの戦役から丁度五年後、東方騎士団による造反による、王国建国いらい最大の危機が去った後のことである。
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