第4章 笑顔

 好きなアーティストの曲で目が覚めた。

 十月に入り、茹だるような蒸し暑さはもう感じない。時折ある蚊の襲来が無ければ、寝起きは随分と爽やかになった。

 時刻は朝の六時。今日から七時出勤、一時間半の休憩、十八時退勤である。

 入社して、早や半年が経過した。

 サンカイでは、半年を過ぎると残業を制限しなくて良いというルールがあるそうで、お試し期間はもうお終い。

 俺がこれからどんな扱いを受けるのかは分からないが、今月は三十時間程の残業が既に確定している。大変になることは間違いないだろう。

 だからこの曲をアラームにした。これから社会の本当の荒波に揉まれる俺に元気をくれる曲を、多くない曲目の中から探し、目に留まったのがこれだった。この曲は歌詞も良いが、イントロが特に良い。その華々しさは、一日の始まりに最適だと思う。

 俺は、アラームを止めたその手でSNSを開いた。顔も知らない誰かの呟きを確認するのが俺の日課になっていた。

 仕事に就いてから自分で呟くことはほとんどなくなった。そのお陰で、俺のプロフィール画面に変化はない。一ヶ月ほど前に高評価をした大手公式アカウントの呟きが、そのままトップに残り続けていた。

「退職メールが飛び交う季節ですね」

 短くまとめられたその文章に共感して高評価を押したのは事実だ。あの時は会社の嫌な部分ばかりが見えて心底うんざりしていたし、竹村バイヤーの傍若無人な怒声が鮮烈だった影響もあるだろう。

 しかし、辞めようとまでは思わなかった。俺がこの会社に入ったのは、地元社会を支えたいという思いがあったからだ。

「それを碌に実践しないで辞めたくない」

 それが俺の率直な感想だ。やりがいがあれば、辛いことも乗り越えられるというのは、きっとこういうことだろうと思う。今日から労働時間が増えることも辛いと言えば辛いが、それで青果部のみんなの負担が軽減されるのならば、どうってことはない。

 俺は前向きな思考で会社へと出勤した。

 

「おはようございます」

「「ぁああ渡君早い」」

「今日から七時なもんで」

 剽軽な挨拶は高山さんと加藤さんの代名詞になっていた。桜戸さんと田代さんとはそれほど関係を深められていないが、この二人とはよく一緒にいることもあって、戯けた会話も、今では気兼ねなくできるようになった。

「それで、何からすれば良いですか?」

 俺は二人に尋ねた。いつもなら、カット野菜やもやし類の品出しから入るのだが、一時間早い出勤によって、今までの流れとは異なるということは分かっていた。

「じゃあ鮮度チェックからやってもらおうかな」

「明らかにヤバいやつを下げれば良い感じですかね?」

「まあそんな感じ」

「わかりました」

 俺は適当に確認して、早速鮮度チェックを始めた。最初は、ほうれん草と小松菜の区別もつかなかったが、今は鮮度の良し悪しもある程度判るようになっている。

 俺はダメそうな野菜を次々とカゴに入れていった。

 そうしていくうちに、ふと疑問が浮かんだ。

「おつとめってこんなに出るものなんですか?」

 一通り集め終わって作業所に戻った俺は、高山さんに思わず尋ねていた。売場中の鮮度劣化商品を集めて見ると、積み重ねたカゴが俺の身長ほどの高さになっていた。

「いつも大体こんなもんだよ」

「多くないですか?」

「まあ並べてる数が多いからねえ。しょうがないげん」

 高山さんは特に何とも思わず答えた。どうやら、これが日常で出るおつとめの平均のようだ。こんな量が毎日出るのかと気が引けたが、むしろ、売場だけで済んだことは僥倖とさえ言えることに、俺は思い至った。おつとめ品が出るのは売場だけではない。

「そういえば、たまに冷蔵庫で腐ってるやつもありますよね?」

「まあバイヤーの送り込みが多いからね。しょうがないんや」

 そう言いながら、高山さんはおつとめ品に値段を貼り始めた。次々と半額シールが貼られていく。

 俺は研修で習ったことを思い出した。発注では、何より商品を取りすぎないように注意しなければならない。過剰な在庫を持つということは、売場に出せない商品が多くなるということであり、売場に出せない時間が長くなればなるほど商品の鮮度は劣化する。

 それが今、目の前で起きていることに俺は気づいた。

「ここの在庫多すぎません?」

「俺は気をつけてるけど、加藤君は安いものを見ると取っちゃうタイプなんや。バイヤーもそのタイプで、取り敢えず買ってうちに送るんや」

 高山さんは笑いながら答えた。それは呆れ笑いなのか、皮肉な笑みなのか、俺には分からなかったが、俺達ではどうしようもない、ということだけは分かった。高山さんの笑みに、俺は力なく笑い返した。

「それで、次は何をすれば良いですか?」

「あ、渡君はいつもみたいに品出しやわ」

「わかりました」

 俺は不必要な苦労を強いられていることに納得しかねたが、時間を無駄にはできず、品出しへと移った。

 単に品出しと言っても、それは大変な作業だ。簡潔に言うと、開店までに全ての商品を出しきれないのだ。この数ヶ月でよく分かった。ここは人手不足だ。品出しが朝礼までに間に合った試しは一つもないし、朝礼から開店までの時間も二十分とないから、開店までにどうしたって商品を並べきれない。

 今日もまた、品出し中に朝礼三分前のアナウンスが鳴った。

「みなさん、おはようございます」

「おはようございます」

 店長の挨拶に従って、従業員の挨拶が店内に響き渡る。どこの会社でもある朝礼だ。

 本当は、売場の作業を続けたいが、朝礼には出なければならない。なので已む無く出ているが、頭の中は売場のことでいっぱいだ。次に個食を作って、野菜のカットに値段をつけて、それらを出してと、やる事は猫の手を借りたい程ある。店長の話を聞く暇があるのなら、少しでも効率よく動けるように、次の行動をイメージするのが良い。それが俺の考えだ。

「ええ、次に検収係の中島さんですが、腰が悪くなったため本日付で退職となりました」

 ん?検収係の中島さんがどうしたって?辞めた?

 店長のその言葉は、俺の思考を遮るのに十分な威力を持っていた。俺の人生で、中島さんが初めての身近な退職者だった。

 身近と言っても、俺は中島さんのことをよく知らない。笑顔の中島さんしか知らない。俺が手助けに行くと、中島さんはよく笑った。マスク越しでも分かるくらい笑った。

 でも、俺は目の前の仕事に追われて、手助けに行かない日の方が多かった。そうして、俺の知らない内に中島さんはリタイアしていたのだ。

 ふと思いを馳せる。

 仕事中、あの人は笑っていたのだろうか。サンタクロースのプレゼント袋よりも大きい、リサイクル品の詰まった袋を背に担ぐ、その痛みつつある背中の向こう側で、あの人はどんな顔をしていたのだろう。

 ……これだから笑顔の人は信用できない。

 他人のせいにしていることは自分でも分かっている。きっと、何も知らないニュースのメインパーソナリティみたいな連中は、

「重労働だって分かってたんでしょ?だったら、いつも笑顔でいるわけないじゃない」

 と言うのだろう。だけど、その笑顔の裏で何を思っているのかなんて、他人の俺には分かるはずがないではないか。

 伝えようとしなかったのだから、それは結局中島さんのせいだ。それなのに……

 もっと手伝うべきだった。

 もう少し気を利かせていれば、あの人は腰を悪くせず、今も働けていたのではないか?

 体は何よりの資本だ。俺が頑張って幾つか袋を持っていれば、あの人の資本は損なわれずに済んだのではないか?

 あの人が仕事を辞めるまでに追い込まれた責任は、俺にもあるのではないか?

 それが偽善であることは承知している。俺に中島さんを手伝う時間は無かったし、仮に時間があったとしても、毎回手伝っていたかは分からない。

 それでも俺は、やれるだけのことはやったのだ。

 そもそも、俺は中島さんと特別親しかったわけでもない。

 それなのに、何故俺はこんなにも後悔をしているのだろう。

「経営理念唱和、お願いします」

 店長の話はいつの間にか終わり、朝礼も締めに入っていた。うちの朝礼は、いつも経営理念を読んで終わっていた。

「私達は、会社の発展と個人の幸せを実現し、お客様の喜びと地域社会の発展のために邁進します」

 読んで見て思った。個人の幸せって何なんだろう。従業員の体をぶっ壊しておいて、どうやって地域社会を発展させると言うのだ。

 何が経営理念だ。馬鹿野郎。

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