第46話 上杉神子2

 上杉神子のノートが、みんなから凄いと噂されるようになったのは、その後だった。噂の発端は、影山伸夫だろうが、噂を広めたのはこの三人の女子生徒だろう。しかも噂には立派な尾ひれが付いていた。噂なのだから、多少現実と違っても許されるのだった。彼女のノートを見れば、テストで高得点が得られるというのだ。


「上杉、何か大変なことになったな」

「お前が悪いわけじゃない。普段の努力が認められたってことじゃないかな」

「あまり悪いように考えるな」


 それから、上杉神子のノートの価値が、奇跡な物のように上がった。それは上杉神子の名前から取って、神様のノートとまで崇められた。が、彼女は自分のノートを他人に見られることを、あまり好まなかった。自分の書いた物だから、普段は人に見せない物を曝されるようで、恥ずかしいと思ったからだ。


「一番乗り、ずるいよ」

 生徒は上杉神子のノートを取り合うように言った。

「じゃあ。私と一緒に見よう」

「そんな事しても効果あるのかな」


 恒例のように休み時間になると、生徒はみんな上杉神子の席に、彼女のノートを見たさに集まった。他のクラスから噂を聞き付けてきた生徒もいた。

「押すな、ちゃんと一列に並べ!」

「俺、数学のノートがいいな」

「残念、数学はもう借りられたよ」

 まるで行列のできる店のようだった。彼女は、その状況を傍観者みたいに見ていた。見ていることしかできなかった。

「一人で、何分も見るのはずるいぞ」

「そうだ。そうだ」

「次が待っているんだ。早くしろよ」


 上杉神子は、休み時間をゆっくり過ごせなくなった。たくさんの生徒が、彼女の席に押し寄せてきたからだ。それにノートを返されて、がっかりした。多くの生徒の手に触れたノートは、使い古された本のように、くたくたになっていた。多くの生徒の手に触れた折り目の付いたノートは、あまり気持ちのいい物ではなかった。幾ら彼女のノートが有り難がられても、彼女には何の利益にもならなかった。彼女は神様ではない。神様はノートだった。


 昼休みまで付きまとわれるのは嫌だった。予鈴がなるのを合図にやって来た生徒に、上杉神子は、終わったら返しに来てよと言って、ノートだけ渡した。渡すと少し気分が楽になった。

「昼休みが終わる頃には、きちんと返すから」

 みんなそう言って、彼女のノートを奪うように借りていった。ノートが無くなると、さっと潮が引くみたいに彼女の席の周りは静かになった。昼食は、友達と一緒に家から持参した弁当を食べた。プラスチック製の、どこにでもある小さな弁当箱だった。蓋に可愛い猫のキャラクターが描かれていた。彼女は友達と、ひっそり弁当を食べた。上杉神子も彼女の友達も、あまりおしゃべりな方ではなかった。それでも、ときどき箸を休めて口を開いた。


「神子、今日もノート持って行かれたね」

「ううん、嫌だったけどね」

「断ればいいのに、神子が大人しくするから、みんな付け上がるだよ」

 心配する友達に、上杉神子は箸を動かし弾みを付けるように言った。

「こんな状況じゃあ、とても断れないよ。こっちが悪いことしているみたいに思われる」

「神子が悪いことしているんじゃないのにね」

「そう単純にはいかないよ」

「本当に困ったね」

 彼女は、ふーと深い溜め息を吐いた。幸せが一つ逃げていくようで、少し悔やんだ。ちょっとしたことで、神様の采配が傾くことがあることが信じられなかった。


「ノートを貸すことって、誰かに期待されているようで嫌じゃないか」

「もう諦めているのか。断るのも無理だな」


 上杉神子は午後の授業が始まる前に、返ってこないノートを回収して回った。相手がノートを返すのを渋っても、彼女には対処できる言葉があった。それは、友達が考えてくれた言葉だった。よく気の利く友達だった。彼女の思い付かないことまで、考えてくれる。自分には勿体無い友達と思った。

「ノートは必ず私に返しにこないと、効果がないよ」

 上杉神子がそう言うと、誰でも素直にノートを返してくれた。顔には不機嫌な表情を浮かべていた。が、折角借りても意味がなければ、借りてもしょうがない。彼女のノートは、勉強が分かるノートだ。それがどんなに苦手な教科だったとしても、面白いほど理解できる。だから、途中でそれを取り上げられるのは、舐めている飴を取られた子供のように不満だったのだろう。


 神様のノートは、上杉神子にとって煩わしい問題だった。彼女には、自分のノートを他人に見せることは、何の得もないことだった。みんな彼女のノートが見たいだけなのだ。彼女が、ちやほやされるのではなかった。たとえ、ちやほやされても喜ばなかった。ちやほやされることは上辺だけで、心が通じ合うわけではないからだ。


 上杉神子には、教授と名付けている猫がいた。彼女の飼っている猫ではなかった。学校帰りの通学路で、教授を探す。青い屋根の家のブロック塀越しに庭先を覗くと、教授はそこが自分の部屋みたいに、縁側でのんびり眠っていた。教授と呼ぶに相応しいほど、顔中白い髭だらけの猫だった。風貌だけでなく、態度も偉そうだった。

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