第15話 忘崎迷1(ぼうさきめい)

 忘れられない過去のこと、頭の隅に転がっている過去の記憶、それを大事に仕舞っておいて、ある時ふとアルバムを開くみたいに思い出してみる。普段は別に何とも思わない癖に、妙に懐かしさを感じてしまうのは、どうしてだろう。


 あの日に、もう一度戻りたいと思っているのか。その時の感情を呼び覚ましたいと願っているのか。もし過去に戻れるとしたなら、ぼくは今の姿のままで、まるでタイムマシンに乗って来た未来人のように、当時の自分を眺めてみたいと思っている。そうして他人の振りをして、幼い自分を褒めてやりたい。きっとその時のぼくは、変なお兄さんに会ったと思うだろう。が、そんな事はすぐ忘れてしまうはずだ。


 ぼくなんて怠け者は、誰からも褒めたり慰めたりされないのだから、たまには自分で自分を褒めてやらないと腐ってしまうだろう。人は褒められて成長していくのだからだ。

「忘崎、お前。どうして、そんな事覚えているんだ?」

「はは。お前は、いつも食べ物のことばかり考えているんだな」

「悪い悪い、そう機嫌を損ねるな」


 忘崎迷には、普段は思い出すことはない、忘れられない記憶があった。それは他人には小さな頃の、夏に川遊びしたことや、山で昆虫採集したことのような、些細な思い出なのかもしれない。彼女にとって、意味のない出来事だった。


 教室の開放された窓から、吹いてきた微風を感じた時、忘崎迷はその時体験した気持ちと、全く同じ感覚を思い出すことがある。彼女は白いつば広の帽子に、同色のワンピースを着た女の人に声を掛けられた。何と言ったのか思い出せない。車の走る音がうるさくて聞こえなかったのかもしれない。ただ飴を一つもらった。口の中に入れると、泡がはじけるサイダーのような飴だった。


 忘崎迷は、ときどきその記憶を、口の中の飴を舌先で転がすように反芻する。予鈴が鳴るまで、じっくりと口の中で飴が溶けていくのを楽しむ。が、それが楽しい記憶だとは限らない。


「糖分補給は、疲れた脳を癒してくれるというが、一日中飴を舐めてばかりじゃ、虫歯になってしまうだろ」

「それじゃあ、幾ら脳に良くても、割りに合わないぞ」

「まあ好きでも、ほどほどにしないとな」


 近頃、忘崎迷はぼんやりとしてばかりいる。それだから、急に友達の数が減った。彼女の友達は、何人だったか。はっきりは分からない。多分片手の指で足りるくらいだ。元々社交的ではなかった忘崎迷は、ますます人との交流が希薄になった。代わりに隣のクラスの男子から告白された。俺、豊田弘樹だと自己紹介された。突然の告白に、忘崎迷は無防備だった。付き合って欲しいという。忘崎迷には高校生の友達と恋人の違いが何か、分からなかった。それは忘崎迷が、特定の男子に恋愛感情を抱いていなかったからだ。


 断る理由を見つけられなかった忘崎迷は、豊田弘樹と付き合うことにした。自動的に付き合うことになってしまったと言った方が正確だろう。拒否するには、異を唱えなければならない。その言葉が、とっさには浮かばなかった。後悔というより、困ったことになったくらいに思った。


 返事の代わりに、忘崎迷はポケットから取った飴を一つ豊田弘樹に上げた。それは普通の飴より、ちょっと大きい空色の包み紙に包まれた丸い飴だった。豊田弘樹は包み紙を開いて、飴を口に放り込んだ。頬を膨らませ、すぐに歯を立て飴を砕いてしまった。忘崎迷は、ちょっとがっかりした。


「ぼくは、普段飴を食べないからな」

「小さくなったら、噛むかもしれない。口の中にいつまでも食べ物が入っていると気になるだろ」

「飴好きには敵わないさ。飴にも色々な食べ方があるんだな」

「いやそれが普通の食べ方なのかもしれない」


 忘崎迷は、豊田弘樹の悪い噂は知らなかった。あまり噂というものに興味はなかった。なぜか忘崎迷の所には、切手を貼らない手紙のように、生徒が気にする噂話が届かなかった。忘崎迷には、忘れられない記憶がある。その記憶と、豊田弘樹と重なるところはなかった。だから、一緒にいてもついぼんやりしてしまう時があった。


「話聞いてる?」

 夢中でしゃべっていた豊田弘樹が聞いた。聞いてはいなかった。なぜこんなに夢中でしゃべれるのか、忘崎迷には不思議であった。豊田弘樹の言葉は、「今日、雲が白いね。アスファルトは黒い。空気は透明だ。風が吹いた」と言っているのと同じに聞こえた。その日の雲が白いか、アスファルトや空気の色、毎日吹く風がどうかなんて、どうでも良かった。彼女の交際は、豊田弘樹が一方的にしゃべって、彼女が聞き役になることが多かった。彼女はいつも考え事をしていたから、節目がちに豊田弘樹の話へ耳を傾けていた。


 豊田弘樹はクラスは違っていても、面倒臭がらずに足繁く忘崎迷の所へ通ってきた。友達でもしないことを平然と成し遂げた。彼女は、昼ご飯は友達と一緒に弁当を食べることにしていた。それは、豊田弘樹と付き合うようになってからも変わらなかった。だから、豊田弘樹は自分の教室で、購買で買ってきたパンを食べてから、彼女の所へやって来た。その時には忘崎迷の友達は遠慮して、彼女から離れていった。そんな時は、思わぬところで無くし物をしたくらいに寂しい気持ちがした。


「忘崎は豊田弘樹のこと、どう思っているんだ?」

「分からない? そうか分からないで付き合っているのか」

「きっと断れ切れなかったんだな」

「友達みたいに、付き合っているってわけでもないんだな」

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