第20話

 部屋着の上に白衣をまとい、ヒオリは魔法薬品部門アロマ研究室の扉をくぐった。

 魔法薬品部門棟に来たときから感じていたが、研究室だけでなくこの建物全体が慌ただしい。


 残業していた他研究室の博士たちも集まっているのだとわかり、ヒオリは険しい顔で素早くあたりを観察する。

 どうやら一同は研究室と温室をどたばたと行き来しているようだ。


 速足で歩きまわる博士たちの両腕には、林檎のような大きさと色の果実と見覚えのある植物と蔦が抱えられており、彼らは室内にそれを下ろすと再び温室に戻っていく。

 床に積まれた果実に植物と蔦は、既にこんもりと山のようになっている。


 件の植物はほんの数日前に発見されたばかりだと言うのに、もうこれほど増えたのだろうか?しかもあの果実はもしや、実を付けたのか?

 繁殖力にぞっとしていると、細い腕に目いっぱい植物を抱えた同僚が息を切らしながら山のそばに走り寄る。

 彼女は腕の植物を山の一部に加えると、はたりとヒオリに気付いて「来てくれたの!?」と言った。


「メル?何があったの?これ例の植物でしょう?」

「ヒオリちゃん!手伝って!温室!草!増殖してるの!!」


 真っ青な顔のメルが告げた言葉は途切れ途切れだったが、それでも何が起こっているのか察し、彼女とともに慌てて温室へと向かった。

 例の植物を抱えて研究室に戻ってくる者たちとぶつからないように扉を開ければ、そこは既に己の知る温室の姿をしていなかった。


「な、んなの?これ……」


 扉の前で立ち尽くし、ヒオリは呆然と温室の中を見つめた。

 ぶわりと鼻孔をくすぐった覚えのある甘い香り。そして目の前に広がるのは、見覚えのあるあの植物。


 しかしその大きさは、もはや木と言っていいほど巨大だった。しかも蔦の先には、幾多もの果実がたわわに実っている。

 青々と茂る草は花壇だけでなく歩道にも壁にも蔦を伸ばし、もはや人の手の入っていない森のように温室を変化させていた。

 しかも瞬きする間にもその蔦はぐんぐんと成長し、いたるところを侵略していく。


 職員たちは懸命に蔦を引きちぎり、根を掘り出そうとしているが、植物の浸食に間に合っていない。


 ヒオリは再度ぞっとした。あまりにも異常な光景過ぎる。

 何はともあれあの植物の撤去作業に自分も手を貸した方がいいだろう。そう考えて温室内に一歩足を踏み入れた刹那───濃くなった草の香りに思わずぐっと顔を歪めた。


「これは……!?」

「え?なに?ヒオリちゃん!!」

「メル、わからないの!?」


 慌てて袖口で鼻と口を押えるヒオリにしかし、メルは不思議そうに首を傾げる。

 むせかえるような甘い草木の香りが温室中に充満しているのに、彼女は何事もなく足を踏み入れている。


 まさか己の気のせいだと言うのか。

 ヒオリはいまだに吐き出しそうで、とても温室に入れそうにないと言うのに。そう言えば他の職員たちも、この香りの中顔を歪めることなく作業している。


「え?ヒオリちゃん、顔真っ青!?どうしたの?大丈夫?」

「ヒオリくん?来てくれたのかね!?」


 屈みこんでしまった己にメルが慌て、その声を聞きつけたハオラン室長がやって来た。

 彼は真っ青な顔をするヒオリの様子をうかがうが、どうやら不調の原因である香りに気付いていない様子だった。


 本格的に奇妙さを感じ、苦しさを堪えながら室長に訴える。


「……メル、室長。ここ、何かおかしいです。封鎖しましょう」

「むう……しかし!」

「このままじゃ危険です。皆飲み込まれてしまう」


 飲み込まれるとは香りのことを言ったのだが、二人は草の浸食速度のことだと思ったらしい。


 振り返ったハオラン室長の目が、太くなった蔦に足を取られ転ぶ職員の姿を捉えた。瞬間彼は頷き、「全員撤退しろ!」と叫んで指示を出す。

 それを合図に温室にいた一同は、残された植物を気にしながらも慌てて入り口に戻って来た。


「全員出たか!」

「もう少しです!あと一人!!」

「よし、もう中にはいないな!扉を閉めろ!」


 職員たちの声が警鐘のように響き渡るなか、香りの元凶へと続く扉はゆっくりと閉ざされた。


 ヒオリと言えばすでに堪え切れずに研究室に戻ってへたり込み、新鮮な空気を取り込むために深く呼吸をしている。

 すぐそばには山と積まれた件の植物と果実があった、が、不思議なことにここからはむせ返りそうな香りはしていない。


 シャーレに入れて運ばれてきた時よりも僅かに濃い草の匂いが、そこに漂っているだけだった。


(香りのもとは植物そのものじゃないのかしら?温室に、なにか……?)


 そう考えた刹那、誰かが背後で甲高い悲鳴を上げた。

 ヒオリがぎょっとそちらを見ると、最後に温室から出て来た博士が扉の方を見て腰を抜かし、小刻みに震えていた。


§


 研究室にいる全員の視線が、悲鳴を上げた男に集まる。

 何が起こったのかとヒオリも彼を凝視したが、男はずっとがたがた震えっぱなしで呆然と前を見つめるのみ。


 一同に動揺と緊張が広がる中、ハオラン室長が訝し気に近寄った。


「何だ?どうしたのかね?」

「あ、あれ……!人影が……!!」


 室長が傍らに屈み顔をのぞき込むように問いかけると、青年は怯えたまま目の前を指さした。

 彼の指先を追って、皆が視線を温室へ続く扉に転じる。しっかり閉じられていた扉だが……中央にはめ込まれた霞ガラスの向こうで影が動き、誰かが「あ」と声を上げた。


 その影はひらひらと移動する小さな手のひらだった。誰かが手を振るような動きを、扉の向こうでしているようにも見える。

 皆が注目している中、影はちょこちょこと扉の周りを歩き回っている。研究室の中に入りたいのか。


 まだ温室に誰か残っていたのかと皆思いかけたが、どうも様子がおかしい。

 霞ガラス越しに映るその影は体長がおおよそ20cmほどしかなく、手のひらは子供にしても小さいのだ。


 もっともこんなところに子供などいるはずがないと理解した研究員たちは、驚き戸惑い呆然と扉を見つめた。


「あれは、一体、何なの?」

「人形劇だ」


 ヒオリのあ然とした台詞に被せるように、メルが言った。

 しかしその言葉の意味がわからず、「何の話?」と彼女を振り返る、が、どうも様子がおかしい。


 同僚はぼんやりと温室の扉を見つめ、ぽかんと口を半開きにしている。

 この異常事態に見せるにはあまりにも危機感の無い彼女の表情に、ヒオリは嫌な予感をかきたてられ詰め寄るように問いかけた。


「メル?どうしたの?人形劇って、いったい何が……?」

「人形劇だ」

「踊らなくちゃ」


 しかし己の声は周りから聞こえた虚ろなそれにかき消される。

 ぎょっとヒオリはあたりを見回す。

 いつの間にか周囲の研究者たちも、ぼんやりとした表情でただ前を見つめており、口々に何かを呟いていた。


「皆?ハオラン室長?」


 一縷の望みをかけて室長に目を向けるが、希望は儚く打ち砕かれる。

 初老の室長も他の研究員たちと同様に、「踊らなくては」「人形劇に」とぽつぽつと不気味に呟いていた。


「ちょっとっ、メル!室長!しっかりして!!何があったの!!」


 言いながらヒオリはメルの肩を掴み、乱暴とも思える強さで揺さぶる。

 からんと音をたてて彼女の眼鏡が滑り落ちたが、それを気にすることも無く……それどころか同僚の目はいつの間にか眠たそうに閉じかけていた。


「メル!?」

「おどらな、きゃ……おどりに、」


 呼びかけも虚しく、それだけ言って同僚のまぶたは閉じ、体は床に崩れ落ちた。

 よもやと顔を青くして首筋に指をあてたが、脈は正常。すうすうと彼女は穏やかな寝息を立て始めた。


 ふと気づけば周りの研究員たちも皆目を閉じ、床に倒れ伏している。

 彼らもメルと同じくただ眠っているだけのようで、小さく胸が上下していた。


 取り合えず今すぐ命が失われてしまうようなことは無いらしく、ヒオリはほっと胸を撫でおろす。

 だが落ち着いてもいられない。早く誰か呼んで、皆を病院に運ばなければならない。


 白衣のポケットから携帯端末を取り出し、レスキューの番号を入力する。

 いまだ落ち着かぬ心をなだめるように呼吸をしながら、ヒオリが最後の数字を押そうとした───瞬間だった。


「貴女、私の断罪の邪魔をするつもりなの!?」

「え?」


 唐突に割り込んできた甲高い声に、ヒオリはぎょっと振り返る。

 見開いた目の先に立っていたのは、プラチナブロンドが美しい白衣の女性であった。


 普段は妖精のように儚げな表情は、激しい憤怒に彩られ般若の如く変化している。しかしその表情に面影がなくとも、独特の存在感を持つ彼女を見間違うはずはない。

 むしろ怒りの表情すら見るものの目を惹くその人は……確かにリリアン女史であった。


 どきり、と心臓が不自然なほど大きな音を立てる。

 誰かが入室してきた気配は無かった。ならば先ほどから研究所にいたのか?いや、流石に彼女がここにいれば気づくはず……。


「り、リアン女史?いつの間にここに?いえ、そんなことより……」

「私の魔法を感じて、植物が大きくなっちゃったの。これは全部貴女のたくらみなのね!」

「え?植物?もしかして、貴女が……?」

「ニールさんを騙していたし、貴女も悪人なのね!植物を取りに来たのに、上手くいかないじゃない!!」


 子供のように癇癪を起す彼女は、やはり言葉が通じない。

 今に始まったことではないが、その会話能力の無さに恐ろしさすら覚えてしまう。

 ヒオリはリリアンの様子を観察しながら、言葉を選び、戦々恐々と問いかける。


「リリアン女史?何を言っているんです?今はそんなこと言っている場合では……。皆がおかしいんです」

「皆なら平気よ!私に協力してくれるように説得しているんだから!それより貴女、どうして魔法が効いていないの?もしかして貴女も『魔術師』なの?」


 その言葉に再び心臓が大きく跳ね、ヒオリは呆然とリリアンを見つめた。

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