司水菫 五(後編)

『“天慶元年、朱雀うへの御世に京におびたたしくおほなゐることありき。雲居くもゐの内膳司崩じ、堂塔、仏像もつひゆることはなはだし。”



天慶てんぎょう元年、朱雀天皇の御代に京で大地震があった。宮中の内膳司ないぜんしは崩れ、堂塔、仏像も多く崩壊した。民家もことごとく倒壊し多数の死者が出たという。同年に洪水も起こり、これが追い討ちの大打撃となる。民の苦しみは大きかった。


伝承によると、大洪水を鎮めたのは司水のむすめのひとりであった。司水の女たちはみな容姿が美しく清らかで、それも手伝い民は彼女を崇めるようになった。彼女だけではなく、司水一族の女人は大小の差はあれど水の扱いに長けていた。ただ、その傾向の強い者ほど心身は虚弱であったという。


司水家は自分自身に能力がある訳ではなかったというのは前述の通りである。水の扱いに長けている、いわば“水に親和しやすい体質”であったと言われている。本来、水の能力は強大なものであるが、普通の人間はそれを最大限に引き出せる親和性がない。それで、民にはあたかも司水一族が特殊な力を持つ能力者に思えたのだろう。

稀に、司水家には水由来の浄化能力の非常に優れた者が出ることもあり、その者は特に「使役しえき」と呼ばれ敬われていた。大洪水を鎮めたむすめも使役であったと思われる──。』






読み込めば読み込むほどに謎を呼ぶ書き方は、まるで森沢のおばさまそのものだった。あれから私は図書室に一週間以上通っている。

自分のルーツを知ることは、興味深くもあり、不安でもあった。なぜなら、私たち姉妹は現在進行形でこの血ゆえの運命を辿っているように思えて仕方がなかったからだ。


智世子お姉さんと共に幾つもの資料を突き合わせて集めた情報から分かったことがある。

これほど大昔から名のある家系ではあったが、当の司水家は人々の中で目立ち注目されることを望んではいないようだった。そのためか功績の語り伝えは控えめで、やがて忘れ去られ、後世の子孫は民の中に散り散りに紛れてしまった。司水家からさまざまな分家が派生し、司水家を司水家たらしめる特殊な血も薄くなった。なにより「司水」と名指しで伝わっている言い伝えはすべて口頭伝承で、文献にあるのはその存在を仄めかす程度の、曖昧なものばかりらしい。


──じゃあどうして、森沢のおばさまはここまで詳細に司水家にまつわることを記録できたの?


地域の住民に聞き込みとはいったって、そんな大昔のことを誰が知っているというのだろう。現に私は司水一族の一員であるにもかかわらず、二代さかのぼった先祖のことまでしか知らない。彼女の確信したような書き方は、まるでその場を見ていたような、知っていたような。

「ここがずっと気になってるの」

智世子お姉さんが資料の一箇所を示す。以前読んだ「水呼びの儀」の記述の続きだった。



『儀式の詳細については確たる証言を得るに至らなかった。というのも「水呼び」は司水家の人間だけでひっそりと行われる、極めて閉じた性質のものであったゆえである。これについて唯一考察対象となり得るのは、発生時期不詳の童歌わらべうたのみである。 


”きれいなお花を浮かべましょ

睡蓮 浅紗あさざに 水芭蕉 

月のない夜は きよらなり

ひいふうみっつ 数えたら 

草木もねむる うしの刻

 

サァサ手をとり

踊りましょ

踊りましょ


水漬みづくむすめの うるわしき

凍て解けみづの よろこばし

今宵はうれし きよらなり

口を閉ざすは 聖なれば

行き交ふむすめの 祝いなり


サァサ手をとり

踊りましょ

踊りましょ

踊りましょ……”』



一瞬、私の脳裏に鮮烈な記憶がよぎって消えた。

「意味深だけど」

智世子お姉さんは眉間の皺を深める。

「私はこれを読むと、一年前のことを思い出す」

川の流れに呑み込まれた私たちのことを。

「ちょうどこの時期だったじゃない。よく覚えているの。夜中にお向かいからおじさまとおばさまが慌てた様子で訪ねて来て『娘たちが帰ってこない』って。外に出てみたら月も出ていなかった。新月だったのね。それで……」

智世子お姉さんはふと黙った。

「どうしたの」

私が問うと、彼女は音もなく立ち上がって壁に掛けられたカレンダーに駆け寄った。

「今日がちょうど一年後の、新月みたい」

智世子お姉さんが振り返ってそう告げたとき、私は初めて自分の中の司水の血が騒ぐのを感じた。

「帰ろう」

智世子お姉さんは目を丸くする。

百合が、、、









家に着いた頃には辺りはすっかり昏くなっていた。普段の私らしからぬ切迫した様子に、智世子お姉さんは玄関口まで一緒に来てくれた。

家の明かりはついているし、夕餉ゆうげの匂いも漂っている。お手伝いのふみ子さんが準備してくれたのだろう。百合は帰っているだろうか。

唐突に玄関の引き戸がガラリと開いた。

「おかえりなさい。あら智世子さんも」

思わぬ人物の登場に私たちは言葉もなく立ち尽くしてしまった。

「今ご両親とお話ししていたの」

うちの澪と百合さんが一緒に居なくなったのよ──感情の読みづらい特有の化粧顔で引き戸の向こうから現れたのは、森沢のおばさまその人だった。

「居なくなったって……それじゃあ」

「水呼びね」

私たちが司水家の歴史を調べていたことも、その資料として自分の編書を読んでいたことも、儀式のことをを当然のように百合と澪が分かっていたことも、全てを見透かしていたかのようにおばさまは言った。

「分家なのよ、森沢家って。だから司水家の内々の情報ならよく知っているわ」




家の中では父も母も狼狽えていた。母などは泣いている。椿が消え、今度は百合も居なくなった。二度も親にこんな思いをさせるなんて、私たち姉妹はなんて不孝なんだろう。

「御安心なさって。娘さんはわたくしが責任を持って

森沢のおばさまは力づけるように母の手を握り、私たちと話をするために二階へ上がった。


「どこからお話ししようかしら」

「百合は」

「慌てないで。いずれ日を越えないと何もできないわ」

気が急く私とは対照的に、おばさまはゆったりとした動作で肘掛け椅子に腰掛けた。何もできない、というのは「水呼びの儀」が、という意味だろうか。

草木もねむる丑の刻──。

「菫ちゃんと、ここ二週間くらい司水家のことを調べていたんです。都さんの資料本を中心に。民俗学者でいらっしゃるなんて存じませんでした」

「あなたならいずれ気が付かれると思っていたわ。予想通りね」

「百合は無事なんですか」

「あなたの言う“百合さん”なら、無事でいるわ。澪が一緒だもの」

含みのある言い方だった。聞きたいことは山ほどある。百合の居場所。澪の正体。それから、先程知ったばかりのおばさまが司水家の分家だという話にも動揺している。

「椿さんは使役しえき。百合さんは見たところ無我むがね」

“使役”という言葉には聞き覚えがあった。司水家に稀に現れる、水由来の浄化能力の非常に優れた者──という説明を資料本で目にした。

「司水家の存在構造は水とおなじなの。山から湧いた水が川となって海へ流れる。その水もまた吸い上げられて山へ帰る。何億年とそれを繰り返しても、水は決して古びはしないでしょう。司水もそう。水呼びの儀はね、司水の娘の循環のための儀式なの」

「娘の──循環? 」

「昨年の月無し夜、意図せずにあなた達は水呼びを行った。使役である椿さんは問題なく入れ替わった。百合さんは入れ替わったものの、不完全だった」

「待って」

水呼びというのは、他の誰かと入れ替わる儀式なんですか、私はぞっとして口を挟む。そして、あのとき溺れたあれが、知らずに儀式の形を取っていたことにもぞっとする。

「そうよ。童歌の記述は読まれて? “行き交ふ娘の祝いなり”って。百合さんはこの一年、入れ替わった娘さんの人格と本来の自分との人格の間を往ったり来たりしている。だから記憶が混濁したりぼんやりしたりしょっちゅう眠ったりしている。そんな状態を無我と呼ぶの」

無我。言われて、心当たりはあった。

百合と思い出の共有ができなくなった。百合本来の大らかさとは異なるあのぼうっとした様子、眠っているようでいて不眠がちであったこと。

「あの子は本物の百合さんになろうとして健気にも演じていたのよ。百合さん半分、元の自分半分のなかで」

女優の子ね──森沢のおばさまは目を細めた。

「百合じゃ──なかった? 」

頭を内側から殴られたようだった。百合さんではあったのよ、というおばさまの声はもう私には届いていなかった。長椅子で隣に座る智世子お姉さんが、私の腕にそっと自分の腕を絡めてきた。


女優の子。


日付が変わるまでに、知らなければならないことはまだ幾つもありそうだった。













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