水 三
世界は繋がる、昼も夜も。まるく放射状に拡がってゆくロゼットのように。
朝、袖を通したブラウスのカフスから、透き通るガラスの
柔らかな苔の上を転がってゆくその
──入れ替わったのね。
ひとり入ってはひとり出てゆく。わたくしと、入れ替わったのです。
知らず知らず順応して、この世界のことを理解しはじめていました。
この林は浄水場そのもの。私もまた水と認識されて、だから個人の名や、それに付随する思い出がきれいに濾過され磨かれて無垢になってゆくのです。
同時にそれはわたくしがわたくしではなくなっていくことを意味しました。べつに構いませんでした。却ってそれは、自然体でみずみずしいことだと思いました。何にも縛られない、しがらみもない。それよりもわたくしには、以前の自分が戻って来ることのほうが不健康に思えたのです。
いつかのこの先、わたくしのように訳も分からず新たな娘さんがまたこの林に迷い込むのでしょう。そのときの世話役にわたくしもまたなるのです。あの幼女がしてくださったように。
すっかり
彼女から聞いた、野生の生き物の生涯にわたくしは憧れを持ちました。
彼らはそもそも、老化によって美しさを損なうほどの年数生きないのです。
醜さを晒してまで生き延びず、退き際をわきまえて清らかなまま。
そうしてそれはまたわたくしの辿る運命なのだと。清らかな循環だからこそ楚々として、わたくしたちは美しいのでしょう。わたくしの今出来ることは、健やかに過ごして自分を浄化させること。そう思ったら、なにごとも不安には思いませんでした。
いえ、本当をいえば、なにごとも不安はない──と言い切るのは嘘になるのかも知れません。
*
散策のときに、その衝動は訪れます。
林の外れにある、あの濁りの
──死んだ水ですよ。
幼女の声が警告します。死んだ水。なにか悪いものが不健康に沈澱したまま腐敗しているような悪い水。触れることすら許されないほどに悪い。どうしてこの林はこんなものを放っておくのかしら。
最初は
水に備わっているのは浮力ではなく引力であると、そう感じているのはわたくしだけでしょうか。
気がつくとわたくしは濁りの泉の淵、その水際にしゃがみ込んで、水底に目を凝らしていました。蛾の翅のような手触りのベルベットのスカートの生地を撫でながら、わたくしは泉に触れたい衝動を紛らわせておりました。スカートを撫でていた手は言い訳をしながら、少しならいいじゃない、とどんどん前へ伸びてゆきます。
わたくしはほんの一滴分、慎重に人差し指で水面を突いただけでした。
本当にそれだけでした。
わたくしの揺らしたそこから緩やかに同心円状の波紋が広がって、クレーターのようにさざめいて、ああ、そこから。
水の中からすっと岸に沿うように白い手が出て、わたくしの手首を掴みました。あっけなく、わたくしは引き摺り込まれました。折角浄化されかけていた恐怖という感覚をわたくしは久し振りに思い出しました。誰なの。わたくしを掴んで離さない、この手は誰なの。
水の、なんと恐ろしいこと。油断したほんの隙間、引き込まれる。水底に沈められて、ようやく浮力が機能するのは死の
濁りの中で、引いた手の相手の顔は見えません。でもあれは、白くて華奢な、女の子の腕。
──椿、
──椿、
驚いて、ごぼと吐いた息が気泡と雑音を生みました。
こわい!
百合、と思ったのです。椿というのがわたくしの名を指すのだと気がつくよりも先でした。百合。思った瞬間胸がちくりと
その時に思い出しました。わたくしにはかつて姉と妹が居たのだと。
水。その畏怖。透過した空の水色。糸レースのような雲のそのはざまに──。
水花が浮かんでいたこと、鮮明に憶えています。
司水の娘か。
お前は。
──司水の娘だな。
意識が薄れゆくのを感じました。抵抗するにはあまりに魅惑的で、眠気に引かれるようにことんと落ちつきました。
“心せよ あそこに落ちたなら
お前はもうお前では居れぬから”
世界は繋がる、昼も夜も。まるく放射状に拡がってゆくロゼットである。
いま在るこの世界のほかに隣り合う各世界も伸びやかに成長して、ほらここ、綺麗に円形に拡がっている様子が分かりますか。
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