30.置き去りのスケッチブック。
ごめんね。あの人、一度言い出したら聞かないの。ほんとーにゴメン!
そう謝られたところで事実は変わらない。
「どうしてこんなことに……」
場所は美術部室。俺の希望(というか懇願)により、扉の鍵はきちんと閉められ、外から内部を見ることは(よほどの緊急事態でも無い限り)叶わない状態になっている。
参加者は、三人。うちひとりはモデルで、もう二人はそのモデルを描く、描き手、という構図だ。
そして、モデルとなった俺の恰好はというと、
「いいね、やっぱり可愛いよ君」
「ごめんなさい……ほんとにごめんなさい……」
全裸だった。
いや、正確には毛布が一枚付属していたけど、こんなの、あってないようなもんだ。
一人で勝手に盛り上がった
ちなみに、俺の思考回路はさっきから全然役に立っていない。取り合えず恥ずかしいから、あの、そんなにじっと見ないでください……。
碧は、そんな心の叫びを無情にも切り捨てるようにして、
「それじゃ、描こうか。ほら、
「ごめんね……すぐ終わらせるから」
謝るなら止めて欲しいと思った。
けれど、それが出来ないのもなんとなく理解できた。そうだよね。なんだって碧の描く絵が見られる千載一遇のチャンスかもしれないもんね。俺が全裸にさせられて、凝視されて、ちょっと変な気持ちになることくらいじゃ比較にもならないよね。分かってた。分かってたよ。素数を数えて気持ちを落ち着かせるよ。
と、まあ、そんな経緯で唐突に始まった(ほぼ)ヌードデッサンだったけど、始まってみれば二人は意外と真剣だった。
育巳はもちろんのこと、碧の表情も真剣そのもので、スケッチブックに鉛筆で描いているだけのデッサンでしかないとはいえ、出来栄えがちょっと気になるレベルだった。なにせその絵にほれ込んで部活動に入部する人間が居るくらいの絵だ。素人でも分かるくらいの凄いものが出来上がるのだろう。楽しみだ。
最初にあった変な感情は消え去り、途中からずっとモデルを全うし続けていたのだが、
「先輩?出来ました?」
「大体ね。そっちは?」
「出来ましたよ」
おっと。どうやら絵が描けたようだ。
碧が、
「
選択権を委ねてくる。
どうしようか。正直気になるというか、今日の本命は碧の絵だ。
一方で、そんな絵を見ることに躊躇いがあるのもまた事実だ。
なにせ、碧はずっと、人前で絵を描くという事をしてきていなかったのだ。
人の見ていないところでは密かに研鑽を積み重ねていた可能性もゼロではないが、自分を慕ってくれる可愛い後輩に技術を見せていない以上、そこには何らか“見せられない理由”があったに違いない。
その理由が、今、ここで暴かれる。
先か後かはほんのちょっとの違いだが、何が出てくるか分からないブラックボックスを開けるのは、ワンクッション置いてからにしたい気もする。
と、いう訳で、
「えっと……じゃあ、一色先輩から」
それを聞いた育巳は淡々と、
「ん。分かったわ」
手元のスケッチブックを裏返して、こちらに絵が見えるようにする。
「わ」
「うん」
二人の反応は全く違うものだった。当たり前だ。俺は碧と違って、見慣れていないんだ。そこには一目で「上手い」と言えるレベルのデッサンがあった。
美化するわけではなく、けれど、しっかりと美人に描かれた笹木華の姿がそこにはあった。多分実際の姿はもうちょっとスタイルが良くない気もするし、美人ではない気がするのだけど、そのあたりも「盛った」というよりは「綺麗に見せた」という感じだ。嫌みが無い。
育巳は、そんな絵とは正反対に、嫌みをたっぷりと入れ込んだ視線を碧に向けて、
「先輩は、そんな反応をするってことは、当然もっといい絵を描いてくれてますよね?」
煽るなぁ。でも多分それは碧には効かないと思うよ。
「分かった、分かった……はい」
そんな嫌みを受け流しつつも碧がスケッチブックに描かれたデッサンを俺らの方に向け、
「え」
「…………は?」
なんだ、これは。
確かに人体の構成要素はきちんと描かれている。髪の長さや、体の凹凸を考えれば女性を描いたものだということも分かる。そこまではいい。
ただ、
「なんですか、それ?」
分かるのはそこまでだった。
技術的に劣っている……かは分からない。と、いうかそれ以前の問題だ。
馬部碧の描いた笹木華は、あまりにも独創的な、キュビスムもびっくりの前衛絵画だった。
碧は、
「どうだろうか。華くんの可愛さと、奥ゆかしさを表現、」
「先輩、質問に答えてください」
低い声。
そこに込められているのは怒りか、失望か。
一触即発。
そんな空気でも碧は全く動じず、
「どうしたの。そんな怖い顔して」
育巳は更に眉間にしわをよせ、
「怖い顔にもなりますよ。なんですか、それ。デッサンですよ?真面目に描いてくださいよ」
碧はさらりと、
「真面目に描いたって」
「真面目にって……」
育巳はそこで言葉を切って唇をかむ。両の拳は力を籠めすぎて、爪で皮膚を傷つけてしまうんじゃないかというくらい固く握られている。
そんな状態で暫く逡巡したのち、ぽつりと小さな声で、
「……帰ります。お疲れ様でした」
そう呟いて、立ち上がる。碧が、
「帰るって、華ちゃんはどうす、」
育巳はそんな呼び止めを完全に無視し、スケッチブックも置いて、自らの鞄だけをひっつかんで部室を出て、扉を、行き所のない感情を全部ぶつけるような乱暴さで閉め、去っていく。思い切りたたきつけるようにて閉められた扉の、痛いほど大きな残響と、虚しいほどに純粋に、そして真剣に描かれたデッサンだけが残される。
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