3 高校生活


 高校生活のはじめ、休日は縹と遊ぶ約束で埋めつくされた。浅葱はいつも彼の家を訪れた。彼は毎度眠ったまま浅葱を待った。雑草が刈られないままの通路を通って、彼の部屋の窓をノックすると、縹は夜具のまま現れた。クセ髪の彼にとって寝グセなどないようだ。目の周りだけ眠たい気分を思わせる。部屋に入ると待っていてほしいと言う。それがいつもの調子である。しかし浅葱にはそんなことは嫌な気にはならない。彼にとって縹との付き合いは生活の一部と同じようなものだった。

 浅葱は待つ間に彼の部屋の棚にある彼のコレクションを眺める。映画のビデオやサントラ、流行りの音楽CDが一辺の壁一面にずらりと並んでいるのを見ると何もない自分自身の家を思い浮かべる。そして彼は縹のことを少し羨ましく思った。

 彼は部屋に戻ると外行きの支度をはじめた。ふたりの変化は外に行って遊ぶのが増えたことにあった。しかし、それで実際何をするという訳でもない。最近の出来事を報告や、懐かしい話をしたり、新しい遊びを考えるなどしながら、街を歩いて、本屋、喫茶店、ファストフード、ファミレス、カラオケ、ビリヤードと、しかし結局互いに何か意味深いことをするでもなく、グダグダと休みを謳歌するだけのことだった。

 そのうちふたりにも自分たちのしていることがムダなのに気づいて、嫌気がさしてきた。外に出ても縹には金があったが、浅葱は遊ぶ余裕もないほど金欠だった。そのためにふたりの行動範囲は限られた。段々、喫茶店で話すだの、公園で話すだの、遊びは空想の中で行われるようになった。

 縹はM高の教師を真似てM高の教師を真似ておどけてみたり変なことばかりを浅葱に話した。一方浅葱は、旅行をしようと話して、浅葱は今までどのくらいの旅をしたか訊ねた。彼は箱根とだけ言った。浅葱にとってそれは意外なことだった。彼は旅をあまり経験したことがなかった。浅葱は親に連れられて、沢山の地を巡ったこと、各地の風景、食、人ガラ、など次々と彼に聞かせた。……しかし浅葱は話し終わってからハッとした。それは浅葱自身がしばし経験したというだけのことで、縹にはそうした経験をすることはあり得なかったということだ。浅葱はひとりでに暗い気持ちになった。しかし冷静な面持ちの彼を見、思いきって今まで訊かなかったことを、これを機に訊ねた。

「両親との記憶はないのか?」

 彼は少し眉をひそめて、しかしすぐに顔色を戻し、笑いかけた。冷静を装っているのか、それとも怒りのためか、しばらく沈黙が続いた。彼は鼻で息を吐くと、こう呟いた。

「祖母さん、もう、もたないらしいんだ」

 縹の突然の発言に浅葱は少し驚いた。しかし驚いたとして、どう驚くべきなのか言葉にできなかった。縹の家にいて祖母の話や父母のことを聞いた試しがなかったし、顔を合わせたこともないのだ。縹が親近間の話を口にしたのもこれがはじめてだった。

 ふたりは会話を失くした。お互い黙ったまま、何をするでもなく同じ空間を共有するだけになった。浅葱は彼が何を考えているのか、そして自身が何をしたらよいのか、分からなかった。しかし当の縹もそれについてどう考えたらよいのか、迷いあぐねているようだった。いままでの普段の彼の行いを考えると、家族に関して今更気を寄せるつもりにはなり辛いだろうし、それを話したところでどうにも出来ない。浅葱はまた何か言おうとして、しかし言葉は呑み込んでしまった。しかしそれは当り前のことのようにも思えるのだ。浅葱にとって縹の祖母は、会ったこともない知らない人だ。彼の生活に関してその祖母が、どのような役割を果たしているのか、浅葱には理解することもなかった。そしてしばらく縹とは顔を合わせない方がいいだろうと思った。


    ⁂


 数か月、浅葱はひとりですごした。学校ではそれなりに友人を作ることにした。男女問わず、ありのままに付き合った。しかし学校での友人付き合いでは縹を忘れることができなかった。やはりどこかしらもの足りなかった。

 やがて浅葱は不安になった。縹とはもう顔を合わせることもできなくなるのではないかと思い始めた。けれども浅葱の方から連絡を取るようなことはしなかった。彼にとっての生活に欠くことの出来ないであろう存在にあった祖母がいなくなるのに、その非情な事態に焦燥感を覚えるはずの彼が、何でもないような顔をして、死についてさらりと話して何にも動じていなかったからだ。そのためか浅葱は縹の心理をつかみかねたまま彼を引き寄せることは、彼にとって自分自身の我を通すだけのような気がして、やるせなかった。

 そんな時、浅葱は薄柿うすがきひわと青藤あおふじあかねに出会った――。ふたりは二藍撫子の友人で、三人でよく浅葱の話をすることがあるというのだった。三人は浅葱からして見て、とても美しかった。確かに縹なしの浅葱の陰鬱さを考えれば、三人はずっと陽気で生き生きしていた。たとえそれが世間一般で言う普通の女子生徒と呼ばれたとしても――。  

 浅葱はしかし三人が話しかけてきたことにどう応えて良いのかわからなかった。彼にとって今考えるべきことは縹とどうやっていくのか、それだけに重点が置かれていたためだ。

 このとき学校での浅葱は完全に駄目な生徒になっていた。勉強もせず、人付き合いも適当で、ひとりで何をするでもないし悶々と暇を持て余していた。そして浅葱は、誰に合わせる顔もなく、ヒドく人間恐怖に陥っていた。実際三人に声を掛けられても、言葉を返すこともできず、眉をしかめて睨めつけることしかできなかった。

「大丈夫?」

 しかし浅葱のそうした表情を気にもせずそう言ったのは薄柿だった。彼女は浅葱について尋ねてきた。それはどうしていつも苦しそうにしているのかということだった。だがそれを浅葱の口から話すには無理があった。そしてこのことは本当のところ、縹のためにあるという訳でもなかった。

 浅葱が他人をあまり寄せ付けないのには理由があった。彼には人のことを考えるよりも、自身のことで精一杯だったからだ。家には陰険な父親と、ヒステリーな母親、引き籠り兄がいた。そのために学校のことも家のことも生活がどうすれば成り立つのかわからないほど混乱していた。浅葱は自分のいままでしてきたことをすべて投げ棄てて、死ぬことばかり考えた。その中、この重苦しい思いを縹の批判的な言い草に重ねて葬り去ることで、悲壮な日々から安楽な日々を夢想できるようになったのは、浅葱にとって不思議なことだった。そして、彼の考えに同情する日々は浅葱にとってすべてだった。浅葱の生活のそれ以外は抑圧された死の世界だった。浅葱にとっての縹に出会う前までは、生きていること自体、常に許されない事実を受け入れるためにあった。

 ――例えば学校から帰宅する際、浅葱は電車を利用していた。これから帰宅するということを考えるだけで、抑えきれない感情のために待ち時間はプラットホームを端から端へ歩いて考え事をした。人は目につかなかった。これから先まるで頭に狂気を抱えたつもりで、途方に暮れた路を行かなければならなかった。その狂気というのは家で聞く、陰惨な台詞の数々を思い出すためだった。そして電車が滑り込む瞬間、騒音を聞いて、ハッとした。ヘッドライトがレールと並行にしかれたプラットホームのラインの奥で結ばれて、浅葱の心はそれに魅せられた。誰かのために警笛が鳴らされたのだとしたら、それは自分のためではなかっただろうか、と浅葱は思うのだ。……騒音が近付き、アナウンスが流れた。ホームの端に浅葱が立った。その時、浅葱には引き籠りの兄の声が響いた。

 ――ふざけんなよ

 それは苦痛の種であるはずなのに、我を忘れた時に不思議と浅葱の境遇を吹き飛ばす台詞に聞こえた。

 家に帰ればほこりだらけの部屋に兄がいて、ずっとリビングのテレビを占領している、昼間に録画した競馬の中継を見てホットカーペットの上でまるでブタのように寝ているのだ。母親は黙ったまま料理を作り、帰った浅葱には一言も話さない。何か物音を立てれば、兄がまた喚きだすからだ。帰宅するといつもこんなピリピリとした関係を彼は目にしなければいけない。そうでなくとも兄は母親に対して嫌悪感をムキ出しにする。

「飯はまだか」「いつまで時間をかけてるんだよ」「こんなヘタなもの食えやしない」「あんなもの誰でも作れる」「バカにしやがって」「オマエがオレに何をしてくれた」「オマエなんかいてもいなくても変わらない」「ジャマだから消えろ」「オマエがここにいても無駄だ」「ロクに家にもいないクセに母親ズラしやがって」「ふざけんなよ」……

 浅葱はその罵声の中、ヘッドホンをかぶり、音楽でも聴いて外界でおこること全てをなかったことにしていた。あからさまに母と兄のふたりのあいだの事情が見える。どう関係する術もない。口を出せば「テメエにはカンケーねえ」と喚かれるだけだ。なにかしようとすればそれも「うるせえ」といって兄は咎める。家にいて、浅葱も母も何ができるかといえば、兄の機嫌を伺いながらヒッソリと生活をするほか、プライベートはほぼ兄の思うままに支配され、まるで飼い慣らされた奴隷のようにこの監守に監視されているのだという意識で、じっとしているまでだ。勤めにいって、日中家にいない父親にはそれがわからない。父親が帰ればどうせ母は「なんとか言ってよ」というのだろうが、そんなことを説明もなしにいきなり言われたとして、父親が何を理解するのだろう。父は頭ばかりで兄を責めはじめ、兄は「お前に何がわかってるって言うんだ!」と結局何にもならない口論が毎晩続く。父の要領を得ない言葉がが兄を嫌にさせる。揚句父が言うのは「――近所迷惑だ」とそれに尽きる。しかし、何が悪いのかと言えば本当のところは兄が悪い訳ではない。父にはこどものことが分からない。母にはこどもをどうしてやればイイかわからない。こんなバカな親の相手をしていたら気が狂うのも当然である。兄は甘えたい精神が消えないだけだ。そして浅葱自身にもこの理解し難い状況のバカらしい家族関係をどうする気にもならない。何にしても家にいる時間がどれだけ浅葱にとって無駄だったか、そればかりでも彼をイライラさせる。兄の言うように食事もロクなものでない。時に食べられない料理が食卓に並ぶこともある。炒めきれていない半分なまの野菜炒め、表面だけ焦げて中身の赤いハンバーグ、塩のふられていない焼き魚、醤油漬けの煮もの、出汁の入っていない味噌汁――。何カ月も掃除はされていないほこりだらけの部屋、ゴミ箱周りは異臭が漂い、流しには今週一週間の洗われていない食器が山積みになっている。風呂も三月に一度しか洗わない。誰も湯船には入らずシャワーだけで日の疲れを取る。ウジの湧いた食器棚、照明周辺はコバエや蛾が飛び回っている。寝るのにも兄が朝まで悪態を叫び続ける。「バカ」「何なんだよ」「殺すぞ」――まともに眠れる時間はない。そしてその異常な生活をどうにもできない親が浅葱にはバカらしく思える。いまさら「家」や「世間体」などという理由でどうにか出来る話ではない。それにもともと会話のない家族だったのだし。――

 しかしこんな話を誰にしたところで何になるだろうか。……浅葱は薄柿にいつまでも苦い顔をしたままだった。何か言えるとすればコレくらいだった。

「君も家庭がいやそうだよね?」

 同情できうる気分は話さずともわかる時があるものだった。薄柿ひわに何かあって、そのために彼女が浅葱を気にすることも、ある直感でわかるのだ。それは嘘のようなことのようにも思えるだろうが、しかし、浅葱と彼女たちはこの一言で仲良くなった。

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