第62話元は日曜日に信者の前で弾くことを承諾する

グノーのアヴェマリアは、バッハの平均律クラヴィア曲集第一番に、メロディーを乗せたもので、誰もが聴いたことがある名曲中の名曲の一つである。


元は、少しゆっくり目のテンポ、しかし重くはならない程度に前奏を始めた。

その前奏に合わせて、春麗が歌い出す。


マルコ神父は目を閉じ、胸の前で手を組んだ。

「これは至上を越えた、神が喜んでおられる」


シスター・アンジェラの顔が輝いた。

「これぞ幸せの極致、天国にそのまま入りました」


杉本は、腰が抜け、言葉も出ない。

曲が終わって、ようやく一言。

「これは・・・独占するのが、もったいない」


マルコ神父が、大きく頷いた。

「悩み苦しむ人に、必ず聖母マリアが微笑み、救いの手を差し伸べる」

「それを示す音楽と思います」


一曲終えて、元と春麗が戻って来た。


元は、顔が赤らんでいる。

「春麗は歌が上手でした」

「久しぶりに、マジに弾きました」

「まだまだ、変えたいこともある」


春麗は、笑う。

「元君は、合わせ上手」

「それと心配性?」


元は含み笑い。

「春麗が苦しいかなと思って、途中でテンポを速めた」

「でも、大丈夫だったの?」


春麗は、豊かな胸を張る。

「肺活量は元君より立派」


そんな会話で、自分たちだけで盛り上がる二人に、マルコ神父が拍手。

「素晴らしかった」

「私たちだけでなくて、もっと多くの人に聴かせたい」

シスター・アンジェラも、続く。

「悩み苦しむ人を、救いますよ」

「まさに神が宿る音楽でした」


杉本は、元の反応をじっと見る。

マスターから、「とにかく、他人からの頼みでは、弾かない」と聴いているから。


元は、少し考えて、口を開いた。

「お世話になったお礼を考えていて」

「何も返せていなくて」

「俺が弾くことでよければ」


少し間を置いた。

「無理やり弾かせられるのは、嫌い」

「我がままと言われているけれど」

「気持ちが乗らないし、嫌々弾くのが好きでなくて」

「指を動かしているだけで、音楽に失礼」


マルコ神父が元の肩をポンと叩く。

「日曜日に、信者の前で」

「弾きたい曲を弾きたいだけで、どうかな」

「お礼は、考えなくていい」

「元君の音楽と笑顔がお礼」


元は、素直に「はい」と承諾。

そして、春麗を見る。

「春麗の歌える曲を探す」

春麗は、花が咲いたような笑顔。

「何でも歌いますよ、一緒に選ぼう」


そんな話の中、シスター・アンジェラは、元が言ったことを考えている。

「無理やり弾かせられて、叱られたのかな」

「それも酷くかな、となると・・・おそらく田中さんの奥さん」

「とにかく切れると何をするか、言い出すかわからない」


高輪の教会で、田中の妻が、養母とされるのに怒り、珈琲カップを怒りに任せて叩き割ったことを、思い出している。

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