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「つ、疲れた……」
社長秘書になってからというもの、毎日こうして倒れ込むほど疲れている。それは年々ひどくなり、週末の2日間は何もやる気が起きない。やっぱり年には勝てないみたい。
パンプスを脱ぎ捨て、風呂に入るのがやっとだ。
風呂上がりに肌を整える化粧品も、高機能化粧品ばかりが増えて行く。
昨日も母親から小言の電話があった。
電話の内容は、いつでも「結婚」だ。言い合いになって、電話を切るのがいつものことだが、最近の私は、以前のように反抗できなくなっている。
女の生理は複雑で、昨日思っていたことと、今日思っていたことは違う。
特に今日はその思いが強い。また一人、結婚退職者が出た。ファイブスターは社内恋愛を禁止しておらず、部内では退職者に花束が渡されて、お祝いムードに包まれていた。
その幸せそうな顔ったらない。指をくわえて羨ましいと思ったことは、言うまでもない。
自分の部屋を見渡して、散らかり放題の部屋に落ち着く場所はない。もうすぐ連休 が待っているというのに、休みも取れそうもない。
「無理、もう無理!」
散らかった服を蹴飛ばして八つ当たりする。
社長が好きで好きで仕方がないが、もう仕事がきつくてダメだ。好きな人が傍いれば頑張れるだろうと思って邁進していきだが、もうそれも限界だ。
「辞めよう、そうだ、辞めよう」
突然、私に退職が降りてきた。今まで一度も考えたことはなくて、辛かった時、苦しかった時も辞めたいとは思わなかった。
それも社長が、いつも私の隣にいて導いてくれたからだ。
だめ、また社長を想ってしまっている。これがいけないんだってば。
チャンス、いや、決意は固めた時に行動に移さなくてはいけない。だけど、社長を好きすぎる私が、はたして会社を辞めることができるだろうか。
仕事と身体と私生活が限界だけど、好きだし。傍に居たいけど、実らない恋。
「失恋していないのに、失恋している気分」
決意はきっともろく崩れ去るだろうと、自分のことが一番信用できない私は思っている。
小言の電話に頭にきていた私は、弥生に電話をする。
「聞いて」
『なに?』
「私、仕事を辞めることにする」
『また始まった。いつも思い付きで何か言うけど、行動に移したことないじゃん』
弥生は呆れ気味に答える。弥生には辞める辞めると言って、愚痴るばかりで行動に移したことがなかったから、真剣に取り扱ってくれないのも無理はない。自分が悪いんだけど。
「今回は違うわ。秘書を辞めて、ファイブスター製薬に水越ありって、知らしめてみせるから」
『やれるものならやって見なさい。見届けてあげるから。私は、その間にも女道を極めて、いい男をゲットするから楽しみに待ってなさいよ』
「絶対に羨ましがったりしないから」
『わかったわ、楽しみに待ってるから、じゃあねえ』
電話をした私がバカだった。もう男なんて必要ない。
女の自立は仕事にあり。家事なんて出来なくていい、ハウスキーパーを、雇えるほどの稼ぐ秘書になってやるんだから。
「結婚なんてなによ、彼氏なんてなによ、私には仕事があるわ。秘書道を極めるのよ、仕事とお金は裏切らないんだから!」
そもそも、社長なんて手の届かない人を好きになったのが間違いなのだ。
リセットをしてしまえば問題ない。秘書である以上私は、社長の傍にいることが出来る。
社長だって、女は裏切るけど秘書の私は裏切らない、忠誠心がある社員だと思っているはずだ。
ベッドにもぐりこみ、目を閉じると、社長の顔が出てくる。すでに私は社長が恋しい。
「辞めてやる」と宣言したのはほんの数分前。私の決心は簡単に揺らぐ。
「悔しい、弥生の言う通りになっちゃう」
眠って目が覚めたらこんな優柔不断の水越沙耶じゃなくて、意思を貫き通す芯の通った女に変身していないかな。
そんなことを期待しつつ、疲れていた私は、すぐに深い眠りについた。
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