第6話 トラブルの結末
金曜日の夜から神奈さんの家で過ごしたことで、私の気分はすっかり晴れていた。
だが、しず香がこの週末で機嫌を直しているかは不明だ。
月曜日は一限も二限も、しず香と同じ講義を取っている。
しず香と顔を合わせたらどうなるだろうかと、私は少なからず緊張していた。
一限目の教室で、私は辺りをさりげなく見渡す。この教室にいる何人かは、金曜日のやり取りを目撃していたはずだ。だが、私や佑夏の噂は聞こえない。そのことに少しホッとした。
当のしず香は、一限目の講義の開始時間ギリギリに来たため、私と顔を合わせることはなかった。
そして二限目は、私が最前列、しず香が最後列に陣取ったため、トラブルが起こることはなかった。
このまま何事もなく時間が過ぎてくれればいいのだけれど。
私は二限目の講義が終わると、いつものように隣に座っていた佑夏に声を掛けた。
「よかったら、お昼、一緒にどう?」
特に何か用事があったわけではないが、佑夏とはもう少し親交を深めたいと思ったからだ。
佑夏もそう思ってくれたのか、私の申し出に笑顔で頷いてくれた。
二人で一緒に学食へと向かい、佑夏は『今日のパスタ』を頼み、私は『日替わり定食・大盛』を頼む。
通常でもボリュームのある日替わり定食。その大盛となると、なかなか壮観だ。佑夏が私のトレーを見て目を丸くした。
「梢は見た目と違って大食いなんだね」
「いや、別に大食いってわけじゃないよ」
私は苦笑いを浮かべる。
確かに、運動部でもない女子がこの量を一人で平らげるというなら大食いと言われるだろう。だが、実際には半分以上を映子先輩が食べるのだ。
以前は、通常の定食を頼んでいが、私の残りだけでは映子先輩が少々物足りない様子だった。そのため今は大盛を頼んでいる。百円プラスするだけで大盛にできるのはかなりお得だと思う。
そして私は佑夏に声を掛けて、すでに映子先輩が座っているテーブルまで来た。
私は映子先輩の隣に座り、佑夏は私の前に座る。
「えっと、先輩は何も食べないんですか?」
映子先輩の目の前には水しかない。佑夏が不思議そうに首をひねる。
私は一枚余分に持って来ていた皿に、ご飯とおかずを盛り付けて、ワンディッシュプレートを作る。
そしてそれを映子先輩の前に差し出した。
「あ、ありがとう……」
映子先輩も当たり前のようにその即席ランチプレートを受け取った。
最初は私が食べ終えてから残ったものを映子先輩に渡していたが、最近は、こうして最初に取り分けてしまう。
「梢と先輩は仲がいいんだね」
「ボランティア精神だよ」
佑夏の言葉に、私は澄ました顔で答える。
そして映子先輩は「お世話に、なっています……」と消え入るような声で言った。
しばらく三人で談笑をしながら昼食を楽しんだ。
談笑と言っても、しゃべっているのは、ほとんど私と佑夏だ。
映子先輩は佑夏に対して人見知りを発動しているようだった。私と二人のときには、もう少ししゃべっているような気がする。
「あの、先輩」
それぞれの皿が空になった頃、佑夏が映子先輩に声を掛けた。
「よかったら、私が髪を切りましょうか? 素人なので、上手ではないかもしれませんけど」
先輩の髪をじっくりと見て、髪を切ってあげなければという使命感に駆られてしまったのかもしれない。
「あ、いえ、ごめんなさい……でも、髪は……」
映子先輩は、やはり髪を切ることにためらいがあるようだ。
それには、お金以外の理由があるのだろう。
そう言ってくれれば、私だって無理に勧めたりはしない。つまり、私にも言えない理由があるということだ。
少し癪ではあるが、私と映子先輩は、知り合ってまだ僅かの時間しか経っていない。言えないことだってあるだろう。
佑夏は苦笑いを浮かべながら頭を掻いて言った。
「あー、やっぱり素人の腕じゃ心配ですよね」
「えっと、違うくて……その……」
佑夏の言葉に、映子先輩がしどろもどろになっている。
仕方がないので、私は助け船を出すことにした。
「佑夏、ありがとう。でも、映子先輩はあんまり髪を切りたくないみたいだし、無理強いするのもなんだからね」
私もこれ以上、映子先輩に髪を切ることを勧めるのはやめよう。
「映子先輩、髪を切ってほしいっていうお願いは取り下げますね」
私が映子先輩に言うと、「あ、えっと……」と下を向いてモジモジし始めてしまった。
「何か言いたいことがあるんですか? 映子先輩?」
髪の毛のせいで映子先輩の表情が分からないので、私はその顔を覗き込んだ。すると、映子先輩はバッと顔をそむけてしまう。
「レズが集まって何の相談をしてるの?」
ひときわ大きな声が私たちの上に降り注ぐ。
見ると、しず香が腕組みをして立っていた。
一限、二限とお互いに避けていたはずなのに、なぜここに現れたのか。不特定多数が混在する学食で騒ぎを起こすことを狙っていたのだろうか。さすがにそうは思いたくない。
しず香は一人だった。いつも一緒にいる桐乃も市川くんも杉本くんもいない。
そうすると、三人ともトラブルがあったために、この状況になっているということか。
ともかくここで騒ぎを大きくするのは得策ではない。
「映子先輩、すみません。私、しず香と話があるので、今日はこれで……」
私は映子先輩に断って、別の場所に移動しようと立ち上がった。しかし、しず香はさらに大声を張り上げる。
「先輩、知ってますか? そこにいる梢と佑夏ってレズなんですよ」
学食内の注目がしず香に集まっている。
しず香の目がおかしい。
何かに追い詰められているようにも見える。冷静な判断は期待できないようだ。
佑夏はしず香をキッと睨みつける。だが、この間のように噛みつくような真似はしなかった。
ここで反論しても、火に油を注ぐだけだと考えているのだろう。
佑夏が好きな人はこの大学の柳先生だ。そのことを考えれば、大学内の注目の集まる場所で大きな噂にはなりたくないはずだ。
「どうしたの? 二人とも黙っちゃって。否定しないってことは、認めるってことだね」
しず香は一人でわめきながら、どんどんエキサイトしていくようだ。
「先輩、こいつらと一緒にいると、先輩もレズだと思われちゃいますよ。あ、もしかして、先輩もレズですか?」
「ち、違……」
あたふたしていた映子先輩がようやく口を開く。
そうだ。映子先輩は違う。
だから、映子先輩だけでもこの騒ぎから遠ざけなければいけない。
最も効果的な手段は何だろう。
彼氏がいると嘘をついても、今のしず香では引かないような気がした。
口だけだとか、証拠を見せろとか、そんなことを言い出すに決まっている。
それならばいっそ「私が好きなのはしず香だ」と叫んで、しず香を巻き込んでしまうのはどうだろう。
私が思案していると、映子先輩が声を振り絞ってしず香に言った。
「ち、違う……。鈴原さんには、彼氏が、いるから……」
映子先輩が「違う」と言いたかったのは、先輩自身のことではなく、私のことだったのか。
確かに、映子先輩には彼氏がいると嘘をついたままだった。
「そんなの口ではどうとでも言えるでしょう」
映子先輩の言葉にしず香は取り合わない。予想通りというところか。
しかし映子先輩も引き下がらなかった。
「私、ちゃんと見た……から……。鈴原さんの、か、彼氏……」
映子先輩の体が小さく震えている。
見ず知らずの人とこんな話をするのは、映子先輩にとっては苦痛だろう。
巻き込みたくないと思っていたのに、結局、映子先輩を巻き込んでしまったことに胸が痛む。
「映子先輩、すみませんでした。あとは私たちで話すので、映子先輩は行ってください」
私は映子先輩の腕を引いて言う。
だが映子先輩は、何かのスイッチが入ってしまったのか、私の手を払いのけてしず香と向き合った。
「鈴原さんを、侮辱して、傷つけるのは、やめてください」
それはおそらく映子先輩が出せる最大の声だろう。
私はその姿に少し感動してしまった。
しかし、しず香にとっては、映子先輩の声など恐ろしくはない。平然として映子先輩を睨みつけている。
「はっ、その子をかばうってことは、やっぱり先輩もレズなんだ」
さすがにもうこれ以上、黙っていることはできない。
私は映子先輩としず香の間に割って入った。
「しず香、私のことが気に入らないなら、私だけにして。他の人を巻き込むのはやめてくれない?」
できるだけ感情的にならないように、丁寧に言葉にしていく。
「何よ。アタシを馬鹿にしたような目。そうやってなんでも分かってるような顔して、アタシのこと馬鹿にしてるんでしょう」
私が冷静に話したことで、しず香は余計に逆上してしまった。
私はしず香の腕を掴む。
「ちょっと、しず香、落ち着いて」
しず香はすぐに私の腕を振り払う。
「触らないでよ、キモいのよ。レズのクセに、杉本くんに色目使う人が、何をカッコつけてるのよ」
やっぱり理由はそこにあるのか。しかし、しず香の言い分は、言い掛かりでしかない。
「色目を使った記憶なんてないよ」
「しらばっくれる気?」
しず香は目を吊り上げて、右手を振りかぶった。
叩かれる。
そう思った瞬間、私は反射的に目を閉じてしまう。
しかし、いくら待っても頬に衝撃が来ない。
恐る恐る目を開けると、振り上げられたしず香の手を止めている人物がいた。
なぜか睦さんだった。
「え? 睦さん、なんでここに?」
絶妙なタイミング過ぎて、ちょっと気持ち悪い。
「オレ、これからどうすればいいんだ?」
「知るか」
予想外の睦さんの登場に、私は思わず睦さんに悪態をついてしまった。感謝すべきところなのに。
「こ、この人、この人が鈴原さんの彼氏だよ」
大きな声で言ったのは映子先輩だった。
私たちのやり取りに注目していた人たちが「でっち上げかよ」とか「あの女ヤバイな」などと言いながら、興味を失っていくのがわかった。
「そんな、なんで……だって……」
しず香は呆然として、自分の右手を掴んだままの睦さんの顔を見上げた。
振り上げたしず香の手に、もう力がこもっていないことに気付いたのだろう。睦さんがゆっくりとその手を離す。
しず香は牙を抜かれたようにその場にへたり込んでしまった。
急に冷静になったのか、心持ち顔が青ざめている。
そこに桐乃たち三人が現れた。
遅すぎる登場だ。
「何があったの? 話をしてたら、しず香が急に飛び出して行っちゃって。私たち探してたんだよ」
私は小さく息を付いた。
「ちょっと、別の場所で話そうか」
私は言う。
このまま学食で話を続けるには、ギャラリーが多すぎる。
「映子先輩、巻き込んでしまってすみませんでした。佑夏もごめんね」
私は、映子先輩と佑夏に謝罪の言葉を伝えて、桐乃たちとともにしず香を連れて学食を出た。
場所を中庭に移す。
周りに他の学生もいるが、声までは聞こえないだろう。
ベンチにしず香を座らせる。肩を抱くようにして、桐乃がその横に座った。
それを囲むように、市川くん、杉本くん、私、そしてなぜか睦さんも並んで立つ。
桐乃の説明によると、金曜日のトラブルを受けて、私とは少し距離を置こうと話していたという。
だが、しず香は執拗に私に対して牙を剥くことを主張した。
だから杉本くんがしず香に対して「好きになれない」的なことを言ってしまったらしい。
それだけならともかく、私のことが好きだというようなことまで言ったそうだ。
それは間違いなく杉本くんの判断ミスだろう。
杉本くんにすれば、はっきり気持ちを伝えることで決着をつけようと思ったのかもしれないけれど、完全に悪手だ。
乙女回路を拗らせて、ともかくがむしゃらに頑張ってしまうタイプのしず香は、杉本くんの心が自分に向かないのは、私のせいだと思い込みたかったのだ。だから、私を排除しようとした。
一通りの話を聞き、私も学食で起きたことを簡単に説明する。
そこに集まったメンバーが、状況を把握できたところで私は口を開く。
「しず香の言う通り、私はレズビアンです」
睦さんを除く四人が一斉に私を見た。
ちゃんと女性を好きになったのは神奈さんだけだから、レズビアンだと言い切っていいのか、正直疑問ではある。
LGBTQで言えば、私は『Q』だと思うのだけれど、そこを細かく説明してもきっとわからないだろう。
そして杉本くんを見る。
「杉本くんのことは友だちとしては好きだけど、恋愛対象として好きにはなれません」
しず香の前ではっきりと宣言する。これが私にできる、しず香と杉本くんへの精一杯の誠意だ。
「そこのが、彼氏じゃないの?」
しず香が小さな声で言う。「そこの」とは睦さんのことである。
「通りすがりの知らない人だよ」
「おい、梢。それじゃあ、オレはおかしなヤツみたいだろう」
「ちょっとした冗談じゃないですか」
空気が重たかったので、軽く冗談を入れたのだが、誰も笑ってくれない。
コホンとひとつ咳払いをして、話を元に戻す。
「睦さんは、ちょっとした知り合いで、彼氏ではありません」
「どうして、レズだってバラしたの?」
しず香は理解できないといった顔で私を見ている。
「私はね、人を好きになることが恥ずかしいことだと思わないからだよ。相手が誰であってもね。私は、人に言えないような恋はしていない」
私は真っすぐにしず香を見つめて言った。
私は神奈さんを好きになって良かったと思っている。その気持ちに恥じることはひとつもない。むしろ自慢したいくらいだ。
「あ、ちなみに、映子先輩は本当に無関係だからね」
忘れるところだったが、これだけは伝えておかなければいけない。
すると、それまで傍観していた桐乃が「それじゃあ、佑夏と?」と聞いた。好奇心が勝ったようだ。
「佑夏は友だちだよ。桐乃だって、よく一緒に遊んでるからって、『市川くんのことが好きなんだろう』って言われたら困るでしょう?」
「あ、うん。困る」
市川くんは桐乃に気がありそうだったが、桐乃にその気がないことは見ていて分かった。
だが桐乃に素直に「困る」と言われて、市川くんは涙目になっている。
「私が好きなのは、睦さんのお姉さんだよ。睦さんよりもずっと、ずっと素敵な人なんだよ」
「おい、ちょっと言いすぎだろ」
「睦さんだって、神奈さんは素敵だって思うでしょう?」
「ああ、それはそうだな」
私と睦さんとのやり取りをキョトンとした顔で見ていた桐乃たちがプッと吹き出した。
しず香も笑っている。
私は心の中でホッと息を付いた。
多分、これでこれ以上もめることはないだろう。
「しず香。私、実は結構怒ってるよ。私のことはともかく、映子先輩や佑夏まで巻き込んだ。今度、二人にちゃんと謝って」
私は言う。しず香は笑いを止めて私を見た。
しず香の返事を、他の面々も息を飲んで見守る。
少し逡巡する様子を見せたが、しず香は小さく頷いてくれた。
「しず香が同性愛を理解できないのも、受け入れられないのも仕方ないことかもしれない。だけど、何気ない言葉で傷つく人もいることは分かって」
しず香は、もう一度小さく頷く。
本当に私の言葉を受け止めてくれたのかは分からない。
だけど、今はこれで充分だ。
話を終えて、私は睦さんと二人で校門へと向かった。
一応、睦さんに助けてもらったので、校門まで見送ることにしたのだ。
「来てくれてありがとう」
私は睦さんにお礼を言う。睦さんは「おう」とひとこと返すだけで、黙々と歩みを進める。
「ところで、どうして今日、ここに来たんですか?」
「神奈が、心配だから様子を見に行けって言ったから。神奈は仕事来られないからな」
睦さんは当たり前のことのように答えた。
「神奈さんの言うことは何でもきくんですか?」
「当たり前じゃないか」
そう言って睦さんは見たこともないようないい笑顔を見せる。
鈴さんが、睦さんのことを「シスコン」と言っているが、ここまでだとは思わなかった。
「睦さんって、本当にシスコンなんですね」
「まあな」
否定することなく、まるで自慢をするように胸を張る睦さんにちょっと引く。
睦さんに恋人ができないのは、引きこもっていて出会いがないからではなく、重度のシスコンのせいだと確信した。
そんな重度のシスコンの睦さんが、自らの意思で神奈さんの部屋から引っ越したのはなぜだろう。
睦さんも変わろうとしているのだろうか。
今回、私は結局神奈さんに助けられたのだと思う。
神奈さんや鈴さんにいつまでも甘えてはいられない。
私も変わらなければいけない。
そうして校門に差し掛かったとき、一人の女性とすれ違った。
最初に目についたのは、肩から掛ける大きな黒い鞄だ。旅行バッグとは違うように見える。
服装はとてもシンプルなものだった。体にフィットするプリントTシャツに、ダメージ加工のデニム。足元は赤いパンプスだ。
その飾り気のないファッションがとてもよく似合っていた。
その女性が足を止め、私と睦さんを見た。
そして自分の顔の前に両手を突き出し、人差し指と親指で四角を作って私たちを覗く。
絵画や写真の構図を決めるようなポーズだ。
そしてパンプスと同じ赤いルージュを引いた唇を弓型にして笑う。
「うん、かわいいカップルだね」
それだけ言うと、校内へと颯爽と歩いて行ってしまった。
私よりも少し年上に見える彼女もこの大学の生徒なのだろうか。
呆気に取られていると、睦さんがボソリと言う。
「イイ女だったな」
「睦さんが女性のことをそんな風に言うなんて意外ですね。好みのタイプだったんですか?」
「いや、好みとか、キレイとかじゃなくて、イイ女って感じだ」
睦さんが言わんとすることがなんとなく分かった。
美醜ではなく、その女性のオーラには、イイ女だと感じさせるものがあった。
私がしばらくその女性を目で追っていると、睦さんはすぐに興味を無くしたように歩き出していた。
「睦さん、ありがとうございました」
睦さんの後ろ姿に私は再度お礼を言う。
睦さんは振り返ることなく、右手を少し上げて去って行った。
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