藤蔓

栄華を誇った武田も信玄の後を継いだ勝頼の時代に織田徳川連合軍の侵攻を許し遂に終わりの時を迎える


武田の強大な軍資金を賄ってきた黒川金山において、実際は徐々にその産出量は減少していたのではないかともいわれているが、みすみす敵に貴重な鉱脈を奪われるわけにはいかない


仮に鉱脈を塞ぎ埋め、閉山しても、敵がこの黒川金山の存在を知っている限り、その詳細について従事していた者たちを捕らえそれを暴こうとすることは容易に想像がつくことだった


金山奉行は金山を守るため、秘匿の保証が出来ない者たちの処遇をどうするか決めた。


”それは皆殺しにするという方法であった”


黒川金山にはこの時五十五人の遊女がいたとされる。


その夜・・

酒宴興しと称し、黒川千軒から麓、谷を流れる川の上に藤蔓で上から吊るした舞台が設けられた


谷は深く、川の流れる音は”程よく”遠い



宴も半ば、五十五人の遊女全員はこの舞台に集められ、踊りを舞う



ほどなく、舞台を吊るしていた藤蔓は全て切り離され、舞台は五十五人の遊女と共に谷へ落とされたのである


これが俗にいう ”五十五人渕” の逸話である


厳密には諸説あり、実際は宴台などわざわざ作ることはせず、五十五人全て、次々に谷に叩き落としたともいわれている

これは、金山の秘密を守るという理由よりも、金山を放棄して落ち延びる際に足手まといになるからという理由だったともいわれている


谷に落とされながらも、その高さはそこまでないことも相して、遊女たちの何人かは瀕死となりながらも、下流に流されたところを発見した民に引き揚げられたりした


『 末代まで呪う 』


助けられながらも絶命した遊女の一人は最期にこう言ったと伝わる


また、下流の丹波山村には流れ着いた遊女たちの遺体を引き上げた場所に供養のための小さな祠が建てられ、中には五十五人が並ぶ木像が安置され、明治期まであったというが水害により流され当時のものは残っていない


また、この場所は明治十年に東京市水道局の中川金次郎が水源地を作るため最初にこの土地を訪れた時この淵を見て「ああいい淵だな、まるで”おいらん”がきれいにお化粧して夜店の前に出たようだな」と形容したことから、


またの名を


” おいらん渕 ”


という。













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