灰の花嫁 7
その一日は寒さが穏やかな日だった。
『エイヴァリーの花束屋』を訪ねてきた幸せ屋の珍妙な格好にミリアは困惑した。
半袖のポロシャツに膝丈のスカート。昨日までの淑女然とした装いとは真逆の、如何にも溌剌とした少女の服装をしていた。
「ミリアさん、テニスしましょう!」
後ろで一つに結った三つ編みが大きく揺れる。
やる気を湛える幸せ屋に、ミリアはどうしても言いたかった。
「貴女、寒くないの?」
「寒いです! もちろん!」
街外れの広場には、最近になってテニスコートが作られたという。かつては貴族の遊びとして屋敷の敷地内でしか見えなかったものが、今では市民階級で広く流行っているらしい。
高くそびえ立つ防球の網の中にはコートが三面。中は活気に溢れ、その外側にも観覧に足を止める人が多く見受けられた。
「運良く予約が取れたんです。そう長い時間は居られないので、早く行きましょう」
「私テニスなんてやったことないわよ」
「最初は皆初心者です。それに、上手くやる必要はありません。楽しむのが一番ですから」
一面ではぎこちない動きの青年たち四人が失敗を笑い合いながら遊んでおり、もう一面では経験者らしき男女のペアが目まぐるしい速度でボールを打ち合っていた。
コートに入り、幸せ屋は二人分のラケットと球を用意した。ミリアも動きやすい軽装に着替えていた。日差しのある天気だったが、二人ともさすがの冬の寒さには耐えかねて防風のジャケットを着込んだ。
「では、行きますよ!」
お互いサービスラインに立ち、球を相手に繋ごうと必死にラケットを振った。返せた回数のほうが少なかったが、打ちこぼすか空振るたびに、ミリアも幸せ屋も走ってボールを拾いに行った。
やがて頬は紅潮して、息が上がり始める。
球を打つ。幸せ屋に届かせる。
ミリアの頭の中は手元と視線の先でいっぱいだった。
返しやすい右手側に斜めを狙う。着地点は浅すぎても深すぎてもいけない。
ラインを下げていき、ついにはベースラインから球を届かせるようになった。
決して返せない球ではなかった。むしろ幸せ屋は彼方此方にミリアを走り回らせる一方だったが、幸せ屋はほとんどその場から動いていなかった。
しかし明らかに増していく球威に、目測がずれてラケットの縁に当たった球は高く浮いた。
ネットを越え、サービスライン手前に落ちようかといったところ。
その瞬間、ミリアの表情から笑みが消えた。
幸せ屋は、ミリアをとある記憶と重ねた。
故郷の森で見た、獲物を捉えた虎の姿に。
一度跳ねた球の、最高到達地点をミリアは的確に捉えていた。ラケットを背負うように背中まで持っていく。そして寸分狂わず中央に当たった球は、幸せ屋の股下を猛速度で抜けていった。
ミリアの可憐な一連の動作は、美しいあまりに幸せ屋にスロースピードで見えた。しかしその間、一歩たりとも動けはしなかった。
「すごい……」
思い出したように深呼吸するミリア。
思わずといった様子でそうこぼした幸せ屋は、ネットを破る勢いで駆け寄った。
「すごいですミリアさん! まるでプロの選手みたいでした!」
「そんな、大げさよ。ただちょっと真似してみただけで……」
元々赤らんでいたミリアの頬にさらに朱が差す。ちらと視線を逸らした先で、隣のコートの経験者の女性と目が合った。偶然、ではなく最初からこちらを見ていたようだ。
合間を縫って女性が駆け寄ってくる。幸せ屋よりは年上で、ミリアよりは若干若いように見える。
「さっきのハイボレー、見事でした! 今までにやっていた経験が?」
「ありがとう。でも、今日が初めてよ」
「本当に? 信じられないです。あ、急に話しかけてごめんなさい。ローレースといいます」
「ミリアよ。あなたたちこそ、とても上手なのね。こんな感じかなってあなたの真似をしてみたら、たまたま上手くいったの」
偶然よ、と身を引くミリアに、ローレースは頭を振って握手を求めた。
「見様見真似でできてしまうなら、それはもう才能ですよ。あ、お姉さん、意外と力ありますね」
「そう? お店で土の袋とか水の桶とか運んでるからかしら」
「でもラケットの握り方は……こう手のひらと平行にした方がもっとよく力が入りますよ。逆に両手打ちとか角度をつけたボレーのときはさっきみたいに立てるといいんです」
ローレースはミリアの手とラケットを取り、慣れた様子で指を組み替えて持たせる。
「本当ね。さっきより握りやすくなったわ」
「打つときもずっと力を入れるんじゃなくて、当たる瞬間だけ握るとパァンって速く飛ぶようになります……って、勝手に何言ってるんだって話ですよね。大学の後輩によく教えてて、その癖でつい」
照れ笑いするローレースに、今度はミリアが頭を振った。
「全然構わないわ。誰かに何かを教わる機会なんて無くなっちゃったから、むしろ少し嬉しいくらい」
「そう言ってもらえると助かります。そうだ、よかったら一緒にやりませんか?」
ミリアと、それに幸せ屋を見て言う。
幸せ屋はもちろんと頷く。交友が増えるのは願ってもいない幸運だった。それに、今の彼女にとてもついていける気がしなかった。
幸せ屋がいいならとミリアも受け入れ、ローレースは相手の男性に手振りを送った。
「なにをするの?」
「じゃあ、サーブなしの簡単なラリー形式にしましょう。シングルコートに収めるように打ち合う。アウトかツーバウンドで得点です。五点先取でどうですか?」
「内側の線の中に入れればいいのね。わかったわ」
各々位置につき、幸せ屋はミリアの後ろにあるベンチに座った。
「それじゃあ行きますよー!」
ローレースの高めのロブから始まり、ミリアは難なく返す。経験者として手を抜いている強さなのはわかったが、それでも一時間程度しかやっていないミリアの上達具合は異常だった。先の助言も相まって今も如実にうまくなっていっている。それに合わせて、ローレースも球速を上げていった。
やがてローレースは左右に揺さぶったり、前に浅く落としたり、深く上げたりし始める。それをミリアも自然と真似し、気付けば深い読み合いになっていた。
ローレースが連続で二得点。お情けでミリアは一点貰い、次にローレースが取った。ミリアも負けじと食らいつき二得点で、三点の同点。
しかし常日頃から動いているローレースと、そうではないミリアとの体力の余裕の差がここで見え始める。
気付けば網の外には観客が増え、その人集りがまた人を呼ぶ事態になっていた。
「お姉さん、本当に初心者ですか……? あたしが手を抜いているように見せて、実はお姉さんが手を抜いてるとかじゃないですよね?」
「そう思ってくれるのは、光栄だけど……はぁっ、ただ大人げなく意地を張ってるだけよ」
額から伝う汗が顎から垂れ落ちる。とうとうミリアは上着のジャケットを脱ぎ捨てた。
まだ上手くなろうとするミリアに、ローレースは不敵に笑う。
「それじゃあ行くわよ」
「はい!」
二人のラリーは、最初にローレースと男性が打ち合っていたときのそれと同じか、それ以上のものになっていた。
素人目でも高度な駆け引きが繰り返されているのが伝わってくる。けれど理解しようにはあまりにも速すぎる。
深い球でミリアが下がらされる。ローレースが浅く落とす素振りを見せ、ミリアが僅かに前に出るが、それはフェイク。左に鋭く交差する球を、ミリアはなんとかラケットの先に当てて返した。
ベースラインの端に立つミリアは、そこから動かなかった。じっと、高い位置で球を捉えようとするローレースをただ一点見つめていた。
ぞくりと、身震いするような得体のしれない恐怖がローレースを襲った。
逆サイドを思い切り狙うか、落とせば取れる。そのはずなのに、どれも読まれている気がしてならなかった。
最高到達地点から球が落ち始める。駄目だ、打つ場所に自信が持てない。
「あっ……くっ!」
振り遅れたラケットは空を切り、球はローレースの頭上を越えた。負けじと身体を捻り無理な姿勢で打った球は、しかし枠内を大きく越えて飛び、
「ぶべぇっ!」
その奥に座っていた幸せ屋を直撃した。
ローレースは震える手を見て呆然としている。
ミリアは、その眼光こそ鋭かったものの、既に限界を越えた脚を震わせていた。
「あたし、負けるのは嫌なので」
ラケットを杖にして立つのがやっとのミリアに、ローレースは構える。
「本気でやらせてもらいます」
「お嬢ちゃん、大丈夫か?」
場外。
幸せ屋にそう声をかけたのは、ローレースの連れの男性だった。
「悪いねほんと。あいつ、試合になると完全に周りが見えなくなるんだ」
誰にも気遣われないことへの哀れみと、同伴者に代わっての謝罪を持って、後ろに倒れ込んで姿が見えなくなった幸せ屋の横に座る。
「いえ、ほんとに、願ってもいない偶然でした……がくっ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます