よろしくあそび、たんとお食べ【プロトタイプ】
北野かほり
第1話 出会ったのは猫の嫁
その家を見たとき、第一印象はこれはまるで自分のようだと、犬山政は思った。
荷物はボストンバック一つだけ。片手に持つにも軽すぎるそれに手持無沙汰を覚えながらやってきた、亡き祖父の住んでいた家は、今時珍しい日本家だ。
弁護士から渡された茶封筒から鍵を取り出して、差し込んでまわすと引き戸は容易くからからと開いた。
とたんに長く人の住んでいなかったカビと埃の匂いがした。ねっとりとした空気が肌を撫でる。
「……ただいま」
ぽつりと、いつもの生真面目さで口にしていたが、それは当然返事はない。それがまた政を苦しめた。
大股で家のなかにあがる。
すぐに畳を敷いたテーブルだけが置かれた居間に出た。
しかし、とてとてと、と何かが動く音が、聞こえた。気がした。
「?」
視線を向けるがまったく見えない。
「とうとう、ストレスで精神もきたしたか?」
思わず愚痴が漏れた。
妻が会社の上司と不倫して、すったもんだの挙げ句に離婚が成立したのが約一か月前。
妻には金は渡さなかったし、上司は左遷されたが、二人は手に手をとって出ていった。その背を見て精も根も尽き果てた政にたまりにたまった有給を消化してはどうかと心配した周りに言われ、休みをとったタイミングで申し合わせたように遺産についての手紙がきた。
これもなにかの縁かと思い、鞄を一つだけ手にとって向かったのだ。
四国の島国のなかでも、山と海が隣接している松山。山とも、海との近いとはいえないそこで非常に微妙な距離のそこに祖父は暮らしていた。
住み慣れた東京から飛行機に乗り、あらかじめ頼んでいたレンタカーを三十分ほど走らせると建物がばまばらになり、田んぼがてんてんと見える。田舎というほどに田舎ではなく、けれど都会というにはなにもない場所が多い場所、それが松山だ。
民家がまばらになった山道を進んだ、田んぼのなかにどーんとある家が祖父のものだ。
祖父母の葬式があったのがつい先日。
葬式には出たが、まさか、この家を自分に譲るという遺言があったとは驚きだ。
祖父母とは小学一年生の夏休み以外は、ほぼ会っていなかった。東京と松山の距離もそうだが、祖父たちはこの土地を離れたがらなかったし、都会暮らしの政にとっては魅力がある場所に思えなかったのだ。
ただ遺書と一緒に達筆な文字で「お前がいいとさ」と書かれていて意味がわからなかった。
雨戸をあけて、空気をいれていると、やはりとてとてと何かの動く気配がした。もしかして、ネズミかと思ったがそれにしては音が大きい。まさか、空き家と知って住み着いた不届きものがいたのかと身構えた。
これでも、こちらは柔道の黒帯だ。生半可ものに負ける気はない。
居間には何もないのにズボンのベルトを抜いて息を整えた。
とてとてとて。
軽やかな音が、止まる。
そして
戸がすすっと開いた。
政は片腕を大きくあげようとしたとき
「おかえりないませ、旦那様!」
出てきた黒いそれに政はぎくりとした。
真っ黒い毛、それに鮮やかな赤い着物とそれを覆う真っ白いかっぽう着――耳と尻尾――目の前に現れたのは二足歩行の着物にかっぽう着姿の黒猫だ。
「……」
理解が追い付かない政は動きを停止した。
「おまちしておりました。きょうはなににいたしましょうか」
「……」
「あ、おふろですか? それとも、ごはんですか。やだ、わたしなんて。まだ婚礼をあけてもないのに、あ、けど、だんなさまがいうのでしたらわたしはいつだって」
尻尾をふって、体をくねくねさせて、照れている。黒猫が
「……あなたは」
政は腕をゆるゆると降ろして聞き返していた。
「ふにゃあ?」
「あなたは、一体」
「わたしは、あなたのお嫁さんですよ!」
二足歩行の黒猫が嬉しそうに教えてくれた。
自分はとうとう正気をなくしたらしいと政は自覚した。
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