第5話 ロートル棋士、記録係の実習をする。

「このたびは弊社の求人に応募していただきありがとうございます。選考の結果、残念ながら不採用とさせていただきます。」


(またか。。。)


 謙作はハローワークの求人に応募を続けている。正社員でなくてもフルタイムで働きたいと思っていた。ところがこれで20社目の不採用通知であった。


(飲食店の求人がないんだよなあ。)


 謙作は調理ならそれなりに自信がある。ところがコロナウイルス流行による営業自粛で飲食店が次々潰れている。他は警備や運送だが謙作ができそうなところは既に採用を終えている。条件のいい求人はすぐに埋まってしまうのだ。当然ではあるが。


いまさら謙作が請け負いでの軽貨物運送や接客業ができるとも思えない。全くの未経験であるし車も長く乗っていないペーパードライバーであるからだ。


 謙作はなんとなく将棋協会会館のほうに向かう。何か用事があるわけでもないが協会所属の棋士であるから控室に出入りすることはできる。相手にされることは稀であるが。


(普及課にでも行って、大会の審判とかなにかないか聞いてみるか。)


「永井先生。」

会館に向かう大通りで謙作に声をかけてきたのは女流棋士一級の田口 春子であった。


「春ちゃんか。もうバイトは終わったのか。」


「ハイ。これから会館の控室で検討に加わります。」


 田口 春子は昨年高校を卒業して地方から大阪にやってきた。会館の近くに住んでいるのは夕方から夜にかけての棋士たちの対局の控室でプロ同士の検討をみてその読み筋を学ぶためだ。春子は朝方から昼過ぎまで会館近くの弁当店でアルバイトをしている。対局数自体が少ない女流棋士はアルバイトをして生計を補っていることも多い。みなが安西 真理愛のように聞き手やマスコミにひっぱりだこであるわけではないのだ。春子は容姿はそれほどでもないが明るい性格でそれなりに聞き手や指導対局の仕事はある。だがまだまだOLの年収にも及ばない。


「先生、お時間があったら将棋を教えていただきたいんですが。」


「うん?俺でいいのか?」


「はい。ぜひお願いします。」


春子は手の空いてそうな男性棋士を捕まえてこうやって稽古を頼むことが多かった。自分より強い男性棋士と指すことで力を付けるためである。女流棋士も競争が激しい。次々に若手はデビューしてくるし、奨励会の有段者が退会して女流棋士に転身する場合もある。現在の女流名人の高本 里美は元奨励会三段まで上がったが、年齢制限で退会し現在は女流棋士に専念している。他にも奨励会二段や初段、級位者出身もいるし、アマ大会で勝ち上がったり学生強豪が女流プロ資格を得てプロになることもある。


謙作と春子は棋士室の片隅で盤を挟んだ。10面ぐらいの盤駒が用意されており、棋士の研究会やVSによく使われている。


周りの棋士たちが珍しそうに謙作と春子を見ている。意外な取り合わせだからだ。春子は期待の若手女流棋士であるし一方はロートルで年度末での引退を待つだけの棋士であるからだ。


(どっちが指導対局なんだかw)


若手棋士や生意気盛りの奨励会員は口にこそださないがそう思っていた。


20分30秒の時間で謙作と春子は練習対局を2局指した。結果はどちらも謙作の勝ち。


「永井先生、ありがとうございました。やっぱ男性棋士だと無理な手が通らないですね。」

「うん。面白い筋だったけどね。だがあまり臆するのもよくないから行けると思ったら行ってみるのもいいんじゃないかな。」



二人は局後の検討を終え、控室に顔をだし、公式戦の検討を見る。主だった対局が終わり、あとは深夜になるだろう。二人は会館をでて帰ることにした。


「先生、せっかくなんでごはん行きませんか。」


二人はファミリーレストランに入る。そこであれこれ雑談をしていたのだが謙作は思い切って春子に切り出した。


「春ちゃん。記録係の仕事をやってみたいんだが教えてもらえないか。」

「え、先生がですか。」


「ああ、昔はやっていたが今はタブレットとかでやり方が変わってるからな。」


記録係は公式戦の棋譜を採り、時間管理をしたり湯茶の用意をする仕事である。日給は丸一日の拘束で一万円。収入より修行としての側面が強いが最近の奨励会員は学業を優先したり、記録係を毛嫌いしたりで記録係不足が慢性化している。春子も女流棋士だが同じ女流や男性プロの記録係をすることもあるのだ。これがタイトル戦だと若手四段や奨励会三段クラスが担当することが多い。


「明日、記録係の仕事が入ってますのでご一緒していただければ大丈夫だと思います。」


「そうか。済まない。」


どうも春子は純粋に謙作に感心しているようだ。年齢を重ねても将棋への情熱がそうさせているのだと。実際は仕事が見つからないので自分のできる将棋の仕事となると記録係をやるぐらいしかないのだが。


「それじゃあ先生、対局開始の一時間前の8時には会館に来ておいてくださいね。」


春子と謙作は店をでて別れた。春子は歩いて帰れるところにマンションを借りている。


 翌朝、春子と待ち合わせた謙作は会館の4階の対局室で対局の準備をしている。盤駒を担いで運び、机、座布団、湯茶、脇息、記録用タブレット、手書きの棋譜用紙、水性ペン、ゴミ箱を設置する。駒箱を開いて駒の数を確認する。


「このあたりは昔と同じだな。」

「ハイ。タブレット以外は変わりないと思います。」

「春ちゃんは2対局を同時に記録をやる場合もあるんだよな。」

「ハイ。タブレット導入でできるようになりました。記録係も不足してますし。でも永井先生ならそこまでしなくてもいいと思いますよ。」



対局者の二人が入ってくる。どちらも若手だ。


「え、永井先生?」

「ああ、すまない。記録係の仕事を覚えるための実習だ。邪魔だと思うが許してくれ。」

「いえ、大丈夫です。お疲れ様です。」


若手棋士たちも記録係不足問題は知っている。昔のような徒弟制度をや内弟子制度を引きづったやり方は非難されるのが現代である。労働基準法での最低賃金や学生に対して深夜労働を強制しているとの指摘も多い。


 対局の昼食休憩では出前を対局者に届ける。将棋ソフトのカンニング防止のため、対局中は対局会場から出てはいけないことになっているのだ。スマホも事務室預かりである。食事はすべて出前を取るか弁当をもってくる棋士もいる。



 対局は進み、夕食休憩後、しばらくして対局は終わった。検討を終え、後片付けをする。終電の心配はないがもし遅くなったら会館に泊まることもできる。棋士たちは呑みに行くことが多かったが、最近のコロナショックでの自粛でそうした機会は激減した。


「春ちゃん、今日はありがとうな。」

「いえ、こちらこそ。また将棋を教えてくださいね。」


 謙作は電車で自宅に戻った。咲良は仕事に出かけたようだ。冷蔵庫におかずを用意してあるのでそれを食べるように言ってある。謙作は冷蔵庫を確認し、明日の買い物の予定を立てた。


(結局、俺は将棋しかできないんだよなあ。)


 もう引退が決まって思うのは自分には将棋しか残っていないという事。これくらいならもっと努力すれば、とも思ったが努力だけで勝てるほど甘い世界でもない。他にも年齢が嵩むにつれてプロのレベルの向上についていけなくなり引退した棋士はごまんといる。中堅であっても気を抜いたらおいていかれるのがプロの世界だ。


 謙作としては咲良の収入に頼りきりの生活から抜け出したかった。咲良も決して若くないしいつかは今の仕事も辞めざるを得ない。風俗業界に残るとすれば年齢が嵩むほどに単価の安い、その分客層も悪い店に移らざるを得ない。そうやってアルコールやクスリに走ってしまうこともあるのだ。


(少しでも収入を得れば咲良が無理をしなくてもいいようになる。)


謙作は今になって引退が決まった身の上を後悔しだした。もっと頑張れたのではないのか。あのとき間違ったから、負けこんで酒に逃げたから。勉強をさぼったから。


(ほんと今さらだよな。。)




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