第3話 3.元奨の道場主

最後の対局を終えた翌日、謙作は昼前に起きた。昨日は明け方まで焼酎を呑んでいたのだ。何か予定があるわけでもないが、シャワーを浴び、トーストとコーヒーで簡単に朝食を済ませると部屋の掃除をした。何かしないと居てもたってもいられなかったのだ。


(もう公式戦はないんだよなあ。)


 ぼんやりとした頭で昨日指した将棋の棋譜が頭に浮かぶ。プロ棋士なら誰でも頭の中で盤面を思い浮かべて一局を振り返るぐらいは簡単にできる。途中まで有利だと思っていた直後に指した手がまずく、数手後に相手の玉の退路を塞いでいた銀を取られてしまった。そもそも負けの変化に自分から飛び込んでしまったようだ。もちろん、今さら勝敗が変わるわけではない。


謙作は紺のスーツに着替えると部屋をでて自宅の最寄り駅から2つ先の将棋道場に向かう。彼が唯一指導対局が道場である。55歳の現役を引退した棋士に世間の需要はない。指導対局を数局やったところですぐにアマチュアの棋力が伸びるわけではない。


 将棋の上達には継続した取り組み、詰将棋を解く、棋譜を並べる、感想戦をじっくりとやる、定跡書を読む、最近ではAIを組み込んだパソコンソフトで指した棋譜の検討をするなどが必要なのだ。基本的にアマチュアが指導対局を受けるのはファン心理からであり、その棋士を応援したいあるいは馴染みの将棋道場で常連としての付き合いによるものなのだ。


 なのでたとえ棋力が下の女流棋士であっても若くて容姿のいい方が、あるいは棋士でも昨日対戦した池内のようなこれからの若手棋士を応援したいというのが将棋ファンの本音である。


 この日に指導対局の予定はなかったが謙作は世話になっている道場主に挨拶にきたのであった。平日の金曜日。午後一時の開店前である。一回が居酒屋の商業ビルの三階に谷本将棋道場はあった。


「こんにちわ。」

謙作は3階に上がり、入り口から中に入る。まだお客は来ていない。


「謙ちゃんか。」


気安い感じで返事をしたのは50代半ばの男性。このビルのオーナーである谷本勝彦だ。4階建てのビルで一階は居酒屋、二階は通販の事業所。そして4階は谷本自身の住居であった。一階と二階は人に貸している。この他に駐車場も持っている谷本は賃料だけの収入で生活できる。もともと親の資産を受け継いだものだ。将棋道場は少々赤字だが、これはもう趣味の一環でもある。


「お願いします。」


 挨拶を交わし、謙作と谷本は駒を並べて対戦する。特に約束していたわけではないが谷本は謙作がふらっと来ても対応し、こうして対局するのが常だった。二人は奨励会の同期だったのだ。共に幼い頃から巷の将棋大会で顔を合わせて知り合いとなり、中学生でプロ養成機関である奨励会に入会した。そこでプロになるための最後の難関である三段リーグでしのぎを削った。


 謙作と谷本はどちらも三段リーグで苦戦をした。同時期にのちの大川名人を始めとする天才少年集団が大挙して奨励会に入ってきたため、先輩も後輩も次々に負かされてしまったのだ。そのため、年齢制限ぎりぎりとなり、最終局で二人は対戦した。勝った方がプロ棋士となり、負けると奨励会を退会しないといけない勝負だった。謙作はそれに勝ちプロとなった。


 奨励会を辞めることになった谷本だが、その後、アマチュア棋界に復帰しアマチュア名人戦で優勝。アマチュア枠でプロ公式戦にも参加し、5割近い勝率を残す。謙作とも対戦したことがあり公式戦では通算3勝1敗で谷本が勝ちこしている。


「ピー、ピピ」対局時計であるチェスクロックの音が開店前の将棋道場に響く、お互い10分の持ち時間で使い切ったら秒読み30秒である。対局が終わった。謙作の勝ちだった。


「ありがとうございました。」終局の挨拶をして終局後の検討をする。


「ああ、やっぱり無理だったか。謙ちゃんには軽い攻めは通らないよね。」

「いや、ギリギリだったと思う。将棋ソフトで覚えた手順なのか。」

「試してみたのだけどソフトは間違えないから手が続くけど人間じゃ無理だね。」


 今や将棋ソフトの強さはプロ棋士の実力をはるかに超えている。それは現役最強の大川名人をも凌ぐものだ。


二人はこれで何千局かの対戦を終えた。

謙作は久しぶりにいい将棋が指せた気がした。


謙作と谷本はプロ棋士と巷の道場主の関係であり、謙作は「先生」と呼ばれる立場だが子供のときからの友人である謙作と谷本は気安く呼び合っていた。谷本は親の遺産である貸しビルに将棋道場をオープンした。そして謙作もこの将棋道場で指導対局をするようになった。一局1000円。相場よりはかなり安いが将棋道場経営という儲からない商売をしている谷本への支援の意味もあった。



 将棋棋士が将棋協会を通して対局や大会の審判などをする場合は相応の報酬を用意する必要がある。この谷本将棋道場は直接謙作が受けている仕事だ。個人事業主である将棋棋士は対局以外の活動は基本的に自由であり、著書を出版したり自分で道場経営をしたり、あるいはネットで配信をしたりする場合もある。これも需要と供給であり、若くて有望な棋士のほうがはるかにファンにウケるわけだ。とくに人気女流棋士の配信は大人気でありフォロワーも数十万に達している。うだつの上がらない謙作が同じことをやってもほとんど反応はないだろう。


 いわゆる棋士と女流棋士は違う。棋士は奨励会に入会して三段まで上がり、そこから三段リーグを勝ち上がって半年に2人づつがプロになれる。女流棋士はそのさらに下の研修会でB2クラスに上がると女流棋士2級となり女流のプロ棋士となる。大体、奨励会の5級が研修会のB2ぐらいだ。したがって棋士と女流棋士では歴然とした差があり、まだ「女性の」棋士は誕生していない。棋士と女流棋士が対戦するのは女流棋士のタイトルホルダーなどの上位が一般プロ棋戦の女流枠に入って対戦できるだけである。勝率は女流棋士からみて2割がやっとだ。


謙作は昨日天野 由紀子からもらった花を谷本に渡す。


「これ、どこかに活けてくれ。」


一度捨てた花だということは内緒にした。流石に気分を悪くするだろう。


「謙ちゃん、今日は何か予定はあるのか?」


「いや、特にないけど。」


「それなら済まないけど道場の受付やら指導やら手伝ってくれないかな。」


 谷本はもう公式戦を指せなくなった謙作をこのままほっておけないと考えていた。あまりコミュ二ケーションが得意でない謙作が他の仕事をできるとも思えない。協会を通した仕事も決して多くないだろう。


谷本は謙作が決して弱くはないと思っていた。だけどいつしか無気力な対局が続いているようになったのをもどかしくも思っていたのだ。


「ああ、俺でいいなら」


 将棋道場がオープンした。昼間は年金をもらっている暇な老人ばかりだ。それでも平日にしてはにぎわっている方だ。将棋を指すだけならネットのサイトでも無料でできる。


 謙作は手合い係をやっている。大体、お客の実力は把握してる。この将棋道場は級位者から六段まで認定を受けられる。他と違って〇段半、というように有段者を細かく区分しているのが特徴だ。有段者の棋力認定は道場によりばらつきがあり、辛いところも甘いところもある。そしてできるだけ有段者に認定しておかないと常連というのは定着しないものだ。人に言う場合に5級です、と初段です、というのは聞こえが違う。


 この道場の初段は他の将棋道場の3級ぐらいである。そこから高段者まで半段単位で区分しており、一番上の六段はこの道場の席主である谷本だけだ。一般将棋道場なら七段相当である。アマチュアトップと言える棋力だ。こうした認定の工夫は幅広い層の将棋ファンに来てもらいたいとする谷本の考えによるものだ。それでも他の道場で四段、五段の認定を受けたという人はその段位を下げたがらない。だがこの将棋道場は高段者には厳しい手合い割になっているのだ。



 手合い割とはたとえば初段と1級なら後者が先手で平手。初段と2級なら前者が香を落としての駒落ちで対局するというやり方で棋力差があっても対局ができるようにしたもので多くの将棋道場が取り入れている。この谷本道場ではさらに棋力を細かく区分し、初段のハードルを下げているのだ。したがって谷本道場では五段と初段の対戦は本来なら四枚落ちになるところであるが二枚落ち、四枚落ちを2つにして調整をしている。つまり9段差でも二枚落ちである。他の道場なら五段と初段なら4段級差で飛車落ちとなるところである。


 この谷本道場では対局時計の使用を義務付けている。手合いは20分30秒。こうしないと人によっては延々と考え込んだりあるいはチョイ指しをやったりしてあまりいいことはないからだ。時計を使わない場合は手合いとは認めないことにしている。同じ人と何度もやる場合もあり、そういう人はそういう楽しみ方であるというわけだ。初段のハードルを下げているだけで道場のレベル自体はまずまずなのも谷本の

こうした方針によるものであり、全国的なアマ強豪である谷本にレッスン依頼もあるのだ。


 谷本は予約をしていた奨励会に入会希望の小学生と対局している。90分で2500円のレッスン料を取っている。巷では将棋ブームが起きていて子供に将棋を習わせたい、プロにしたいという親は多いのだ。そして奨励会に入るには一般道場ならアマ五段、谷本道場基準でも四段は必要である。そしてそのレベルならプロ相手には角落ちで指すのが適正な手合い割だ。プロとアマとはそれほど違いがあり、谷本のようなトップアマと一般将棋ファンとは大きな棋力差がある。谷本としてはプロとアマとの断層というか垣根を取っ払って同じ尺度で棋力を計りたいと考えていた。



谷本は最近、レッスンが忙しくなっており平日の昼間に誰かいてくれるのはありがたかった。土日は奨励会員や学生強豪のアルバイトも使っているが平日の昼間はそうはいかない。将棋を知らない人間では手合い係を務めるのはかなり難しいのだ。


 合間をみて、謙作は指導対局もする。一局1000円なら道場のお客でもやってみようという人はいるのだ。相手は老人ばかりで手合いも二枚落ち、六枚落ちばかりだ。二枚落ちは飛車と角を上手が落とす。そして六枚落ちなら飛車、角、桂馬、香車を落としての対局だ。


 謙作は適当に手加減しながら相手の狙い筋を通すようにしていた。まずまずの指し手をやってきたら勝ちを譲るのが指導対局というものだ。ムキにアマチュアに勝ってもいいことはない。あくまでアマの上達のための対局だから。もっともちょっとやったぐらいで効果はしれている。なので謙作はムキになることもないのだ。


「参りました。よく勉強してますね。」


二枚落ちの定跡どおりに指してきた下手に謙作は誉め言葉を言った。定跡を外そうと思えばできたがそうやって勝っても意味がない。途中も辛く指すこともできたがそれはおまけしておいた。


こうしてこの日は夕方まで谷本道場で手合い係と指導対局をすることになった。


「いやあ、済まない。すっかり手伝ってもらっちゃって。」


「もう暇だし、いつでもいいよ。」谷本は指導対局料10局分の一万円を受け取った。プロ棋士への報酬としては格安だ。だけど自分の将棋に価値を見出せない謙作にとっては金額はどうでもよかったし手合い係で時給をもらっても仕方ないとも思っていた。どうせお小遣いは咲良からもらっているのだ。


「そういってくれると助かる。」谷本は深々と頭を下げた。赤字経営の道場としては平日まで人を雇う余裕はないのだ。


謙作は谷本道場をでて電車に乗って帰宅した。あり合わせのもので夕食をつくった。そういえば昼飯を食べるのを忘れていた。休憩はあったのだけど。久しぶりに丸一日将棋漬けの一日であった。


咲良は今日は夜勤明けで自宅にもどっているのでこちらには来ないだろう。


謙作はTVを付けた。ニュース番組が流れていた。


「本日、日本将棋協会は新たな棋戦、竜星戦の創設を発表しました。全棋士参加で優勝すれば竜星位を名乗り五千万円を獲得できます。名人位を抜いて序列一位の将棋界最高峰の棋戦となります。」



画面では将棋協会の会長のコメントが流れている。


(皮肉なものだ。もう引退が決まった次の日に新しい棋戦がでてくるとはな。)


おそらくアマチュア参加枠や女流棋士参加枠があるだろう。現在、アマ名人の谷本には参加資格が与えられるのは確実だ。他の棋戦でも4枠ぐらいはある。全棋士参加の大型棋戦ならその倍もあるかもしれない。女流棋士も同数の参加となるだろう。アマ強豪や女流のタイトルホルダーが棋士に挑むのはアマチュアに需要があるのがこうした参加枠の背景にある。



その一方、謙作のようなロートル同士の将棋が注目されることはない。いくら棋力が女流棋士より上でも、アマに6~7割勝とうとそれは変わらないのだ。そしてもう謙作には関係のない話である。


謙作は焼酎の水割りを呑み、布団を被って寝てしまった。


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