崖っぷちのロートル将棋棋士は引退をかけて六冠王に挑む。
餡肝
第1話 1.ロートル棋士、引退が決まる。
ここは日本将棋協会の関西会館の大部屋の対局室。
名将戦の一次予選が行われていた。
「負けました。」中年の棋士が駒台に手を置いて投了を告げた。
この棋士は永井 謙作七段、現在55歳である。クラスはフリークラス。全棋士が参加する順位戦の一番下のクラスからも降級し、強制的にフリークラスに落ちてしまった。順位戦は名人を頂点に挑戦者を争うA級リーグ以下、B1組、B2組、C2組、C1組とある。B1以下の昇級と降級があり、B2組、C2組とC1組は降級点制度がある。成績が下位のもの5名に降級点が付き、それが3つになると下のクラスに下がってしまう。つまり、一番下のC1組で降級点を3つとると順位戦から弾かれてしまうのだ。
「いやあ。あまり自信がなかったんですが、詰めろが解けたのでなんとかなりました。」
勝ったのは新四段の池内 良太。まだ16歳の高校生棋士だ。学生服を着て対局に挑んでいる。遠慮がちにしているが口ぶりからは既に勝ちを読み切っていたかのような口ぶりだ。将棋界では先輩に対する礼儀というのもうるさく言われる。なのでスポーツ界とは違って勝ち誇るということはしない。勝っても少しほほ笑んで相手を立てるのが礼儀とされている。
順位戦を弾かれた棋士、あるいは自分から宣言してフリークラスになった棋士はフリークラスに10年間在籍することができる。その間、順位戦以外の棋戦には参加は可能ではあるが、強制的にフリークラスに落ちた棋士はいいとこどりの20局で6割の勝率を上げないと復帰ができない。
永井は既に順位戦から落ちて10年目の年である。フリークラスでの勝率は3割~4割というところであり、他の棋戦はすべて敗退してしまった。この名将戦の一次予選に負けると参加できる棋戦がなくなってしまう。今期、彼は全敗してしまったのだ。もう参加できる棋戦はなく、ここで引退が決定してしまった。正式には今期の3/31までが将棋協会の現役棋士である、来期の4/1からは引退となる。
「ああ、銀を抜かれる手をうっかりしていたよ。」
永井は5分ほどで感想戦を終えるとさっさと席を立ち対局室を後にした。一方、池内は何事もなかったように駒を片付ける。池内はこの日の午後にも名将戦の対局があり、既に意識はそちらに向いている。池内にすれば永井に引導を渡した形になるが、それについて特別思うことはない。新四段が引退間際のロートル棋士に負けるというのは普通ないことである。
廊下で取材の記者と話しながら長身の女流棋士が歩いてきた。安西 真理愛女流三段である。安西は謙作を見かけると一礼して、謙作の側を通りすぎた。女流棋士であると同時にタレントやモデルとしても活躍している安西にとって謙作は先輩棋士である以外の存在ではない。ましてやフリークラスで全敗している謙作には一応の礼儀だけを払っておけばいい。
永井は対局室をでると喫煙ルームに向かった。早指し棋戦とはいえ、永井は持ち時間15分のうち、3分ほどしか使っていない。これで最後の対局も終わったわけだが、特に感慨もなかった。いずれこうなることはわかっていたからだ。
「永井先生。」
喫煙室に向かう廊下でオフホワイトのパンツスーツに身を包んだ細身の女性が永井に声を掛けた。エッセイストで将棋雑誌記者でもある天野 由紀子だった。元々は大手新聞社の文化部員である。まだ20代後半で容姿にも恵まれた彼女は多くの男性棋士やファンにも人気があった。まだまだ将棋界では女性というだけでかなり目立つのである。現在はフリーライターとして将棋以外にもエッセイやコラムの連載を持っており、TVなどのメディアでも活動している。
「今日で最後の対局となってしまいましたね。」
由紀子は今日の対局を負けると永井が引退ということを知っている。そのため、コメントを取ろうと待ち構えていたのだ。
「ああ、若いのには勝てないよ。この辺が潮時ってことだ。」
「引退ということになりましたが、棋士生活で一番印象に残ることは何でしょうか?」
「そうだな。勝てばA級に上がれる対局で二歩をやってしまったことかな。」
謙作は自嘲気味に答えた。
天野 由紀子は謙作が引退ということで彼の棋士歴を調べたが一番人々に記憶に残るのがその反則負けだ。二歩は同じ筋に歩を2つ並べてしまう反則手であり、指した途端負けになってしまう。
謙作は26歳の年齢制限ぎりぎりでプロ棋士養成機関である奨励会を勝ち上がり、プロ四段となった。その後は順調に順位戦のクラスを上げ、30歳でB1組にも昇級した。このクラスで勝ち上がれば名人への挑戦権を争うA級順位戦に参加できる。頂点の名人に挑むのは9人のトップ棋士たち。将棋界の超エリート集団でもある。
謙作は30歳のときに参加したB1順位戦で10勝2敗。三番手に付けていた。二番手は同じ10勝2敗だが、相手の方が順位が上である。その前日。その相手が最終戦に負けて10勝3敗となった。これで単独2位。最終戦に勝てば謙作のA級昇級が確定していた。
謙作はこの期、絶好調で勝率も7割近かった。そして順位戦の最終局も作戦勝ちからじっくり厚みで押す戦い方で完璧な内容であった。
「永井先生、いつものごとく手厚い将棋だなあ。」
「後手、もう投了しかないでしょ。」
「ですよね。あと数手で投げるんじゃないですか。」
控室では棋士や観戦記者、まだ奨励会に所属している若者たちが継ぎ盤を挟んで検討している。永井の勝勢は明らかで、観戦記者も終局を待ち構えていたのだ。
「50秒、・・・55秒、6、7,8・」
永井は必勝形であったが持ち時間を使い切り、一分の秒読みになっていた。とはいえ、この将棋の流れからみて、あと数手で永井の勝ちは確定するだろう。
ここで事件が起きた。
永井は駒台から歩を摘まんで、相手の玉に王手をした。
「あー。まさか。やっちゃったか。」控室で盤面のモニターをみていた棋士たちが騒然となる。そう、永井は二歩を指してしまったのだ。既に歩はこの筋に使っていたのだ。もちろん、即反則負けである。
これにより、永井は10勝3敗となり三番手となった。そして最終で二番手であった大川 豊七段がA級に昇級することになる。大川七段は15歳で奨励会を勝ち上がった中学生棋士である。既に奨励会在籍時から将来の名人候補との名前が挙がっていた。大川は順位戦のクラスをノンストップで勝ち上がり、B1クラスに参加していた。そして来季からは大川はA級八段として名人への挑戦を争うことになる。順位一枚の差が明暗を分けた。前期のB2組の順位戦でも一位通過が大川、二位通過が永井であったのだ。その順位が今期のB1組の順位にも反映された。
その後、大川は次のA級順位戦を全勝。名人に挑戦し、四勝二敗で名人位を奪取。その後は他のタイトル戦でも活躍し、名人在位通算10期ほか100近いタイトル、棋戦優勝を成し遂げた。そして現在の名人も大川である。大川は将棋界の顔であり、世間一般にも知られる大棋士となった。
一方の謙作は次のB1順位戦で2勝11敗でB2クラスに降級。その次のB2組でも4勝しかできないで降級点を取る。それ以来、一度も勝ち越すこともできないで徐々に降級点が溜まり、10年前にC2クラスで3つ目の降級点をとりフリークラスに落ちてしまった。
口さがない将棋ファンには「将棋の神に愛された大川 豊、見放された永井 謙作」といった対比で語られることもあったが、もはや両者の立場が違いすぎるし既に過去の出来事でもあった。由紀子としては永井の古傷を蒸し返したくはなくてなにか永井のいい話を探したかったが景気のよさそうな記事になりそうな話がなかった。というわけで永井が自嘲的に話してくれたのは実のところありがたいことであった。
「アマチュアの方々には歩をうつ前にはちゃんと二歩でないか確認しましょうって指導をしてましてな。今となっては笑い話にしかならんですが。」
「先生がおっしゃると説得力があるかもしれませんね。」
天野 由紀子は遠慮がちに水を向けたが、謙作はニコニコしている。怒ってはいないようだ。由紀子は気まずさがぬぐえなかったが謙作の態度に救われた気がした。
「今後の活動の予定はございますか?」
「そうですな。普及活動で将棋界に恩返しができればとおもっております。」
謙作の言ってるのはマスコミ向けの建前である。協会の機関誌で突拍子のない発言もできない。55歳のロートル棋士に将棋の仕事で需要があるわけはない。またこの数年の将棋の内容も無気力ともいえる指し手を続けてまだ中盤で投了してしまった対局も多い。一部のコアなファンはそうした態度を匿名のSNSなどで批判をしていた。若手の育成など期待できないし、初級向けなら若い女流棋士やアマチュアの指導員はたくさんいる。風采の上がらないロートル棋士を応援しようというファンはいない。
天野 由紀子はそうした謙作の事情も知っている。だが、これ以上傷口に塩を塗り込むこともあるまい。謙作の若い時の写真なら編集部に残っているし、勝ち棋譜なら将棋協会から提供してもらえるだろう。それでなんとか記事をまとめるしかない。
「そうですか。長い間、お疲れさまでした。」由紀子は花束を用意していた。それを謙作に渡して次の取材のために立ち去った。
謙作は煙草を吸う気もなくなり、事務方に預けていたスマホを受け取った。将棋AIの発達でカンニング防止の取り組みとしてスマホ・携帯は対局中は預けることになっている。
謙作は協会の会館をでると道路わきのゴミ箱に花束を投げ込む。そしてそのまま立ち去ろうとしたが気が変わって家に持って帰ることにした。もうすぐ現役棋士でなくなる自分にとっておそらく最後の取材であろうからだ。帰り道で由紀子がゴミ箱の花束を見つけないとも限らない。せめて家のゴミ箱に捨てようと考え直した。
(ハア)
謙作はため息をついた。今日の将棋も手を抜いていたわけではない。ただ、考える気力が起きなかったのだ。それでも自分なりの最善手は指したつもりだが読み抜けがあった。
(いつものごとく若手に負けて終わったか。)
謙作は電車に乗り、自宅方面に向かう。最寄り駅の駅前スーパーで買い物を済ませて自宅に戻った。
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