四人の再来②

 翌朝、紫音は早くから起きて朝食を済ませていた。

「やあワトソン。最高のタイミングだ。これ以上起きないなら置いていかなければならなかった」

 わたしはワトソン博士に似て――というより寄せて――遅起きなのでこういうことはよくあるが、彼女がわたしを待っているような素振りを見せたのはこれが初めてだった。

「今日はモンテ・クリスト伯爵の邸宅へ行く。あと十分もしないうちには出発しないと約束の時間に間に合わないだろう。伯爵は時間に正確なことでも知られているから、こちらもそれに合わせてやろうと思っているんだ。表に馬車も待たせてある」

 これほど活動的な彼女を見るのも久し振りな気がした。彼女は手を擦り合わせるようにして、落ち着きなく部屋中を歩き回っていた。紫音がこういう仕草をする時は大抵彼女にとって面白い事態が起こっている時であり、それはほとんどの場合わたしにとっても同じことだった。

「さ、早く支度をするんだ。詳しい説明は移動中にする。それから、拳銃を持ってきてくれ」

 わたしは言われるがままに支度して馬車へ乗り込んだ。馬車は二頭立ての四輪で、四人は乗れそうな大きさだった。

「モンテ・クリスト伯邸へ」

 紫音がそう言うと、馬車は静かに動き出した。

「ちょっと待ってなんで馬車?」

 何故わたし達は二十一世紀にもなって辻馬車に乗っているのか。

「いや、辻馬車じゃない。私の魔術具の一つだ。他にも何個か持っているがね」

 そう言って紫音はフロックコートのポケットからミニチュアにしかみえない馬車をいくつか取り出した。二輪一頭立てだったり四輪二頭立てだったりした。相変わらず彼女のポケットの容量はどうなっているのか分からない。魔術でも無限は作れないので、何処かに限度があるはずだが、わたしではまだ計り切れないようだ。

「こいつに魔力を通すと、乗れるサイズの馬車になる。御者も餌も場所も必要ない、所持するには最高の馬車さ。まさかシャーロック・ホームズともあろうものがスポーツカーで現場へ向かう訳にはいかないからね」

 神秘都市だから出来ることだが、と紫音は付け加えた。

「ホームズと言えば辻馬車じゃないの?」

 わたしは尋ねた。

「いや、いや」

 紫音はかぶりを振った。

「確かにホームズ自身が乗るのは二輪のハンサムキャブHansom cabが多い。速いからな。次いで四輪のハックニーキャリッジHackney carriageだ。こちらは現在もタクシーの正式名称として残っている。まあ愛称はキャブだが。いずれも辻馬車には違いない。しかし、流石にこんな時代に辻馬車は走ってない。だから作るしかない。これはハックニーキャリッジの方だ。その上、ハックニーキャリッジには素晴らしい機能が付いている。それは中で何を話しても外からは聞こえないという点だ。魔術を用いたとしてもね。私はこれをある種のデリケートな事件を扱う時に開発した。その頃君は本業、即ち学業で忙しくしていたがね。君とクライアントのどちらも乗せることがあるかもしれないから敢えて定員の多いハックニーキャリッジにしたんだ。ハンサムキャブでは二人しか乗れないからね」

 紫音はミニチュアたちをポケットにしまった。

「さて、モンテ・クリスト伯についての話をしよう。今から会いに行く相手は間違いなくモンテ・クリスト伯爵の再来だ。しかも恐らく私以上に再来としての力が強い」

 紫音より強いとなると、相当異常な強さを持つことになるが、本当にそんな事が有り得るだろうか。わたしにはとてもそうは思えなかった。

 シャーロック・ホームズの再来、橋姫紫音。

 彼女は紛れもなくホームズだ。何故つい先日まで再来でなかったのかと聞きたい程だ。

「いやいや、少なくとも私は十四年前から再来だった。当時は再来としての力が弱かったがね。だから馬車だのパイプだのヴァイオリンだのでそのを補強しなくちゃならなかった。しかし最も必要だったのは、ワトソン、君の存在だったんだ。君がワトソンになって以来、私の再来力の強まりはとどまるところを知らない。私に言わせれば、何故今まで君がワトソンにならなかったのかということの方が分からないな」

 それは多分総角あげまき明菜あきなという「もう一人のワトソン候補」がいたからだと思う。結局彼女は紫音にとっての「あのひと」になることで落ち着いたようだが。

 わたしがこうも簡単に分かるのに、何故紫音が分からないかと言うのも簡単な事だ。

 何故なら紫音は彼女を何とも思っていないからだ。

 紫音というホームズにしてみれば、総角明菜がワトソンという可能性は真っ先に排除される「有り得ないこと」だ。しかし総角明菜にはそれが認められなかった。彼女も彼女でワトソンたろうとした結果、わたしが正式にワトソンとなるのに時間が(十四年も!)かかったというわけだ。

 紫音ホームズは朴念仁だと思う。原作よりもなお。

「とにかく、話を戻すと、モンテ・クリスト伯爵が私のような影の努力をしているかどうかは会ってみないと分からないが、少なくとも半ば脇役と言っていいヴィルフォール夫人すら発生させる程の力を持っていることは確かだ。ホームズで例えるなら、アセルニー・ジョーンズ警部Inspector Athelney Jonesが私の影響で発生するくらいのものだ」

 それは相当だ。アセルニー・ジョーンズ警部なんて、『四つの署名The Sign of Four』にしか登場しない脇役のはずだ。もっとも、ファーストネームがピーターになっている上、外見の特徴も一致しないのに、何故か同一人物なんじゃないかという発言をする人が『赤毛連盟The Red-headed League』にも登場するが。ピーターの方の彼をアセルニーの方の彼の兄弟とする説もあるようだが、あまりにも『四つの署名』への言及が具体的なので寧ろアセルニー・ピーター・ジョーンズ警部だったという方が納得がいく人物である。

 全く必要ない登場人物という訳ではないと思うが、その後(問題の一回は除外して)出て来ない辺り、あの事件以外では必要ない人物だったのだろう。まあ決して有能な人ではなかったし、さもありなんと言ったところか。

「異常性は分かって貰えたと思う。そんな奴が今まで私の知らないところにいられたか?」

「それは無理でしょ」

「そうだ。当然私は既に彼について少しだけ知っていた。外見や住んでいるところなどをね。それらは全てヴィルフォール夫人から聞いた話と一致する。しかし、未だに分からないことが、それも重要な問題が一つある。彼は先天的な再来か、それとも私のような後天的な再来かという問題だ。今のところ、モンテ・クリスト伯爵として現れる以前の彼については調査していないから何も分かっていない。今回それも明らかになるだろう。再来になる前のことを隠しているのか、はたまたそれ以前には存在しないのか……」

 紫音は固く口を結び、考え込み始めた。彼女が再び口を開いたのは、目的地近くになってからだった。勿論、その時のわたしにはそれは分からなかったのだが。

「ここでいい」

 今まで黙り込んで考えていたのが嘘のように朗らかな声で紫音は馬車を止めさせた。

 彼女に続いて降りてみれば、全く知らない地域だった。一口に夏山市と言っても広い地域だ。行ったことがない場所だってある。

 紫音はポケットから懐中時計を取り出し時間を確かめ、そのまま歩き出した。一分と経たないうちに大きな邸宅が見えてきた。ここが目的地であることは明らかだった。

 母屋(という言い方をするべきではないのだろうが)の正面は、広い前庭の中央に聳える植え込みによっていくらか隠されていた。その植え込みを回り込むように径が二条伸びていて、恐らくそこを馬車で通るのであろう。見たところ、建物の裏にも広い庭園があるように思われた。当世のシャンゼリゼ大通りとは様相がだいぶ異なるのだろうが、紫音のベイカー街と同じ様に、この街のシャン・ゼリゼーはここだけだろうから関係あるまい。

 門の前に立つなり、伯爵の召使と思われる男性が門の影から出てきた。

「シャーロック・ホームズ。十時に約束している」

 紫音は誰何よりも先に答えた。

「お待ちしておりました」

 男性は丁寧に一礼した。その態度から、わたし達が少なくとも厄介者とは思われていなさそうで安心した。

 静かに門が開かれ、わたし達が通るとやはり静かに閉まった。

 わたし達は邸宅の客間サロンに通された。客間の壁には様々な絵画が飾られ、豪華な机とソファが一揃い並べられていた。机の上には、客に勧めるためだろう葉巻煙草が入った箱が置かれていた。何故葉巻と分かったかというと、紫音が勝手に開けたからだ。

 わたし達が入ってきたのとは違うドアがいきなり開き、その向こうから背の高い男性が入ってきた。ヴィルフォール夫人から話を聞いていたので、それがモンテ・クリスト伯爵であることはわたしにも分かった。

「初めまして、シャーロック・ホームズさん。モンテ・クリスト伯爵です。貴方のような高名な探偵とお会いできて光栄です」

 伯爵は落ち着いた雰囲気のある男性だった。黒々とした髪は豊かで、髭はなく、顔は確かに青白かったが、それが却って彼の妖しい美しさを作り出しているように思われた。肩幅は広く、大柄で、見たところ筋力も強く、剣を扱わせれば相当出来るだろうと思われた。

「初めまして、エドモン・ダンテスさん。いえ、MAFIA幹部のモンテ・クリスト伯とお呼びすべきでしたか?」

 伯爵は素早くリボルバーを抜き、紫音へ向けて突き付けた。

「――見事な判断の速さですね。しかし私の方が速い。動き始めるタイミングは完璧ですが、抜きやすいところにしまっておくべきでしたね、内ポケットではなく。私を相手に一秒も浪費するとは」

 紫音は落ち着きはらって言った。その手には拳銃、Five-seveN Mk2。彼女の愛銃である。十年以上も同じモデルを使い続けている。

「どこでそのことを?」

 伯爵も冷静さを失ってはいないようだったが、挨拶の時の柔らかな雰囲気は一瞬にして脱ぎ捨てられていた。

「ご立派な葉巻をお持ちですな」

 紫音は朗らかに言った。

「どこで知ったかと訊いているのです」

 伯爵は少し声を荒らげた。

「話は最後まで聞くことです。芝居がかって勿体ぶった話し方は貴方の得意とするところだと思いますが、私にとっても同様なのです」

 紫音が今度は高らかに言った。伯爵の言葉を殆ど遮るように。

「さて、あの葉巻はMAFIAの幹部クラスでないと買えないものです。私がそのようにしたのだから間違いありません。一本や二本なら譲ってもらうこともあるかもしれませんね。しかし、あれほどの量を客に勧められるのだとすれば、もはや仕入れているとしか考えられません。よって貴方はMAFIAの幹部です。簡単な仮説論法アブダクションの産物ですが、推理とすら呼べませんね」

 伯爵はこれを聞いて納得はしたようだったが、銃を彼女に向けたまま降ろさなかった。わたしは伯爵に自分の銃を向けた。

 伯爵の銃は口径が大きく、威力が高そうに見えた。それに比してわたしの銃は貧弱に見える。射撃の腕も別段優れているわけではないので、撃ち合いになったら紫音頼みだろう。彼女の射撃はまず外れることはなく、弾痕で文字を書くことも朝飯前だ。これもまた彼女がホームズたる要素の一つだろう。

 そもそも、いくらここ夏山市が神秘都市と言えども、広く見れば日本国である。銃は普通手に入らない。だからわたしも紫音もちょっと古いものを使い続けているわけだが、勿論様々な手練手管を使って正式に許可を得ている。

「話は終わりましたよ、伯爵。撃つなり人を呼ぶなりご随意にどうぞ。私に貴方を捕まえる口実をくれようと言うなら、ですが」

 紫音は毅然として告げた。諦めたのか、伯爵はリボルバーをポケットにしまった。それを受けてわたしも紫音も銃を降ろした。

「それで、どういうご用向きで?」

 伯爵はわたし達にソファを勧めながら言った。

「『噂のモンテ・クリスト伯爵がどのような人物か』という興味でして。私としては貴方のその影響力は正しく使えれば素晴らしいものになると考えていますので、手でも組まないかと思って来たのですがね」

「手を組みたいと思って銃を突き付けるのですか」

「貴方が敵対しようとするからです。先に取り出したのは貴方ですよ。正当防衛では?」

「……まあいいでしょう。手を組んで何をしようと言うのですか」

「この市の秩序を守るのです」

「失礼ながら、それは私の目的とそぐわないですな」

「ほう、伯爵様は市の秩序を壊そうとなさるおつもりですか。では私は貴方を捕まえなければなりますまい」

「いや、何も秩序を進んで壊そうとしたい訳ではありません。しかし私がモンテ・クリスト伯爵である以上、復讐をせねばなりません。それは秩序に反する行為でしょう」

「それ以外に何かするおつもりは?」

「ありません。余計なことをする度胸はありませんので」

「宜しい。余計なこともして頂くでしょうが、私に御協力頂ける限りは貴方の復讐について私が捜査することはないとお約束しましょう。それに貴方の過去のことも」

「そういうことでしたら結構です」

「秩序の為に必要なことがあれば私から連絡致します。ではこれで」

 紫音は勢いよく立ち上がった。伯爵の差し出した手を握らず、足早にモンテ・クリスト伯爵邸を後にした。わたしは伯爵の空いた手を握ってから追いかけた。


「極短時間だったが実に有意義な会談だった。葉巻があったのは非常に好都合だったと言っていいだろう。あれが無ければこれ程上手くは事を進められなかったかもしれない」

 ベイカー街へ帰る馬車の中で、紫音はこう述べた。

「銃を向けられていた時はどうなるかと思ったけど」

「それは少々警戒し過ぎだな、ワトソン。伯爵は分別のある人物だ。あの場で私を撃てば自分の身が破滅するということはよく分かっていたはずだ。勿論私の提案を断らなかったのもそれが理由だ」

「時にホームズ、きみの言う秩序とは?」

 わたしは尋ねた。

「単純なことだ。この町から危険人物の再来を排除する。八年前のモリアーティ教授だって同じだ。延いては第二・第三のモリアーティを生み出さないことだとも言える。『恐怖の谷The Valley of Fear』の第一部二章でシャーロック・ホームズがアレック・マクドナルド警部に言った言葉を覚えているだろうね。『全ては回ってくるEverything comes in circles―― モリアーティ教授でさえeven Professor Moriarty.』」

 こうもモリアーティを連呼する辺り、彼女が如何に故モリアーティ教授を危険視していたかが窺える。紫音は指先だけを付けるようにして手を合わせた。

「さっきの伯爵の言葉だが、あれは少し違う。確かに彼は秩序を乱し得る存在ではあるが、決して悪ではない。寧ろ善人とすら言える」

 紫音ははっきりこう断言した。わたしには少々どころではなく理解できなかった。いきなり人に銃を向ける輩に善人はいないと思う。

「どういう理由で?」

 それ故わたしは尋ねざるを得なかった。

「伯爵は幾らか日本国の法的に問題があることをするとしても、それをただ己の利益の為に行うわけではないからさ。彼は正義の為に必要であれば法を犯すのだよ。私だって必要であればそうするだろう」

「つまり、ホームズ。さっきの会談の終わりに言っていたのは、伯爵を悪人だと思わない限り、伯爵をどうこうするつもりはないってことで合ってる?」

「そうだ。他にどういう解釈がある? 伯爵は今やあの近辺の支配者と言ってもいい実力者だが、彼が無関係な市民の安全に気遣っているという事実も無視できないと思う」

「でも、伯爵が悪人であることに変わりはないでしょ? 復讐をしようとしているんだから」

 わたしがそう訊ねると、紫音は例の彼女一流の声を上げずにやるやり方で笑った。わたしはそんなにおかしな質問をしただろうか。

 紫音は笑いを止め、わたしの顔を覗き込むようにして言った。

「いいかねワトソン。復讐することだけなら別段悪いことではない。問題はその方法だ。刑罰だって見方を変えれば一種の復讐だからな。彼は何も復讐相手を直接殺した訳ではない。一人もだ。死んだ者は皆、自らの罪を感じた上での自殺だったり、伯爵ではない人物に不幸にも殺されたりしただけだ」

 わたしは黙り込んだ。

 紫音曰く―― 復讐というのは究極的には正義なのだそうだ。される相手は悪なのだから。

 ではなぜ復讐をするかというと、法に代わって悪を誅する為であり、自己満足の為だけのものではないらしい。復讐は、される相手が悪であり、することが正義である場合にのみ成り立つ行為であって、そうでない場合は復讐とは呼べず、単なる悪行となる。相手を殺そうが、生かそうが。

 つまり、行う方が正義であって、相手が悪ならば、それは悪の排除と同じことだと。

 そして当の伯爵は、自らの行いが罪深いものであるという意識を持っている。それも、行う前から。

「……じゃあ、やっぱり伯爵のは悪いことだと思うけど」

「無実の罪で十四年間も投獄されたとしてもか? その間に父親が絶望によって死んだとしてもか? 許嫁が自らを貶めた三人の内の一人である恋敵と結婚して子をもうけていてもか? 残り二人の共犯者達も皆出世して幸せに暮らしているとしてもか? 私は彼、モンテ・クリスト伯爵の復讐には正当性があると思っているし、寧ろやり遂げるべきだと思っている。ミルヴァートンMilvertonを射殺したあの立派な女性よりもよっぽどマシな復讐者だ。多少厄介な事情があったとはいえ彼女を見逃したシャーロック・ホームズが、モンテ・クリスト伯爵を裁こうとするか? しないに決まっている」

 わたしは紫音のことを、常に論理的な思考を行う、いわゆる探偵的気質の持ち主であると思っていたが、意外なことに、彼女は時折ひどく情緒的に物事を語ることがあった。それは、単に感情論と呼ぶには余りにも理路整然としており、わたしは大抵彼女の言葉に耳を傾けるだけだったが、今回ばかりは流石に黙って聞いているというわけにはいかなかった。

「だからといって、伯爵の復讐を手伝うなんて――」

「無論そんなことはしない。彼にも言った通り、私はあくまで彼の邪魔をしないというだけだ。それ以上のことをしてやる義理も道理もない。私は私の好きにするし、彼は彼の好きにするがいいさ。捜査だけはしないでいてやる」

 そう言って、紫音はまた声を出さずにうっすら笑った。

 わたしはため息をつくしかなかった。

 確かに、彼女が自分の意志に従って行動するのならば、誰にも文句を言う筋合いはない。それに、もし彼女に何かするつもりがあれば、もう既に何らかの手を打っていることだろう。

 だがしかし、わたしは納得がいかず、しつこく食い下がろうとした。

 特に納得出来なかったのが、紫音が言うところの、正義の為に必要であれば法を犯す、という言葉についてだ。

「ねえホームズ、本当にそれでいいと思う?」

 すると紫音は、微笑を浮かべながら応えた。

「何がだワトソン」

「きみが言っていること」

「ああ」

「法で罰せられないからと言って、伯爵が人を陥れてもいいということにはならないと思うよ」

 そう言うと、紫音は更に笑った。ハ、と声を上げて。

 やがて、紫音は言った。

「ワトソン、そんなにそこが気になるのなら私の思考内容を教えよう。私はただこう考えただけだ。君も知っての通り、伯爵は私達と同じように魔術師だ。魔術師は、余人の法ではなく魔術師の法で正義を成す。魔術師とは元来そういうものだ。人の法が真面に機能しないからこそ、この界隈では殊更に悪は取り除かなければならないし、生み出さぬ努力をしなければならない。モンテ・クリスト伯爵には確かに、明らかに、悪の素質はある。さもなければMAFIAで地位など築けるものか。その素質は故モリアーティ教授に近しい性質のものだ。だからこそ彼が完全に悪に堕ちる前に、こちら側の味方になって貰わなくてはならないんだよ。さっきも言ったように、悪を排するという我々の目的の為には、あの男の協力が不可欠だ」

 わたしは紫音の言い分が感情的にはまだ納得出来ていなかったのだが、それでもわたしには、紫音の言葉が本心から出たものであるということは分かった。そして、その本心の発露の仕方についても、これまでよりもずっと素直なものであることを感じ取ることが出来た。

「ホームズ」

「今度は何だいワトソン」

「今みたいな方が好感持てるよ」

「お互い様だな」

 紫音は皮肉っぽく応えた。それから一時間ほどして、わたし達はベイカー街221Bに到着した。

「さてワトソン、馬車の中で話した事柄以外にも、面白い点が幾つかある。何か分かるかい?」

 紫音ホームズは楽しそうに笑って言った。わたしは少し考えてみた。しかし、やはり何も思いつかなかった。

 仕方がない。ここは一つ、専門家の意見を聞いてみることにしよう。

 わたしは何も言わずに首を横に振った。

 すると、彼女はにっこりと、いや寧ろニヤリと得意気に笑った。

「ヴィルフォール夫人の言葉を思い出すことだ。彼女は私を見て『巷に溢れているお話とは印象が異なる』と言った。自身が再来であるならば、この時代に生きる魔術師ならば、私というホームズが再来であると気が付かないということは有り得ない」

 そこまでのことは確かにそうだったと思い出し納得できても、それが一体何を示すのかわたしには分からなかった。

「あのヴィルフォール夫人は、自分が再来であることに気が付いていないのだよ。彼女は今なお十九世紀を生きているつもりでいるんだ。彼女が何でここまで来たかを見たか? キャブだ。だがハンサムじゃない。フランスのカブリオレだ。ハンサムキャブの原形と言えば分かりやすいかね」

 あの時紫音は窓から通りを見てから着替えに行った。あれは馬車を見に行ったのだとようやく分かった。

 馬車には、他の車には無い特徴的な音がある。馬の歩く音だ。閉められた窓越しではわたしには聞こえないが、橋姫紫音の卓越した聴力であれば聞き取れたことだろう。だから確認しに行ったのだ。

 紫音はマントルピースの上のパイプ置きからブライアーのパイプを手に取った。爪先を下にして吊り下げられたペルシャスリッパから煙草の代わりを取り出し、肘掛け椅子に収まってマッチで火を付けた。

「さて、伯爵にはあのように約束したし、ヴィルフォール夫人にも依頼されている。兎にも角にも依頼の方を片付けるべきだな。ワトソン、便箋を取ってくれないか」

「そこで書くつもり?」

「勿論。ペンを使って書くわけじゃない。だから場所は選ばない」

 わたしが便箋を渡すと、紫音はそれを細い指で撫でた。指先が通ったところには、何か文字が書かれているのが分かった。

ミセス・ハドソンMrs. Hudson!」

 紫音が大声で呼びかけた。やはり見事な英語の発音だったが、わたしは酷く困惑した。確かにホームズとワトソンの家の階下には家主たるハドソン夫人が住んでいるが、それはあくまでも本物のホームズの場合だ。わたし達の家の家主は他ならぬ紫音だ。ハドソン夫人がいるはずも無い。

 ところが、確かに階段を昇ってくる足音が聞こえたのである。

「何ですか、ホームズさん」

 そう言いながら入ってきたのは、老年の女性だった。いつだか再放送で見たテレビドラマシリーズ――わたしの知る限り最も完成度の高いホームズ作品――のハドソン夫人そっくりの雰囲気だった。

 驚いて紫音の方を見ると、彼女もまたこちらを見ていた。ニヤニヤと笑っていたが。

「驚いただろう、ワトソン? 我が家で提供される食事は全て彼女が作ったものだと聞けばもっと驚くだろうね」

 彼女の言う通りだった。わたしは驚いて声も出なかった。説明して欲しい、というわたしの気持ちを目敏く汲み取ったらしい紫音は、咥えていたパイプをサイドテーブルに置いた。

「ミセス・ハドソン、悪いがここで元の姿に戻ってくれ給え」

「はい、ホームズさん」

 ハドソン夫人がそう答えると、彼女の周囲の空気が大きく歪み、それが戻った時には見覚えのある人形ひとがたが浮かんでいた。

「紫音の使い魔!」

 わたしは叫んだ。紫音は満足気に笑った。

「Exactly. 君は昨年『月刊現代魔術師』の10月号に掲載された論文を読んでいないな? 正確な題は忘れたが、根源魔力エーテルを用いて仮初の肉体を創る手法についての実用的な論文だ」

 魔術師でない人のために説明しておくと、紫音の言う『月刊現代魔術師』とは魔術に関する学術雑誌で、日本語で書かれたものとしては最も新しく勢いがあり、世間からも注目されている。

「うん、読んでないと思う。その頃は卒論で忙しかっただろうから」

「だろうな。もし読んでいたらあそこまでは驚かなかったはずだ。私はそこで読んだ理論を試してみたくなって、この通りミセス・ハドソンを作り出した。私が家主である以上は、他の誰かがミセス・ハドソンになることは有り得ないからな」

 解明すべき犯罪が無ければ、紫音は居間に様々な器具を出して来て魔術研究をしているが、まさかその成果がこのような形で現れるとは思っていなかった。

「私はもうまともな研究者ではないから新しい理論を作り出そうとは思わないが、役立つ理論を放っておくほど魔術師を辞めてはいないということだ」

 紫音が自虐的に言った。

 かつての紫音は、探偵としての仕事が殆ど無かった事もあって、もっと積極的に魔術の研究に明け暮れていたという。

 とはいえ紫音は魔術師としては珍しく、神の再現を目指してはいなかった。恐らく、再現してしまった人が身近にいたからだろう。専ら実用的で役に立つ、生活を豊かなものにする為の魔術について研究していた。

 パイプや虫眼鏡は中学生時代に作ったという。さっきの葉巻は失踪時代に、懐中時計とフロックコートは帰還後の大学時代に、ステッキとシルクハットは昨年作ったものだ。馬車は大学卒業後、昨年までのいつかだろう。

 一見してそれとは分からない魔術具を作るのが彼女の拘りだった。そのため、全身に魔術具を装備していても変に目立つことは無いという利点がある。とはいえ、フロックコートを今どきビシッと着こなして、シルクハットを頭に乗せていたら却って目立つのは明白だが。

 因みに彼女はトップスターもかくやというくらいのイケメン女性だ。しかし本人に言うと「私はそんなに魅せる為の顔はしてない」と否定する。

 これだけ聞くと彼女がかの有名な歌劇団を嫌っているみたいに思われるかも知れないが、実際には全くそんなことはないと思う。彼女の大失踪時代最後の年に日本に帰ってきた理由の一つが「シャーロック・ホームズを主人公とした歌劇を見るため」だったくらいだ。

 因みに私はちょっと東京(兵庫は勿論無理だ。単純に遠い)まで出かける勇気が出ずに見損ねた。しかもぐずぐずしていたらBDが売り切れていた。仕方がないのでDVDは購入した。

 紫音に感想を聞いたところ、「私ではああは出来ないな」というなかなか不遜な答えが返ってきたが、わたしはそれが彼女なりの最大級の賛辞だと知っている。だいたい、その歌劇でのモリアーティ教授のブロマイドを壁に貼っているくらいだ。気に入っているのは確かだろう。本物のホームズが壁に貼り付けるのは犯罪者の写真なので、ホームズとアイリーン・アドラーのブロマイドは壁に貼り付けなかったらしいが、しかし机の引き出しに、総角明菜の写真と共にしまわれているのをわたしは知っている。

 そんな彼女がフロックコートを着て街へ出ると、偶に話題になる。若い女性の間で黄色い声が飛び交うのだ。同居人としてそういう人達からのちょっとした妬みの視線を受けるのにも慣れたものだ。

 話がとっても逸れたが、とにかく、紫音は自虐する程魔術師を辞めている訳ではない。

「考えていることは分かるよ、ワトソン。しかし私はただただ様々な物を作っているというだけで、それらは古い理論の応用に過ぎない。新たな魔術理論を生み出す気が無いようでは研究者失格だよ」

 そういうものだろうか。わたしも全然研究者ではないので、何も言えなかった。

「さて、ミセス・ハドソン、これを出して来てくれ。速達で。よろしく」

「私は使用人じゃありませんよ」

 ハドソン夫人はそう言いながらも、ちゃんと手紙を持って出て行った。

「根本的には私の使い魔だからな。使用人でなくとも私の指示には忠実に従ってくれる。ちょっと手紙を出すだけで郵便局の女性職員達にキャーキャー言われるのはうんざりだ」

 それは紫音がイケメンなのが悪い。わたしだってこういう立場じゃなかったらキャーキャー言っていたかもしれない。

 だいたい、この街はゴシップが少ない。スキャンダルは多いけど。だから、有名人の紫音は注目されまくっているのだ。

 実際紫音はかなり有名人だ。どちらの名前でも、その名を聞けばあらゆる犯罪者は震え上がる。彼女の存在がある種の抑止力になっているとすら言えると思う。その結果が冒頭の嘆きである。

 犯罪者にとって恐怖の対象なら、他の人から見ればどうか。ちょっとしたヒーロー扱いだ。紫音に助けられた人から口コミで広がり、夏山市で彼女の名を知らない者はいない。その上イケメン女性となれば、そりゃキャーキャー言われるのは仕方無いと思う。

 誰だってそうする。わたしもそうする。

「君までそういう目で見るのか?」

 紫音は少し苛立った様子だった。苛立つくらいなら人の思考を読んだりなんかしなきゃいいのに、とわたしは思った。

「ホームズ、きみは自分が美人過ぎることを自覚するべきだと思うよ」

「……それについては君の言う通りかもしれない。どうやら私は世間から浮いているようだ」

「いい意味で!」

 わたしの言葉に、紫音は一瞬だけ口元に笑みを浮かべた。

「そうらしいな」

 またすぐに元の表情に戻った。

「それで、ホームズ。わたしはこれから何をすればいい?」

「君は取り敢えずいつも通りで構わない。恐らく明日の昼頃には次の動きがある。それまでは好きにしていて構わないよ」

「わかった」

 紫音はパイプにまた火を付け、それを燻らせながら机に向かった。

 シャーロック・ホームズにはいくつも特異な能力があったが、その中でもとりわけ奇妙だったのは、思考の切り替え能力だ。それ以上事件について考えても何にもならない時、しばしば彼はコンサートを聞きに行ったり、化学実験に没頭したりしたという。

 シャーロック・ホームズの再来、橋姫紫音にも同じ能力があった。それが今まさに発揮され、彼女の意識は明らかに音楽の世界へ旅立っていた。頭の中で何かの曲を奏でているらしく、紫音の白く長い指はピアノを弾くかの様に机の上で跳ね回っていた。

 わたしは彼女の世界を壊さないように、そっと寝室へ向かった。

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