赤いカーネーション
お兄ちゃんは東京2020オリンピック・パラリンピックが終わるまで、今書いてる小説にちゃんと向き合えって言ってた。
東京2020が終わるまでって事に「深い意味は無い」って言ってたけど、「オリンピック選手達と同じように、それっ位の期間はしっかり向き合ってみろ」みたいな事を言われた。
何かもうちょっとちゃんと聞きたかったな〜、なんて思っていると、そこに北斗が現れた。
「おっ!雪菜。何か呼んだ?」
「北斗、来てくれたんだね。ありがとう! 私、延期になった東京2020が終わるまでこの小説に向き合えるのか不安になっちゃって」
「向き合うって、別に毎日書けって事じゃないだろ? くだらない事をダラダラと書いていってもしょうもない。じっくり構えて、書く事を色々学びながら、コロロンからも色々学びながら、書きたい事をゆっくりと書いていけばいいんじゃね?」
「そうだね。コロロンも長期戦になりそうだし、私の小説も長期戦だね。東京2020が終わるまでって言ったのは本当に深い意味は無かったのかな?」
「透は見届けたかったんじゃないかな。東京オリンピック・パラリンピックを。
六年前だろ? あの事故。
オリンピックを目指してたんだろ? それまでは。
パラを目指そうかと悩んでた時期もあったんだろ? だけど違う道を歩む事を決めたんだろ?
東京2020に関しては色んな思いがあった。それが一年延期になって、一年後にどういう形で開催されるのか、または開催出来ないのか。コロロンの中で東京2020がどうなっていくのか、自分の目で見て、考えたかったんだ。それを雪菜にも、読者の人達にも一緒に感じてほしいと思ったんだ。たぶん‥‥‥」
雪菜は真剣に聞いていた。
「私に書けるのかな? 北斗は出てきてくれるの?」
雪菜がそれを言い終わらないうちに北斗はどこかへ消えてしまっていた。
7月10日。今日は雪菜の母の誕生日だ。雪菜が朝、秘密の場所に座っていると、久しぶりにFOX先生が現れた。この地で野生動物を見かける事はそんなに珍しい事ではないのだけれど、見かけると雪菜はいつもドキッとする。野生動物は美しい。その動きに無駄が無いし躍動する姿は惚れ惚れする。そしていつも嬉しくなる。
今日もFOX先生は足音も立てずに軽やかな足取りでゆっくりと、雪菜から少し離れた所を駆け抜けていった。FOX先生は何か赤い花を一輪、口にくわえているように見えた。
「え? カーネーション? そんなわけないか?」と思いながら、雪菜はFOX先生が林の中に消える迄見送っていた。
FOX先生が消えたのと入れ替わるように北斗がやってきた。
「やあ、雪菜……」
北斗が何か言おうとしているのを遮るように雪菜が言った。
「今、FOX先生に合わなかった? 赤いカーネーションくわえてた。ちょうどFOX先生が消えた所から北斗が現れた感じだったんだけど」
「え? キツネなんか見なかったけどな。カーネーション? そんなのくわえるのか。今日は雪菜のお母さんの誕生日だもんな。もしそれが本当だったら、おとぎ話の世界みたいで楽しいな。で、雪菜も今日はお母さんにカーネーションあげたりするのか?」
「カーネーションは母の日でしょ? この前、ちょっと買い物に行った時に、お母ちゃんに似合いそうな服があったから、それ買ったんだ。これから暑くなるし普段着に使えるかなって思って」
「ふーん。女はいいよな。素直に『ありがとう』って言ったり何かプレゼントとかする事出来て」
「女だって男だって関係ないじゃん。男だって『ありがとう』って言えばいいし、プレゼントあげればいいのに」
「男ってそういうもんなんだよ。子供の頃とか、たぶんもっと歳とったら出来るのかもしれねーけど」
「お兄ちゃんみたいな事言うんだね。でもまあ、分かる気はするけどね。私だって感謝の気持ちとか、ほとんどちゃんとなんて言えないよ。ただ『ありがとう』位は言えるけどさ。
ねえ、直接は言えなくてもさ。北斗は自分のお母さんに本当は言いたい事あるんでしょ? どんな事言いたいか聞いてみたいな」
北斗は照れくさそうに笑った。
「え? それ、雪菜に言うのかよ。そんなん恥ずかしくて言えねえだろ。けどさ、今日はさ‥‥‥。
本当はそれを聞いてほしかったんだ。それで今日、雪菜に会いに来たんだ。聞いてくれてサンキュー」
「直接言えばいいのに」
「だから、言えねえんだよ、もう」
「もう?」
「もうってか、恥ずかしいって言ったろ?
オレさ、自分の好きなように生きさせてもらって、心配ばっかかけるだけで、母ちゃんには何にもしてやれなかったからさ。最後迄‥‥‥」
「なんで、過去形なの? 最後迄って? これからやればいいじゃん」
「これからって。まあ、そりゃそうだけどさ。とりあえずこれまでの事。
でもさ、オレは母ちゃんの子でよかったなって思ってる。ま、これから感謝の気持ちを言えるようになるかは分からないし、何も出来ないかもしれないけど、母ちゃんが歳とったり困ったりした時に助けてあげられたらいいなって思うわけさ。せめて母の日とか大切な日には赤いカーネーションくらい贈りたいなって。
あっ、それから。雪菜には淡いピンク色のカーネーションかな〜?」
雪菜の目に涙が溢れてきた。
「うん。うん。分かったよ。きっとこれから出来るよ。もしも、出来なくったって、お母ちゃんにはちゃんと伝わるよ。
あ、北斗のお母さんにね。この事、小説に書いておくね。
それから、私はピンク色のカーネーション貰えるのをずっと待ってるからね」
北斗はまた照れくさそうに笑うと、林の中に消えていった。雪菜は思った。
「まるでさっき見たFOX先生みたい」と。
その口には一輪のカーネーションがくわえられているように見えた。
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