秘密の場所で
あの日から、あの「透が集中治療室に入った」という病院からの連絡を受けてから、雪菜は一粒も涙をこぼしていない。コロロンで人を呼べないから、葬儀も家族で済ませた。雑用がなんやかんやと色々あり、お陰で日々を淡々と過ごせていた。
雪菜は本当に日々を淡々と過ごしていた。やる事はやって、ちゃんと食べて、ちゃんと寝て。しかし、涙が無かった変わりに笑顔も無かった。
透が亡くなってから、ニ週間が経った頃であろうか。笹山家の食事中の出来事。コロロンのニュースをやっていて、大勢の人達が一緒に楽しそうに公園で飲み会をしている姿がテレビに映し出された時に、思わず雪菜が舌打ちしながら口走った。
「人殺し!」
母親が立ち上がって、叱った。
「雪菜!」
雪菜は無表情のまま「ごめんなさい」と言って、食事を続けた。
時々、雪菜は誰に言うともなく呟く事があった。
「私が、あんな物語を書き始めたからこんな事になっちゃったんだ」と。
「おばあちゃんが、あんな不吉な事を言うからこんな事になっちゃったんだ」と。
月日が経つのが早いのか遅いのか、時間の感覚も何か分からない物になっている中、四十九日を迎える事となった。
その前日、雪菜はふと、書いていた小説を読み返してみようと思った。あの日から一度も見る事がなくなっていた物語。
スマホを開き、第一部分を読んで、スマホを閉じた。
「やっぱりこんなの書くんじゃなかった」
投稿を全て消そうと思った。
再びスマホを開き、第一部分を削除しようとした時、声が聞こえた気がした。
「やめろ!」
透の声のように感じた。
「あ、お兄ちゃん」
小さく呟き、雪菜はスマホを閉じた。暫くホーム画面をぼーっと見つめていた。雨音が急に耳に入った。
「そうだ。ちょっと座ってみよう」
長い間、秘密の場所に座っていなかった事に気がついた。
今日は雨が降り続いている。冷たい雨ではなさそうだけど、暖かい格好をして、カッパを着て外に出た。
秘密の場所に行って、石に座って思った。「久しぶりだな。五十日位座ってなかったんだな。その前も、小説書き始めてからは、ぼーっと座る事、あまり無かったな。ここで物語の事を考えたり、書いたりするのは好きだったけど、頭の中は書く事でいっぱいだった。今日はちょっとぼーっとしてみよう」と。
緑が美しかった。いつの間にこんなに色づいていたのだろう。空から降ってくる雨粒が規則正しく音を立てている。ぐんと伸びた草達は嬉しそうに輝いている。雨粒は時々、草に当たって弾けたり、小さな丸い玉になってコロコロ転がって落ちたり。お星様の形になって弾けている場所もある。
ゆらゆらゆらゆら、揺れる草。あっちで揺れ、こっちで揺れ、大きく揺れる物、小さく揺れる物。風が吹いても一斉に揺れるんじゃなくて、みんなまちまち。だけど全体の調和が取れていて、みんな嬉しそう。
雪菜の心は落ち着いてきた。人の心に関係なく、誰かが見ていても誰も見ていなくても、いつもいつも、どんな時でも自然の営みは続いている。
雨がっぱの上から感じる雨が身体に当たって弾けるのが心地良かった。
「私の家族もそうだよな。私がどんな状態の時も、何を言うでもなく、黙って見守り続けてくれている。変わらない日常を続けながら」
そんな事を思いながら、ただただぼーっと座り続けていた。
ふと、誰かに見られている気配がして、雪菜は後ろを振り返った。おばあちゃんが傘もささずに、カッパも着ないでそこに立っていた。いつからそこに立っていたのだろう。おばあちゃんの頭から、服から、たくさんの滴が垂れ落ちている。
雪菜はびっくりして立ち上がった。
「おばあちゃん! 風邪ひくよ!」
おばあちゃんは雪菜の方に歩み寄ってきて、雪菜をギュッと抱きしめた。
「おばあちゃん」
おばあちゃんは何も言わずに雪菜を抱きしめ続けた。
おばあちゃんの背中は小さかった。その背中が小刻みに震えているのを感じて、雪菜は泣いた。おばあちゃんをギュッと抱きしめながら泣いた。あの日以来、初めて泣いた。
暫く、時が止まっていたような気がする。おばあちゃんが言った。
「雪菜、一緒に帰ろう。風邪をひいちゃいけないよ」
ニ人は並んで家に戻っていった。
その日の夜、雪菜は約一ヶ月間の透とのLINEのやりとりを見返してみた。
「うぬぼれるな」と言われた事。あっかんべーのスタンプ。ウサギのやつもあった。「アホ!」って何回言われたかな? このタイミングで私が小説を書いた事への感謝の気持ちが書いてある。
最後に書いていたのは「この小説は東京2020オリパラが終了するまでは絶対にちゃんと向き合えよ」って事。もう一つ何か伝えたい事があったのかな? 「それは雪菜が入れてから書く」って書いてある。
それらを見ながら、雪菜は泣きながら笑っていた。
昨日、第一部分しか見る事が出来なかった自分の投稿、全部削除してしまおうと考えたその投稿を、もう一度開いてみた。
もしも、私がこの物語を書き始めなかったとしたら。お兄ちゃんとの別れはこれ程までに辛い物にならなかったかもしれない。この物語を書き始めたから、私は一ヶ月間、お兄ちゃんの事をいっぱい考えた。ちょっと辛い事もあったけど、お兄ちゃんとの楽しい思い出が沢山出来た。大切な事も教えてもらった。もっともっと教えてほしかったし、楽しい思い出も作りたかったけれど、その一ヶ月の間にたくさんの種を撒いて貰った。それをこれから私が育てていかなくちゃ。
もしも、おばあちゃんがあの時、「後悔先に立たず」って事を言ってくれてなかったとしたら、私は今頃めちゃくちゃ後悔しているだろうな。おちゃらけてたかもしれないけど、お兄ちゃんが生きてるうちに一番言いたかった事を言えた。
最後はきっと、お母ちゃんと私が手を握った事、お兄ちゃんは分かってくれたと思う。お父ちゃんとおばあちゃんの気持ちも分かってくれたと思う。
偶然だったのかもしれないけれど、小説を書きたいと思った事、FOX先生、北斗、お兄ちゃんと繋がっていった事。私はまだ、おばあちゃんのように感じる事は出来ないけれど、何かが何かを感じさせてくれて、私は物語を書き始めたのかもしれない。
ちょっと心の整理が出来たようなスッキリとした気分で四十九日を迎えられそうな気がして、雪菜は眠りについた。
朝起きるとお兄ちゃんからLINEが入っていた。雪菜は驚いて開いてみた。
「泣かせちゃったか? わりいわりい。ちょっとやり過ぎちゃったかな。でもおかげで短調な小説に少し山場が出来たろ? 感謝しろよ」
雪菜は冗談じゃないと思って、怒りの言葉を入れようとした。ところが、文字を打っても打っても、出てくるのはベロを出したお化けマークばかり。
「何これ何これ」と泣きそうになっていると、突然目が覚めた。
「なんだ、夢か」
雪菜は、ちょっとおかしくなって「フン」と言ってそのまま眠りについた。
その日から雪菜は少しずつ以前の笑顔を取り戻していった。
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