雷鳴が聞こえる刻

秋月忍

発端

 平成も終わりに近づいた七月。

 東海地方に激しい雨が降った。

 激しい雷鳴。河川の増水。

 その日。国宝犬山城の天守の鯱が破損した。

 天守の避雷針が曲がっていたことから、落雷によるものとされている。

 翌年二月、鯱は瓦製で作成され天守に戻された。




 真夏の太陽が照りつけている。

 都会のど真ん中にもかかわらず、喧騒は遠い。太い幹の木々が生い茂る熱田の杜。

 古き神社の外観を壊すことなく作られたその建物の二階に、草野健司くさのけんじ八坂美紀やさかみきは呼ばれていた。

 空調が効いているので、外の暑さを感じない。

 窓には、ブラインドではなく御簾がかけられている。外観はあくまでも、古式にのっとったデザインを重視しているのだ。

 関係者以外立ち入り禁止区域のその部屋は、警察庁『退魔課』の支部である。

 一般的には非科学的とされている妖魔やあやかしの類であるが、それらは未だ現在でも存在する。

 人がそれらを忘れても、それらは人間世界に深く入り込み、多くの事件や事故に介在しているのだ。

 太古の昔から人ならざるものと関わってきたのは、多くの霊能者であった。彼らのほとんどは宗教関係者である。霊能者というのは大衆の中では異端だ。神の力のそばにいることで、忌まれることから逃れられる。令和の現在であっても霊能者と宗教は未だ密接な関係だ。ゆえに退魔課の支部は宗教施設に置かれることが多い。

神崎保かんざきたもつが逃げた」

 この支部の支部長である各務京史郎かがみきょうしろうが苦い顔で告げる。

 神職でもあるため、服装は真っ白な狩衣。年は七十。かつては日本屈指の実力者と呼ばれていた。髪はすっかり白くなり、頬の肉は削げ落ちているが、背筋は未だにぴんとしていて、動きだけ見れば、まだ若者と変わらない。

「奴は監獄にいたはずでは?」

 草野健司は眉間にしわを寄せた。

 日本人にしてはやや濃いめの顔立ち。眉は太く鼻も高くて筋が通っている。

 割と細身であるが、肩幅はがっちりしていて腕も太い。年齢は三十歳。

 着ている服は、黒の長袖のジャケット。中は緑色のタンクトップに黒のスラックスだ。

 自分が呼び出された意味を理解はしたものの、なぜそうなったのかは説明が欲しいと健司は思う。

 神崎保は、かつて天才と呼ばれた男だった。年は健司と同じだ。

 あの『雷の欠片』を手にするまでは。

 天候をも操ることができるという呪具を完成させた神崎は、日本各地で災害をおこし、日本政府を脅した。彼が望んだのは、電気やガスのない江戸時代まで文明を後退させ、日本の大地を蘇らせること。

 健司は神崎と死闘のうえで呪具を奪い、彼を捕縛した。

 正直、二度とやりたくない相手である。

「神崎が……」

 複雑な表情をみせたのは八坂美紀。保は美紀の元相棒である。現在は健司の相棒をしているが、かつては神崎と組んでいた。神崎が暴走を始めた時、それを止めようとして、彼女は生死をさまよった経緯がある。

 ショートヘアで大きな瞳。

 小さな顔でぽってりとした唇。ビジネススタイルのベージュのパンツスーツを着ている。動きやすいことを信条にしているため、靴はローファだ。年齢は二十七歳。化粧っけはあまりない。本人はあまり気づいていないようだが、かなりの美人だ。

「弁護人との接見の一瞬の隙を狙われたらしい。一度結界の牢を出てしまっては、奴を抑えられる者はいない」

「それはそうかもしれませんけれど」

 健司はため息をついた。

「今の奴は、『雷の欠片』を持っていない。前よりは組みやすいはずだ」

「呪具を取り返そうとしますでしょうか?」

 美紀は不安げだ。

 現在、雷の欠片は、熱田の宮に収められている。

 何重にも封印を施し、すでに天候を操ることは叶わないが、それでもいかづちの力を有していて、強力な呪具だ。神器のある社に隠しているのは、その力を神の力で周囲から隠ぺいするためだ。

「その可能性もあるが、新たに何か作り出そうとするかもしれない」

「新たなもの?」

「そもそも、『雷の欠片』は単純に『雷』に当たってくだけた鯱の欠片だったのだから」

 神崎保は術を行使するだけでなく、呪具をつくることにかけても優れている。

 日本全国で落雷など珍しくもない。材料と時間さえあれば、第二の『雷の欠片』を得ることは可能だと考えられる。

「それで、こちらに私たちを呼んだのは?」

「目撃情報によると、奴は名古屋に来ているらしい」

 ふうっと各務がため息をついた。

「奴がこちらに来たとなれば、当然『女』に会いに来た可能性が高い」

相田早苗あいださなえさん、ですね」

 無表情な美紀の横顔を健司は複雑な思いで眺める。美紀はかつての相棒である神崎をどのように思っているのだろう。

 瀕死の目にあわされたはずの美紀だが、神崎への恨み言を言わない。もともとそう言ったことを口にする美紀ではないが、言わないがゆえに、かえって周囲から神崎との関係を疑われている。ただ、言ったところで、その噂は消えないだろうなと健司は思う。

「そうだ。今のところ彼女には見張りをつけているが、奴が現れても見張りでは対応できない」

「まあ、そうでしょうね」

 神崎なら、一般人の警官が十人で取り囲んでも突破できる。それくらいのことはやってのける男だ。

「これが相田の資料だ。神崎とは手紙のやり取りはしていたようだから、完全に切れてはいない。少なくとも神崎から見たら、だが」

 健司は紙の束を受け取る。

「かなりの量ですね。ペーパーレスの時代に逆行していますよ」

 その分量に健司はややうんざりとしながら、紙をめくった。

「メールは残る。消したところで復元は可能だ。紙は燃やせば消える」

「紙だって残りますよ」

 健司は苦笑した。各務は婉曲に読んだら燃やせと言っているのだろうが、そんな一瞬見ただけでは、内容が理解できるわけがない。

「まあ、なんにせよ、すぐに向かってくれ」

「今からですか?」

 健司は大きくため息をつく。

「獄中生活で、奴が弱くなっていることを、せつに願います」

「まあ、あまり期待は出来んな」

 各務は無常にも、あっさりと首を振った。

「なんにせよ、を持つ、お前に頼むしか方法がない」

「……俺はいつでもを返す用意はあるのですけれどね」

「そういうわけにはいかん。それを使えるのは、今はお前だけなのだから」

「そうでもないと思いますけれどね」

 健司はそっと肩をすくめた。

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