「あじあ」に乗った日

古井論理

本編

一 マルタ

 九時、大連発の「あじあ」に、ぼくは乗った。見送りに来た母が、大勢の人にまじって見える。

「おかあさん、いってきます」

 ぼくが手をあげると、母もあげた。窓を開くことができないので、ぼくのこのことばも通じないらしい。母も何かいっているようだが、こちらにはわからない。「あじあ」は流れるように動きだした。ぼくは、この春休みにハルピンのおじのところへ行くのである。一度乗ってみたいと思っていたこの汽車に乗れて、ほんとうにうれしい。先頭の機関車があの流れるような格好のパシナではないのが残念だけど。やがて金州にさしかかると、車掌さんが説明する。

「右手に見えますのは、大和尚山(だいおしょうざん)で、関東州第一の高山、その手前の丘に、あの旅順の英雄、乃木勝典中尉(のぎかつすけちゅうい)の記念碑があるのです。左には、金州城が手に取るように見えます」

 雪の少ない南満州の畑はよく耕されて、農家がぼつぼつと見える。沿線の柳の木に、かささぎが巣をいくつもかけている。ぼくがそれを見ていると、

「そこのあなた、何を見ているの?」

 と、後ろから声がかかった。ぼくは飛び上がるほどびっくりして、後ろを振り返った。そこにいたのは、ロシア人の女の子だ。

「何してるの?」

 聞かれてぼくは、なるべく平静を装い、

「あのかささぎの巣を見ているんだ」

 と、やっとの事で言った。しかし、「かささぎ」という日本語がわからないらしい。キョトンとしている。少し考えて、「鳥の巣を見てるんだ」といったら、すぐわかってもらえた。

「どこに行くの?」

 女の子はぐいぐい話しかけてくる。

「は、ハルピン」

「私は、新京に帰るの。お母さんと一緒に」

 ぼくは、保有する勇気のすべてを出し切り、

「君の名前は?」

 と聞いてみた。すると不思議なことに、ぼくの緊張は、ほどけていった。

「マルタ。あなたの名前は?」

「マナブ」

「日本から来たの?」

「そ、そうだよ」

「じゃあマナブ君、歳いくつ?」

「十歳だよ」

「私は十一。ひとつ違いね」

「お母さんは、どこ?」

「おかあさんは、あそこ」

 と指さしたところに、みどり色の上着を着て、丸メガネをかけたロシア婦人がなにやら難しそうな本を読んでいる。熊岳城(ゆうがくじょう)に近づくと、望小山(ぼうしょうざん)が見えだした。望小山には、いろいろな色の、木の花が咲いている。マルタに、

「あの山の伝説、聞きたい?」

 といったら、マルタは、

「お昼ご飯をたべながら、おかあさんといっしょに聞きたいわ」

 という。

「お母さんは知ってるんじゃないの」

 と言ったら、マルタのお母さんが、

「知らないわ。聞かせてくれるかしら?」

 と言って、席を立った。

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