第6話 授業準備
当然の如く時間は過ぎる。
呆けていようが、勉強していようが関係なく、時間は残酷に刻まれていく。
そんなこともつゆ知らず、楓に対して巧妙と言った向日葵は、より巧妙に楓にちょっかいを出してした。
授業中にも関わらず、お構いなしだった。
楓はそんな向日葵を無下にすることもできず、バレない程度に相手をしていた。もしかしたら転校生ということもあって大目に見てくれていたのかもしれない。
向日葵のちょっかいは元の楓なら耐えられなかっただろうが、今の楓にはハードではあったが、授業が終わるとすぐに机に突っ伏すほどの負荷はなかった。
思考と行動を切り離せるようになったおかげで、対処はどうにでもなったのだ。
また、勉強に関しても、担任の言葉通り進学校ということもあって、楓が受けてきた授業よりも難しいこともあったが、困ることはなかった。
もし、わからなくなっても、すぐさま向日葵がフォローに入り、教師より上手いのではと思うほどの教え方により、理解して解くことができた。
人は見た目によらないとはよく言ったものだと楓は感じていた。
そして、向日葵は何かで楓を助けたあとに、決まって
「私を頼ってくれていいからね」
と言った。
楓はその言葉に、向日葵は転校生なのにと心の中でツッコムが、実際頼りがいがあるとも感じていた。
そうして、目の前のことに集中していた楓は失念していた。
大きな壁があるということを。
いや、そもそも朝、もっと前の前日の段階で授業に何があるかを確認しておくべきだったのだ。
授業が終わるやいなや、ざわざわとするまで今までと同じだったが、女子たちが荷物を持って教室を出ていくのだ。
あれ、と思いながらも楓もまた同じように、荷物を持って席を立っていた。
気づきながらも、考えまいとしていることに楓は気づいた。
「どこ行くの?」
疑問そうに首を傾げた向日葵が言った。
「コウイシツ」
自分に話しかけられていると理解するより早く、楓の口は動いていた。
決定的な言葉だったが、楓は飲み込めなかった。
「なるほど」
最大のニヤニヤを浮かべる向日葵は状況を理解したようだった。
コウイシツ。
楓は未だに、何を意味する言葉かわからなくなっていた。
もちろん聞いたことはあった。
日本語だろうとすぐに見当もついた。
だが、どんなものか、単語と実物がすぐには結びつかなかった。
いや、結びつけないように、必死になって否定していた。
その油断がスキを招いた。
「ひっ」
と楓は言葉が漏らした。何かされたんじゃないかと思い、体を確かめたが何もされた様子はなかった。
向日葵は動いていなかった。
殺気のような何かを放っただけだった。
「また、気づくか」
とボソッと言った言葉を楓が聞き返すより早く。
「ささ、行くよっ」
向日葵は楓の手を引くと、勢いよく教室を飛び出した。
「ってどっちだっけ? コウイシツって」
二人は教室を出ただけで止まった。
とりあえず、人の流れの方だろうと向き直る。記憶でも、コウイシツは同じ方角にあった。
向日葵の柔らかい手を引いて、楓は黙って歩き出した。
「楽しみだね」
「そうだね」
表面上、何事もないように装う楓だったが、避けられない現実からくる焦燥で粒の汗が滴る気分だった。
実際、人から見えない部分の背中には冷たい汗が滝のように流れていた。
口が半開きにならないように努めて、顔には笑顔を乗っけていたが、脳内にはどうしようの五文字しかなかった。
前日の風呂のように、意識が飛ぶことを祈ったが、今回に限ってそんなこともなく、コウイシツもとい、更衣室の前にあっけなくたどり着いてしまった。
たどり着いても決意の固まらない楓はささっとドアを開けてささっと入った。
そして、できるだけ目立たないように、部屋の隅へと素早く移動。その際できる限り周りを見ないように気をつけていた。
周りは恥じる様子もなく、人によっては楓が求めていたはずのキャッキャウフフのようなちょっかいの掛け合いをしたり、日常会話をしたりと各々片手間で着替えていた。
「ねぇ、なにこそこそしてるの」
向日葵は最もな疑問を口にした。
女子なのに女子の裸を見て恥ずかしがるのはおかしいというのだ。
確かに、男時代、男の裸を見るのは恥ずかしくなかった。
逆は恥ずかしかったが。
しかし、精神的には楓は覗きで犯罪者の気分だった。
罪悪感で内側から引き裂かれそうなほど、居ても立っても居られない精神状態だった。
胸の内ではわくわくより、ゾワゾワ虫がうごめいているようで楓は落ち着かなかった。
「そうしてる方が恥ずかしくない? 目立ってるよ?」
楓は一瞬だけ向日葵の方を見ると、さも当然かのように堂々としていることを確認した。
すぐに目をそらしたのは、すでに下着姿だったからだ。
だが、向日葵が堂々としてるのは当たり前だ。女子更衣室に女子がいるのは当然のことだからだ。
そして、向日葵の指摘通り、こそこそした態度は通るたびに、逆に衆人の視線を掻っ攫っていた。
「いや、目立ってるのは向日葵だよ」
「あそっか、私転校生だもんね」
あはは、と二人して笑った。
が、楓はそこではないと、思った。
向日葵は更衣室に入るなり、制服をさっさと脱いで、下着姿で真ん中を通っていたのだ。
男子の時にやっていても、え? と思いつい見てしまうだろう。
向日葵の少し変わった態度で、戻ってきた余裕を使い、楓は意外と短い体育の準備時間にそそくさと取り組もうと思った。
しかし、そこで手が止まってしまう。
どうすればいいか、どこから手をかければいいのか、男だった楓には意識の上ではわからなかった。
他の女子たちは迷うことなく手をかけると、男子の楓にみせることはないだろうあられもない姿を晒している者もいた
楓も現状をわかっていた。今は女子なのだから開き直ってもいいだろうことを。
しかし、開き直らなかった。
朝ダラダラしていたら学校に遅刻するように、着替えにダラダラしていたら授業に遅刻することを知っていたからだ。
ええいままよ。と動きは自動操縦だが、意識のあるまま着替えを始めた。
すぐに、ヒヤッとした感覚が胸に触れた。
それは、着ていなかった布が肌に当たる感覚とは違った。
気づくと楓は大きく飛びのいていた。
飛びのいたはいいものの、気が動転していて周りが見えていなかった。
ガコッと大きな音を立てて棚に背中をぶつけた。
「いたー」
「ご、ごめん。そんなつもりじゃ」
向日葵は手を突き出していた手を握った。
周りは驚いたように見ていたが、やがて自分のことへと戻っていった。
楓の胸には確かに触れた。何かが触れた。向日葵の行動を照らして見れば、触れられていた。
急なことに、驚きで固まってしまった楓だったが、記憶の中では逆に楓がする側だった。
男がやったらセクハラでも、仲のいい女子同士なら、ただのスキンシップか。
「嫌だった?」
楓が落ち着いたタイミングで、向日葵は上目遣いで声を絞り出した。
話しかけられたことに気づくと、楓はできるだけ間を置かずに口を開いた。
「急だったから、驚いちゃって」
「驚かそうと思って」
照れ笑いを浮かべる向日葵に、楓もまた笑みを浮かべた。
「嫌じゃなかったよ」
最初は何が起きたのかわからなかったものの、これがキャッキャウフフだろうかと考える余裕が楓には戻ってきていた。
何度かスキンシップを繰り返していた二人だったが、いつの間にか更衣室に人が減っていることに気づく、
「やばいよ。遅れるよ」
気づくやいなや、楓はそこから恥を捨て、渋々ながら急いで、男なら絶対に着なかったスクール水着へと着替えを済ますとプールへ向かった。
叱られない程度に早足で。
動くたびに、海パンとは違う感覚を肌から感じた楓だった。
特に海パンでもあったピチピチした感覚が、今までとは違った部位から返ってきて、何もつけていなかった時より恥ずかしく、また、暑さも相まって楓の体は火照っていた。
それでも、見学にしようなどとは微塵も思っていなかった。
ワンチャン何かあればいいと考えていたのではない。
そもそもプールを考えていなかったのだ。
移動が済んでしまうと、焦って着替えたものの、楓たちが思っていたよりも暇になっていた。
暇と言っても、たかだが数分の時間だ。
何かできるわけもない。
しかし、逆に何もできずに待つだけの数分は永遠のように長く、また退屈だった。
夏の日差しが肌を突き刺していたことも気分の憂鬱さに拍車をかけていた。
早くに更衣室に来ていた子は、日焼け止めのようなものを塗っていた。どうやら、日焼け止めもOKらしい。
さすがの楓でも、夏の日差しは乙女の大敵というフレーズは何度も聞いたことがあった。
だが、日に焼けるのが嫌なのは女子になったからではなかった。
楓は男の時から日差しは嫌いで、日焼けした後のヒリヒリする感覚が不快でしかたなかった。
それでも、日焼け止めを買うお金がなく、気恥ずかしさから親に頼む勇気もなかったため、暑くても着られる時は長袖長ズボンだったほどだ。
それでも、プールの授業のように、仕方なく日焼けした日には、諦めて痛みを我慢していた。
しまった。持ち物に日焼け止めがないか確認しとくんだった。と思ったが後の祭りだ。
暑さからも、日焼けからも、暇からも逃れられなかった楓は、現実逃避として、何故こうも水着はピチピチなのかと考えた。
周りもみんな同じ格好だ。
素材のせいかと考えた。それもあるだろうが、そもそもの問題に思い至った。
ダボダボでは男女問わず、水泳水着の役割を果たせないのだ。
ダボダボで泳いでいるうちに流されてしまっては困る。ピチピチの方が、邪魔にならず、泳ぎやすいのだろう。
わざわざ、浮き輪のような水着を着ては、遭難した時は役に立つかもしれないが、泳ぐ練習どころではない。
楓は現実逃避から、必死に今の見た目を必死に正当化しようとしていた。
まだか、まだかと思っていると、今度は向日葵の対処に困りだした。
「えい、えい」
と楽しそうに笑いながら、横腹の辺りを等間隔で突いてくるのだ。
くすぐったいったらありゃしない。
暇なのはわかるが、どう返したらいいのかわからなくなっていた。
しかし、先程護身術のことで注意した際にしょぼくれてしまったことや、大きく飛びのいた時の不安そうな顔が尾を引いていた。
そのため、どう注意したものかと考えていた。
楓の顔には、くすぐったさからくる笑顔と、状況への対処に苦慮する困った顔を足したものがくっついていた。
少しして、指の動きが止まった。
「嫌なら言ってもいいんだよ」
もう飽きたのか、向日葵も困った様子で楓に言った。
「嫌じゃないよ。ただ、どう反応したらいいのかわからないくて」
楓の正直な感想だった。
女子の見た目をした、女子じゃない自分が女子と戯れていいものかと悩み出していたところだった。
想像の中では楽しかったことだ。思わず笑みが漏れたほどだ。
しかし、実際にやってみると、どこか申し訳なさが込み上げてきたのだった。
紛い物の自分がこんなことをしていていいのだろうかという思考が邪魔をして、純粋に楽しめなくなっていた。
「それが嫌ってことじゃないの? 楽しいなら一緒になってやるものじゃない?」
楓は向日葵の意見も、もっともだと思った。
事実周りでは、それこそ、つつき合ったり、笑い合ったり、二人で同じようにしていて片方だけがということはなかった。
確かに、中身のない会話も聞いているだけでも、笑うことで会話に入っている人もいた。
その場にいるのに無表情な人がいると楽しくないのかな。と不安になる。
向日葵の言うように、皆一緒になってやっている。
きっとテンションが合わないで、一方的な時、人はいじめというのだろう。
だが、元々楓は、会話にしても他のことにしても、感情が表情に出にくいタイプの人間だった。
今は体が変わり、大きな衝撃を経験したこともあって、感情のブレーキが壊れ気味なせいで、今まで以上に表情が変わっているが、それでやっと人並みだった。
記憶の中の今の楓は、もっと大きなリアクションをして、周りを巻き込んで楽しんでいた。
実際、向日葵ばかりかまっているせいか、物欲しそうな視線も感じていた。
それでも、楓は馴染みのないことに対して臆病になっていた。
実のところ失恋のショックを乗り越えられておらず、ここにきて拒絶されることが怖くなっていた。
「いいの?」
恐る恐る尋ねることが、今の楓の精一杯だった。
「もちろん。私を頼ってくれていいよ。授業の時みたいに、口角上げてさ」
ここは頼るような場面じゃないような。と思った楓だが、人差し指で笑ってみせる向日葵を見て、自然と吹き出していた。
そうして決意を固めた楓は、向日葵と同じように、指を突き出した。
「授業を始める」
長いようで短かった準備時間が終わった。
キーンコーンカーンコーンと授業の開始を知らせる鐘の音が聞こえていた。
今までの楓ならここで手を引っ込めたことだろう。
楓はちょんと控えめに突くと、指先からの柔らかな感触を確認して引っ込めた。
向日葵も頼っていいと言っておきながら、楓の行動に驚いたように目を見開くも、優しく楓に笑いかけた。
「ほら、嫌がらないでしょ」
「ふふ。そうね」
教師にバレないように、こそこそと笑い合ってから、二人は準備体操のために広がった。
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