第64話 すごいすごい

「……ったたたたた! 沁みる沁みる沁みる!」

「す、すみません! でもこればかりは我慢してくださいとしか……!」


 脱脂綿で、ちょいちょい、と足首の擦過傷を消毒されると、絶対に沁みるって覚悟を決めていたはずなのに、ついつい声が出る。


「うーわ、マジでったそう~。はっちゃん、今日お風呂やめた方が良いんじゃない?」


 うえぇ、とあたしの傷を見た歓太郎さんが顔を顰めた。


「そりゃああたしもやだけどさぁ、でも、ざばっと洗い流したいのよ! 諸々を! 洗い流したいし、何なら、いま着てる服も、下着含めて丸ごと焼却したい気分!」


 嫌な記憶は消えないけど、少しでも今回の事件に関わった物はこの世から葬ってしまいたい。


「お? マジで? よーし良いよ良いよ。そんじゃ脱ご脱ご! あー良かった、こんなこともあろうかと、ちゃあんと着替え一式準備しておいて」


 どこまで想定してるんだ貴様ァ!


 では早速、と「いただきます」をするかのように、ぱん、と両手を打ち鳴らし、あたしのシャツの裾に手をかけた。


「っダ――――! あたしに触れんなぁっ! こンのわいせつ神主がぁぁぁっ!」

「ぐわぁ! ありがとうございます!」


 消毒されてぐるりとガーゼを巻かれ、後は防水テープを貼るだけ、という状態だった右足で、歓太郎さんの肩の辺りを蹴り飛ばす。だから何に対する礼なんだ。そしてその衝撃でガーゼがひらりと落ちる。防水テープを適当な長さに切っていた慶次郎さんが「ああっ、ガーゼが!」と悲痛な声を上げた。


「はっちゃん、暴れたら駄目です!」

「お前の兄貴のせいだよ!」

「歓太郎! 君ははっちゃんから離れるんだ!」


 あっち行ってて、と何ともソフトな対応である。あたしだったらいますぐ出てけやこのクソが、くらいのことは言ってる。


「なぁんだよぅ。別にはっちゃんは慶次郎のもんじゃないだろう? 良いじゃんよぉ」

「そうだそうだ! ぼく『独占禁止法』ってあるの知ってる!」

「そうですね葉月はみんなで共有すべきかと」

「どう考えてもその方が平和だよなぁ」


 ぶぅぶぅと頬を膨らませる神主姿の二十四歳の隣で、もふもふ達がもふもふとうるさい。ああ、おパさん独占禁止法なんて難しい言葉知ってるのねぇ、すごいすごい、とついつい頭を撫でてしまう。俺だって知ってるのに! と身を乗り出すわいせつ野郎は無視だ。だけど、「私は『墾田永年私財法こんでんえいねんしざいほう』を知ってます!」「おれは『禁中並公家諸法度きんちゅうならびにくげしょはっと』を知ってる!」と長ったらしい歴史用語自慢をし始めた残りのもふもふ達は、君達もすごいねぇ、と惜しみなく撫でてやった。よくよく考えたらそこまですごいことではないんだけど、この姿だとつい甘やかしてしまうのだ。


 すると、再びガーゼを巻き巻きしていた慶次郎さんが、あたしの足元で何やらぶつぶつ言っているのに気が付く。


「……グーリンダイグーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命ちょうきゅうめい長助ちょうすけ

「ううん? どうした、慶次郎さん。ホンワカパッパの亜種か?」

「ホンワカパッパじゃないです。寿限無です。僕は寿限無を全部言えます。ど、どうでしょうか」

「おあ?」

「あの、伊邪那岐命いざなぎのみこと伊邪那美命いざなみのみことも、邇邇芸命ににぎのみことも漢字で書けます」

「おお、すごいねぇ、慶次郎さん。さすがは陰陽師! ……陰陽師関係ある?」

「ある……かもしれません。それで、その」

「うん」

「僕のことは撫でてはくれませんか」


 ぺこり、と軽く頭を下げたのは、お願いします、という意味だろう。何だこの二十三歳、可愛いじゃねぇか! 長帽子(立烏帽子というらしい)を脱いでしばらく経ってもまだ少しぺったんこの髪にそっと触れてみると、思った以上の柔らかさ、滑らかさである。


 あれ、あたし負けてない……?


 ちくしょう、何か腹立つ! と大型犬にでもするみたいにわっしゃわっしゃと撫で回してやると、「おわわ、わわわ」とかなり驚いた様子である。


「ねぇ俺には?! 酷い! はっちゃんは俺に冷たい! あぁ、でもこれはある意味特別、ってやつ? あーもう、ほんと素直じゃなーいっ。でもそういうところが可愛いんだよなぁ。良いよ、もっと蔑んだ目で俺を見て良いよぉっ!」


 ビシッと親指で己を指差し、何やらとんでもないことを口走っている黙っていれば中性的なイケメン神主は、ちらりと一瞥だけして後は無視だ。けれど、そのチラ見ですら「ああん、その目! ご馳走様です!」なのだから、もうどうしようもない。こんな兄貴を持って、慶次郎さんはさぞかし苦労したに違いない。


 いや、この兄貴に何だかんだ救われてきたのだ、この人は。


 耳まで真っ赤にして、あたしの足首に防水テープを貼る慶次郎さんを見る。ちょっと前まで、アキレス腱に絆創膏を貼ることさえ出来なかったわけだから、大した進歩だ。ただ、驚くべきことに、彼はあたしの足首には一切触れていないのである。細心の注意を払って、ギリギリのところで触れないようにしているのだ。逆に器用過ぎないかお前。何だ、脚フェチか? 拗らせ過ぎたか?


「そういや慶次郎」


 さすがにもうっついから脱いで良い? などと恐ろしいことを言いながら、襟を僅かに寛げて、ぱたぱたと風を送っている歓太郎さんが、思い出したように言った。


「何だい」

「俺、結局最後どうなったのか聞いてないんだけどさ。落着したとしか。何がどうなったわけ? 本当に大丈夫なのか? お前は昔から肝心なところで詰めが甘いから」

「大丈夫だよ。ああこら歓太郎、はっちゃんの前だぞ。そんなだらしない恰好をするんじゃない。暑いなら着替えて来れば良いじゃないか」

「ここで脱いで良いなら着替えるけど」

「良いわけがないだろう」

「だぁって、はっちゃんと二人になったら、お前何しでかすかわかんないじゃん。こぉーのむっつり助平が」

「何しでかすって……。足の次は手をやって、終わったら薬箱これを片付けるよ」

「うん、まぁ、そうなんだけどさ。まぁ、そうだな。慶次郎だもんな。おい、お前達、念のためしっかり目を光らせておけよ」


 三匹のもふもふ達にそう言って、歓太郎さんは勝手口から出て行った。が、すぐにドアは再び開かれ、彼の首だけがひょこりと顔を出す。


「五分で戻る」


 そう言い残し、それは再び閉じられた。


 もふもふ達は、「心配性だなぁ、歓太郎は」「そんないちいち釘を刺さずともねぇ」「言われなくとも、葉月のことはおれ達がちゃんと守るってなぁ」などと言いながら、座敷をもふもふと転がっている。眼福過ぎるわ。何この毛玉達。


「ああ、でも確かにさ、あたしもちょっと気になってたんだよね」


 もふもふ達に視線を固定したままそう言うと、「何がですか?」という声が返って来る。足首のテープを貼り終え、「次は手です」という言葉も添えられて、あたしは右手を差し出した。


「部長。何かすごい悲鳴上げてたじゃん。あれ、何したの。それと、ああいう犯罪って、再犯が多いイメージなんだけど、本当に大丈夫なの?」


 ああいう犯罪、というのは、まぁいわゆる性犯罪というやつである。一度それで捕まった人が、刑期を終えてからも――何なら出所したその足でまた同様の犯罪で逮捕された、なんていうニュースは胸糞悪いが良く聞くやつだ。


 昔から、喉元過ぎれば熱さを忘れる、なんて言葉もある通り、その時は懲りたように見えても、時間が経てばちゃっかり悪い心が顔を出したりするものである。

 

 消毒液を染みこませた脱脂綿をピンセットで摘まんでいた慶次郎さんは、あたしの言葉に「大丈夫です」と力強く返す。


 そして、


「僕は陰陽師ですよ」


 と笑った。

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