第11話です 自分から私へ

『自分はもうすぐ死ぬ。猫が自分の死期を悟るというように、自分にはそれがわかる。最近は特に自分は長くない、と。自分の体なのに、自分の体ではないような乖離かいり感。


 手に上手く力が入らず筆圧が弱い。別人の体に自分が入り込んでしまったかのよう。そうは言っても自分は魂など信じていない人間だから、そんな比喩は自分らしくないか。


 なら自分らしく言うなら、運動野の反応が遅くなったと言うべきだろう。通常なら意思より先に無意識が体を動かしてしかるべきだが、意思が無意識を追い越してしまっている状況。


 性能の悪いロボットに乗り込んで、ロボットが操作について来られないと言えばわかりやすいだろうか。自分は幼い頃からベッドの上で過ごす時間の方が長く、それを不憫に思ったのか、母が沢山の本を自分に与えてくれた。


 始めのころはそれほど本が好きではなく、読みたいと思わなかったが、わざわざ本を買ってくれた母に悪いと思い、渋々読み始めた。


 数冊、数十冊読むうちに習慣化してしまい、気が付いた時には自主的に読むようになっていた。本を読む意味など別にない。


 ただ暇だから読み、自分では絶対になることのできない何かに、自己投影したいから読んでいるだけだった。自分の世界はとても狭いが、想像の中の世界は無限だった。


 この不自由な体を飛び出して、想像の世界では自由になれる。当時の自分と同じ同年代の子供たちは、自転車に乗ることで世界が広がるのだろうが、自分は本を読むことで世界が広がった。


 窓から春、夏、秋、冬、移り行く季節を眺めながら本を読んだ。知識だけはあったが、経験はなかった。幼い頃から心臓と呼吸器に障害を抱えていて、激しい運動をすることができなかった。


 学校に行けても午前中に帰ることの方が多く、調子がいいときでも保健室にいる時間の方が長かった。体育の時間や運動会も不参加だった。


 そんな暮らしをしていれば、クラスメイトたちと話が合うはずもなく、一人でいる時間の方が長かった。


 学校を休んだ日でも、両親が勉強を教えてくれたので皆から遅れることはなかった。中学に上がったが、体力が付くどころかますます悪くなる一方だった。


 呼吸困難を起こせば、人工呼吸器を付けなければならないほどに成り下がっている。病院に入退院を繰り返し、病院と家との往復が生活のすべてだった。


 同年代の子供と比べれば、何と無味乾燥な生活だろう。だからなのか、経験できなかった人生を物語の世界に求めた。いわゆる現実逃避。


 こちらの世界が自分の現実か、本の世界が自分にとっての現実なのか境界線があやふやになっていた。胡蝶の夢という例えが一番近い。自分は何のために生まれてきたのだろう、とよく考えるようになった。


 理屈では人間、ただ生きて死ぬだけだとわかっているが、この世に生を受けたからには、何か偉大なことを成し遂げなければならないと、強迫観念のようなものに苛まれる。


 それが世間の常識だからなのか、それとも人間の本能がそう想わせるのかはわからない。理想の自分と現実の自分を比べると、苦しくなった。


 だが、こんな自分では、何も成し遂げることなどできない。体が弱いことを言い訳にしているだけだとわかっているのだ。


 わかっている……自分が一番わかっている。本で蓄えた知識だけは持っていても、身をもって得た経験がなく、行動するのが怖いだけだ。


 こんな体で何ができるというのだろう。何もできないなら、行動しない方がましだと自分の中の自分が囁いている。


 他者と自分を比べれば苦しくなった。自分以外の皆が輝いて見えた。考えないようにするが、頭の片隅に頑固な脂汚れのように凝り固まって拭い去ることは不可能。


 脳は粘土のようなものだと以前本で読んだ。可塑性かそせいで一度形を変えてしまえば戻ることはない。トラウマなどで例えるとわかりやすいだろう。


 トラウマと言う足に踏まれた、粘土に付いてしまった足跡は元に戻らない。トラウマを克服するには良きにしろ悪しきにしろ、新たな足跡を刻まなければならない。


 辛い記憶を楽しい記憶で打ち消すように、行動しなければ何も変わらない。自分にできることを考えた。こんな自分にでもできることを考えた。


 自分には何ができるだろう。人生経験もない。肉体資本も皆無。自分にあるのは生きるのに役に立たない知識と、想像力だけだった。


 必然的に絞られた。自分にできることは物語を書くことだった。病院のベッドの上で、書いて書いて書いた。命を削るかのように、死にたくないから書いた。


 枯れるまで。行き詰まれば、また読む。そのころから、書く練習を兼ねて本の余白に書き込みをするようになった。一日中読んで書いて、読んで書いて。


 自分にはそれしかなかった。自分の余りある情熱を注ぐ対象は書くことしかなかった。書いては消して書いては消して、消しては書いて消しては書いて。


 焦っていた。自分には残りわずかな時間しかないと悟ったのはその頃だった。自分には残りわずかな蝋燭しか残されていないのだと。


 死神の落語のように、蝋燭の火を移す機会が与えられたなら、自分は挑戦しただろう。作品が完成するまでの時間を……。自分が生きた証を一つでも残せるのに……。


 神と呼ばれる存在など信じたことなどなかったが、無意識のうちに自分は神に救いを求めていた。人間は弱い。


 だから意思のよりどころを求めるのだとわかった。神など信じていなくとも、虚無をよりどころにすることで、意思の救済を求めた。


 後少し……あと少しだけお願いだ……。これを書き上げることに、自分の生まれた意味を見出した……。あと少し……あと少し……』








「それを最期に文は終わってしまいました」


 私は一年前に知ったことの真相をふーちゃんにすべて語り伝えました。

 重々しくなった空気を払拭しようとしたのか、ふーちゃんはいつも以上に明るい声でおどけてみせました。


「まだ本当かどうかわからんやん。驚かしてやろう思うて嘘書いたかもしれんよ」


「嘘なら、それに越したことないのですが」


「本当の話ですよ」


 声が聞こえました。

 空耳かと思いましたが、その声は余りに輪郭がはっきりしていて、空耳ではないとわかります。


 声の出所を見回すと、さっきカウンター席に座った女性客が私たちの話しに割り込んできたのだとわかりました。


「話に割り込んでしまって、ごめんなさい」


 椅子ごと振り返った女性に見覚えがありました。

 いえ、毎日と言っていいほど見ている女性の顔だったのです。

 遅刻した日などによく注意してくれる女性だったのです。

 

「先生……」


 私たちの通う学校の先生をしている方でした――。

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