第7話 神無月(二)
(1)
三味線の音と、朗々とした歌声が貸座敷を満たしていく。
久方ぶりに新調した詰襟のシャツにネクタイ、薄茶のベストにスラックスを纏い、髪を整えた涼次郎は盃を舐め、どうして自分はこんな場所にいるのだろう、と物思いに耽る。隣席では、若いがやけに羽振りと恰幅の良い男が熱弁を振るい、流瑠に酌をさせていた。
「これからどんどん寒さも増していく。そやけど金魚は案外生命力が強い。儂なら屋外の池や鉢の金魚は真冬でもそのまま、春まで冬眠状態にさせるなぁ」
「そうどすなぁ。ただ、体力のあらへん子は冬を越せへんで死んでまう。僕の場合、丈夫な子はそのままにするけど、特に身体の小さい子細い子なんかは冬の間は室内に置いて、春になったら池や鉢に戻すことにしてます」
「涼次郎はんは過保護やなぁ。死んでもうたらそんときはそんとき。悲しいし寂しゅうはあるけど、春に繁殖期始まれば、新しゅう稚魚生まれるんやし」
誰が過保護だと??お前が薄情なだけだろ。
突っかかりたくなるのを堪え、代わりに薄く微笑み、盃を傾ける。
『同じ金魚愛好家として語らいたい』という申し出を受け、(無理やり)設けられた一席だが、帰りたくて帰りたくて堪らない。
音楽や女たちの話し声が会話の邪魔になるし、金魚に対する価値観が自分とはずれている。
同好の士だからと言って必ずしも馬が合う訳じゃない。同好の士だからこそ価値観の違いが許せず、溝が生じる場合もある。
「そうや!流瑠伝手にもろた稚魚、儂の下で元気に育ってきてますで。もう少し成長したら、新種開発用に一部を大和郡山の実家に送ろかと」
疲れる。おまけに舐める程度の量でも酒を飲めば身体が温まる。
おまけにこの時期、身体が温まってくると咳が出やすくなる。
軽く済む咳なら問題ないが、立て続けに咳き込んだり、ましてや発作が起きたら客人の不興を買いかねない。流瑠に迷惑をかけてしまうし、後日兄に何を言われるか分かったもんじゃない。
適当に話を切り上げてさっさと帰ってしまいたい。
ただでさえ、庭の金魚が死に続けて気分が参ってるというのに。
「旦那はん。いつにのう楽しそうねぇ。そやけど、うち、置いてけぼりやさかい。ちょっぴり寂しいわぁ」
暗に『そろそろふたりきりになりたい』と匂わせ、甘えた声音で流瑠が客に色目を送る。
不調を察してくれたのだろうか。客はというと、涼次郎から流瑠へ向き直り、赤ら顔で鼻の下を伸ばしていた。ついさっきまでのしたり顔と大違いだ、と呆れていると、宴席はお開きの方向へ進んでいく。この後、二人は隠し座敷へしけこみ、涼次郎は曙屋へ帰る。
「涼次郎はん」
嫌々ながら、顔には決して出さず客を振り返る。
「君にもろた稚魚使うて新種開発するときが来たら、ぜひお手伝いおたのもうしますなぁ。あの模様はきっと好事家に受けるから金になる」
「まぁ、涼次郎はんたらよかったちゃう!」
よかった??何に対して??
あぁ、タダ飯食らいの役立たずじゃなくなるかもしれないから??
否、違う。かつての夢に近い仕事に就けそうだから??
夜道をひとり歩くすがら、本来喜ぶべき話を素直に喜べずにいた。
商売に関わることだ。金が第一にくるのは当たり前。
だが、せめて愛好家を名乗るなら、金魚を物扱いする発言はして欲しくなかったし、可愛がってもらえる前提で譲ったつもりだった。
悶々とした想いを抱えていたせいか、涼次郎の足は曙屋ではなく鴨川沿いを勝手に歩き始めていた。
鴨川はあの辻君と逢ったときよりもずっと宵闇は濃く、夜風はゾッと冷たい。風に流れる柳の揺れ方も一段と気味悪さを感じさせ、不思議なほどに人の気配も感じない。
夏が終わり、晩秋ともなればこんなものか。鴨川に跋扈する魔性が己のみを引き寄せ、他を退けているのか。
ぶるり、背筋に怖気が走る。が、なぜだか引き返す気には一切ならない。
記憶を辿り、前回舟が停まっていた辺りを土手からきょろきょろと見回す。一段と闇が深くなった気がする。すぐには見つからないかもしれない。
まだるっこしくなり、土手から河原へ降りていく
どこだ。どこだ。どこにある?!
必死な自分が滑稽すぎる。あんな得体のしれない辻君一人のために。
「あらぁ、こんばんはぁ」
暗闇の中、血眼で舟を探す背に聞き覚えのある声。肩と同時に心臓も跳ね上がった。驚き以上に胸が激しく高鳴り、涼次郎はぎこちなく振り向く。
「き、今日は金を、持ってる。ま、前の分も併せて間に合うだけはある、はず……」
意味もなくどもるなんて恥ずかしい。馬鹿みたいだ。少なくとも自分がこの女の立場なら馬鹿にする。
なのに女は涼次郎を馬鹿になど、内心はどうだか知らないが──、馬鹿にした態度はまったくおくびに出さず、穏やかに、親しみを込めて微笑む。
「まぁ。そんなん、別にかまわへんかったのに。うち、あんたさんからはお代いただかへん決めてますねん」
「でも、そういうわけには」
「ええんどす。あんたさんはただ、うちと愉しんでくれたらええの」
女の笑みがゆるやかに深まっていく。優しげなのに有無を言わさぬ強さをも感じさせる。
下賤と蔑まれる辻君とは思えぬ凛とした美しさ、自信はどこから来るのだろう。
辻君の腹をちらと盗み見る。やはり以前と同じ、丸々と膨らんでいた。
「なんにもややこしいこと考えへんで早うついてきとぉくれやす」
品のある動きで手招きする女に、前回の夜同様涼次郎は後をついていった。
(2)
明けて翌日。
曙屋に戻ったのは前回の夜同様深夜だった。にも拘わらず、涼次郎の遅すぎる帰宅は誰にも気づかれなかった。
だらだらと布団に寝転がり、昨夜のことを反芻する。
漆黒の空を背景に揺れる小舟の上、絡み合い、着崩れた着物から垣間見える女の膨らんだ腹を撫でれば息が漏れる。
『……ちゃうんか』
『え??』
『腹の子の父でもない男が触っても』
『いややわぁ、野暮なこと訊かんといて。いっこも気にしてなんかあらへんのに』
女は起き上がりざま腹を潰さないよう、慎重に覆いかぶさっていた涼次郎を押し倒し、その痩せた身体にまたがった。
『この子たちは誰の子でもあらしまへん。うちだけの子たちどす』
まただ。
非常に気になったが、問い返すもなく女は動き出す。たちまち思考できなくなり、疑問は徐々に意識の外側へ散らされていく。
女の動きはまるで金魚の泳ぎのように優雅だ。責め立てる度、くねる白く長い手足は水中で揺蕩う尾鰭、背鰭に似ている。膨らんだ腹もまるくふくよかな胴体のよう。
あまり刺激して腹の子に障っては、と気遣っても女は構わない、好きなように動けばいいと煽る。
『ただひとつだけ、気をつけてほしいんどす』
『なに??』
『中には出さんと腹に出して』
まぁ、腹の子への影響が怖いんだろう。かまわへん、と言いたくとも掠れた息しか出せなくなってきた。
『他の金魚が死んだって何やの』
快楽で朦朧とする意識の最中、耳元で確かに女は囁いた。
なぜ、そのことを──、涼次郎は金魚の話など彼女に一切していない。が、快楽が勝り、やはり問い返せなかった。
『うちならあんたさんをさみしがらせあらへんし、役にだって立てるわ』
更に意味深に囁かれるも考える間もなく、涼次郎は頂点に達した。
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