第37話 全ての辻褄


 目を閉じた時に瞼の裏に映る真っ暗な闇。そこに映る様々な光りの粒や、光りの線は万華鏡の様に形を変えていき。いつも僕の想像とは違った形を作り出す。


 その事が不思議で僕は目を閉じる事が好きだった。閉じた瞼の裏に光りなんて何処からも入りはしないのに、いつも見えるこの映像を感嘆と見ていた。


 静かな中で目を閉じれば、音はより存在を強めて外を走る車の音や。風が窓を叩く音。木の葉が擦れ会う音。誰かの足音が楽隊の様にあちらこちらから聴こえて来る。スニーカーのザッ、ザッ、と歩く音。ヒールのカツ、カツ、と歩く音。


 その中のヒールの音が徐々に大きく聴こえて来る。一歩一歩音は大きく成り反響音の間隔は短くなる徐々に徐々に大きく鳴る。


 瞼の裏の暗闇の光りの線は、その音に合わせて瞬いて大きく光ったり、小さくなったりを繰り返しクリスマスのイルミネーションの様に僕の中で輝き誇った。すると、突然その光りが全部消えてまた真っ暗闇へと切り替わる。



(音が止んだ)



 すると、部屋のドアがガチャリと開いて外からの風が吹き込んで来た。僕はその時に目を開いて起き上がった。


 アパートのドアの方を向くと、吹き込む風に黒く長い髪をヒラヒラと游がせながら。背に外の夕陽を映し出し。肩にバッグをぶら下げてキャリーバッグを引いている。


帰ってきたエリが立っていた。



「ただいま。事故の影響と花火の渋滞で遅くなちゃった。」



と、小さい声で呟くようにボソリと喋るとエリはヒールを脱いで部屋に入ると荷物を座卓の横へと置いて。そのまま、冷蔵庫へ行くと缶ビールを取り出し飲み始めた。


 そして座卓の荷物の横へと戻り脚を折り座ると。



「今日、花火大会だね。」



そうボソリとエリが呟いた。僕はエリが帰って来た事が嬉しくて、どんな声を掛けようか散々と悩んだ末に。その言葉に返事をした。


「ああ、今年も二人で今から行こうよ。もう、17:40だしさ。急いで仕度しなよ。」




「一緒に行きたかったな。」





「えっ。だから今から一緒に行こうって。」




「もう居ないって判っているのに。何で一人で話しかけちゃうんだろう。」




「何を言ってんだよ?僕は居るだろ!」




僕は悪ふざけと思い。エリの肩に触れようとした。


 しかし、僕の手はエリの細い肩に触れる事は無く。霞でも掴む様にすり抜けて行った。僕はその時に、瞬時に、自分の身の始めからの異変を思い返し。合点がいってしまった。


 僕はまるでこの世が終わったかの様な表情で。いや終わって居るのだ。もう全てが。僕はそんな表情でエリの方を振り返ると、エリは座卓の上に溢れ返りそうな程の涙をボトボト落しながら歯を食い縛り前を見ていた。彼女の見開いて涙で溢れている瞳には何が映っているのだろうか。少なくとも僕はもう映って居ないのだ。


「マサトぉ。会いたい。あいたいよぉ。私。出張で疲れて頑張ったんだよ。マサトの声で褒められたいよ。」



「エリ...」



「ごめんなさい。私が雨の日に『お豆腐買ってきてよ。』何て言わなきゃ...。お使いなんて頼まなきゃ...。まだ隣で私を励ましてくれたのにね...。マサトぉ...。」


 そうだ。僕は死んだのだ。雨の日の夜にエリから頼まれたお使いに向かい。自転車でアパートの前の坂道を勢いよく下った時に国道前で転倒して。そのまま国道へと投げ出されて大型のトラックに跳ねられて。僕は死んでいたんだ。そう心で呟きながら触れる事の出来ないエリの悲しみを拭いたくて。僕はエリの頬を流れる涙を掬おうとするが、すり抜けていくばかりで。気付けば僕も涙で頬を濡らしていた。



「寂しいよ。寂しいよ。まだ沢山話したかったよ。あなたの創る小説を読みたかった。まだ色んな所に一緒に行きたかった。悲し過ぎて苦しいよ。」



僕は一方的に受け止める事しか出来ない言葉を受け止めて。胸が張り裂けそうになりながらもどうする事も出来ずに流し台へと歩いた。この悲しみが痛くて痛過ぎて。エリの涙が痛くて痛過ぎて。僕は逃げ出したのだ。そして流し台に手を突いて棚を見ると、僕とエリのマグカップが並んで居るのが目に入り。



「そうだ。このマグカップを動かせば。コーヒーでも淹れてあげればエリは僕が居る事に気付いてくれるかも知れない。」



僕は飛び切りの名案を手に入れたと思い呟くと、マグカップに手を伸ばした。



「なんだよ。コレ。」



僕が掴んだ筈のマグカップは、棚にそのまま並んでおり。僕の手にもマグカップが存在している。僕はマグカップを棚に置くと棚のマグカップと一つになった。僕はもう一度、棚のマグカップを掴むが。僕が掴んでいた物はマグカップのたましいの様な物で。物質としてのマグカップでは無かったのだ。



 僕がそんな事をしている間にもエリは泣き出続けていた。



「あなたの書いた小説が平積みにされているのを自慢気に売りたかったよ。」



「辛いよ。キツいよ。苦しいよ。忘れたい。消えてよ。私の頭から、私の心から消えてよ!もう心が壊れそうだよ!」



エリは立ち上り。キャリーバッグを掴むと床に投げてキャリーバッグは開いて中身の荷物が飛び出して床へと散らばった。エリは泣きながら床に散らばった。小物入れや、鏡や、下着や、上着などを次々と手に取っては壁に投げて。次に僕のボディバッグを手に取ると、見詰めて、胸に抱いて、膝から崩れ落ち座って泣いた。



 エリはボディバッグを抱いたまま顔を近付けると。スンスンと鼻を鳴らし



「マサトの匂いが...消えてゆく...」



エリは、また溢れ返る涙を床へと。僕はそんなエリを抱き締めようと何回も何回もすり抜けるエリの身体を抱き締めようとするが。何一つも引っ掛りもせず。触れもせず空を掻き回すだけであった。


 そんなエリの心が埋まる筈も無く。エリは泣きながら僕のボディバッグを抱き締め続け。僕の心は苦しくて、痛くて、逃げたくて。エリが大切な気持ちすら捨てたくなって終う程に辛くて痛くて。泣き続けるエリの横で丸くなり踞った。



「マサトぉ...」



時折に挟むエリの僕の名前を呼ぶ声が、僕の心を滑らかで柔らかく刺だらけのナイフで優しく傷付けている。


「消えてよ。忘れさせてよ。出会わなかった様に。いつまで私はこんなに苦しまなければいけないのよ。」


エリは泣きながら呟く事を止めない。僕は責め立てられている様な気持ちになり。僕の心を守ろうと。丸くなる。



丸くなる。丸くなる。



丸くなる。



丸く...



まる...

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