第20話 傷心の幼馴染を追って田舎へ戻りますが、定住スローライフはお断りします
日が暮れる前に、引っ越し屋はやってきた。
俺が戸口で身動きひとつできずに倒れているというのに、気づきもしない。
箪笥やらなにやら、重い荷物を抱えたまま、耳元を通り過ぎられるのには冷や冷やした。
それでも、顔を踏みつけられることもなく、荷物の積み出しは終わった。
やがて、夏の夕暮れの眩しい西日を半身に浴びた咲耶が、部屋の中へと戻ってきた。
ひとつの身体に、昼と夜の姿を宿して。
俺を抱き起すと、囁いた。
「……女になっちゃったら、もう、こんなこともできないね」
柔らかい口づけが、俺の唇をふさぐ。
ふと気が遠くなって、目が覚めたときにはもう、部屋の中には誰もいなかった。
いや、戸口に誰かいる。
「咲耶……!
よく確かめをせずに駆け寄ると、突き出されたホウキの先で鳩尾辺りを思いっきり抉られた。
身体を折りながら見上げると、咲耶とは似ても似つかないオバサンに頭を掴まれる。
「誰? アンタ! 出て行かないと……」
警察を呼ぶとか何とか言われる前に、俺は急いで帰った。
「羅羽!」
義理の妹となった鬼娘の名を呼びながら、俺は支度を始める。
夕食を作っている羅羽に、汗で湿った服を二階の部屋で着替えながら聞いた。
「どういうことだ? 鬼に身体を捧げるっていうのは?」
だだだっと階段を駆け上がってくる足音が聞こえる。
「バカ!」
背中にひと蹴りくらって、ズボンに足をひっかけたまま床に倒れ伏す。
着替え終わると、俺は玄関に直行しようとしたが、夕食の準備を終えた羅羽に捕まってしまった。
「何よ、あんな格好であんなこと聞いて、変態」
俺は羅羽をこれ以上怒らせないだけの最低限の速さで、食事を進めた。
「いやなら答えなくてもいい」
とにかく、実家の神社に急がなくてはならない。
だが、羅羽は俺を引き留めようとでもするかのように、ゆっくりと語りはじめた。
「昔の人間は時折、人身御供を行ってきたでしょ」
咲耶は、そのために身を捧げに行ったというのだろうか。
焦る俺に、羅羽は更に話を続ける。
「鬼の世界では、女性が子どもを産むことが少ないの。だから、手狭になることもないんだけど」
そこで羅羽は、言いにくそうにうつむいた。
「一族が絶えそうになるとき、鬼は子孫を残すために人間の女をさらっていくことがあるわ」
そんな風習と戦ってきたのが、咲耶たちだったというわけだ。
だが、羅羽は苛立たしげな声で、ためらいがちにつぶやく。
「でも、ほとんどは……人間の男の夜這いってやつ」
俺は立ち上がるなり、外へ駆け出そうとする。
当然、羅羽は玄関で俺に追いつくと、首根っこを捕まえた。
「どこ行くの」
答えるのも、もどかしかった。
それが起こるとすれば、今夜だという気がしてならなかった。
退魔師だからといって、こんな思いをしなければならないわけがない。
手を振り払おうとするが、もう、鬼の力で掴まれてはどうにもならない。
咲耶たちは、こんな力と闘っているのだ。
仕方なく、答えることにする。
「田舎へ戻る」
帰るとは、絶対に言わない。
母さんが鬼の世界へ消えた後、婿養子の縁が切れた親父は、俺を連れて家を出たのだ。
俺は祖父さん祖母さんにとっては孫にあたるが、お互い、もういないのと同じだった。
だから、もう、帰るところはない。
だが、どっちにせよ、羅羽が言うことは決まっている。
「じゃあ、私も」
「お前は来るな」
間髪入れず、俺は突っぱねた。
振り向かなくても、羅羽が口を尖らせているのは分かった。
「なんで」
言いたくはなかったが、言うしかなかった。
胸の痛みをこらえて、はっきりと言った。
「もう、たくさんだ。鬼だとか、退魔だとか」
それは、俺の本音だった。
羅羽が嫌いなわけじゃない。
だが、誰から生まれ、どこで育ったかということで、人が傷つくのはもう、見たくなかったのだ。
俺の首筋に掛かっていた力が、すっと抜けた。
「……分かった」
羅羽のつぶやきを背にして、俺は家を出る。
ふと思いついて、折り鶴のような形をしたストラップをスマホから外して投げてみる。
だが、何も起こらなかった。
最終便に近いバスに飛び乗って、夜道を揺られていく。
ほとんど誰も載っていない車内に、咲耶の姿はなかった。
窓の外は暗くて、昔と何が変わったのか分かりはしない。
記憶をさかのぼることができたのは、バス停を降りたときだった。
昔ぽつりぽつりと街灯が見えるだけの、昔のままの暗い道を親父の実家へと歩く。
厳めしい玄関の呼び鈴を押すと、すっかり老いさらばえた婆さんが出てきた。
俺の顔を見るなり口にしたのは、親父の名前だった。
「
間違えられただけでも反吐が出そうだったのだが、そこは敢えて下手に出る。
「克衛です。ご無沙汰してます。夜分遅くすみません……知りたいことがありまして」
婆さんは、返事もしないで俺を睨みつけている。
無駄だと思いながらも、用件を告げた。
「……母さんは、あの神社に行ったんですか?」
婆さんの返事は短かったが、それで充分だった。
「帰れ」
首を傾げもしなければ、真っ向から反論もしない。
その返事は、娘を鬼……いや、夜這いの男に差しだしたと言っているのと同じだった。
聞くだけのことは聞いたので、すぐにでも神社に向かうつもりだったのだが、そこで気になったことがあった。
見覚えのない男が、婆さんのずっと後ろから俺の様子をうかがっている。
「その人は?」
最後にひと言だけ聞いてみると、婆さんは皮肉たっぷりに笑ってみせた。
「養子に取ったのさ。農業がしたいっていう変わり者でね」
最近よく聞く、田舎暮らしにあこがれて移住してくる人たちのひとりだろう。
これで、俺とこの家との縁は切れたことになる。
実家だったところを後にして、俺はまだ胸の底にこびりついている寂しさを吐き出すようにつぶやいた。
「俺はもう、用済みってことか」
だが、そこで、羅羽が囁く声がどこからか聞こえた。
「あいつ……危ない」
慌てて振り向いたが、そこには街灯が遠くにぽつぽつと灯る、暗い田舎道があるだけだった。
木々の鬱蒼と生い茂る境内を抜けると、裸電球にぼんやりと照らされた古い拝殿がある。
その扉を開けて、中に入ってみた。
「咲耶……?」
返事はない。
俺は座り込んで、、そのまま咲耶を待つことにした。
やがて、扉の開く音がして、裸電球の鈍い灯が俺の足元まで流れ込んでくる。
だが、現れたのは咲耶ではなかった。いや、女ですらなかった。
「克衛……ワシだ。教えておきたいことがある」
懐中電灯を手に現れたのは、俺の祖父さんだった。
「凪の話をしたからもしかしたらと思ったが、やっぱりここか」
俺の前に座り込むと、低い声で囁く。
「もともと、この土地には、縁遠い娘が、ここで一晩を明かす習慣がある。そして、やはり縁遠い男が、望みをつなぐのがここだった」
それは、外の世界と隔絶された田舎の、悲しい習慣だったのだろう。
祖父さんは、寂しげな、それでいてほっとしたような声で、話を締めくくった。
「ここ17年近く、そんなこともなくなったがな」
たぶん、最後は俺の母さんだ。
そこで祖父さんは、俺の前に手をついた。
「ひとり娘だからといって、手元に置いておく時代では、もうなかった。克衛……帰ってきてくれんか」
親父の代わりがいるのだから、俺を引き戻すことなどないはずだ。
「だって、あの人が」
だが、祖父さんは苛立たしげに答えた。
「スローライフがどうとか、危なっかしくて信じられん。おかしな時代になった。この神社だって」
そこで突き出したのは、祖父さんには似つかわしくないスマホだった。
闇の中で明々と浮かび上がったのは、この神社に関するSNSの情報だった。
伝説の、ヤリ放題神社。運が良ければ地元の女の子と……。
その後には、見るに堪えない映像と卑猥な言葉が並んでいる。
後に続くのは、体験談と称するウソ臭い猥談と、それをガセだと罵る投稿の繰り返しだった。
だからこそ、今、しなくてはならないことがある。
「俺は、帰れない」
済まないとは思いながらも、きっぱりと言い切るしかなかった。
立ち上がった祖父さんは去り際に、寂しげな、しかし、落ち着いた声で答えた。
「そうだろうな……もう帰れ。向こうへ行くバスは、あと1本だけ来る」
「じゃあ、それで」
そう答えはしたが、もちろん、そんな気はなかった。
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