第18話 繰り返される夏の夕暮れに、退魔師の幼馴染は俺に寂しい笑いを見せます

 まだ、呆然と佇んでいる羅羽。

 何をどうやったのか、身のひと振りで素肌を元通りの服の下に隠した咲耶。

 夏の夜闇の中に、ふたりの少女の姿が溶け込んでいく。

 代わりに聞こえてきたのは、遠ざかっていく喚き声だ。

「だから知らねえって!」

「何も持ってないってば、クスリなんか!」

「気が付いたら倒れてたんだよ!」

 たぶん、昨日のヤンキーどもの声だ。

 話は署で聞くから、となだめているのは警官たちだろう。

 何が起こったのかは、羅羽の声が教えてくれた。

「結界の中の戦いだったの……鬼が、放った大口真神を通して作った」

 独り言に近いつぶやきだったが、何となく、ほっとした。

 少なくとも、正気を取り戻してくれてはいる。

 負けじとばかりに、咲耶が語りはじめる。

「鬼どもが取りついてたんだよ、あいつらに。操ってたのさ」

 それは、羅羽にはつらい言葉だったろう。

 俺は話をそらそうとして、聞いてみる。

「何のために?」

 咲耶は、あまり考えもしないで答えた。

「さあ……出てこられない事情があったんだろうね」 

 微かな足音が歩み去るのが聞こえた。

 羅羽だ。

 何気なく咲耶が言ったことでも、敢えて人間の世界に生きる鬼にとってはこたえただろう。

 俺は、足音を頼りに、羅羽を追った。


 神社からの裏道に出たところで、咲耶が追いついてきた。

「あいつらも、憑いていたものが落ちたら鬼じゃなくなって、結界から閉め出されたってわけ……聞いてる?」

 羅羽の反対側について歩くのは、俺との間に割り込めないからだ。

 触れあってもいないのに、羅羽のつややかな肌が分かる。

 そのくらい、俺たちは寄り添って歩いていた。

 羅羽はどういうつもりか分からない。

 だが、俺はなぜか、離れられないものを感じていた。

 いや、離れてはいけないと思っていた。

 たぶん、俺を鬼の世界へ連れていくと言っていた羅羽は、嘘をついている。

 鬼たちにも、自分にも。

 だから、俺が本当のことを言ってやるしかない。 

「戻りたくないんだろう?」

 鬼を祓う桃の力に苦しめられながら、羅羽は俺に助けを求めることはなかった。

 共に鬼の世界に行こうと言ったのは、そのためだ。

 俺を鵺笛と闘う危険にさらさないためには、そう言うしかなかったのだろう。

 だが、今の羅羽は、こう答える。

「言わなくちゃ、ダメ?」


 俺となら、と告げたときの羅羽の声は真剣だった。

 もしかすると、心の底のどこかには、そんな気持ちがあったのかもしれない。

 だから、俺は聞いてみた。

「俺を連れて鬼の世界に戻ったとしても、大丈夫なのか? 羅羽は」

 そこには、鵺笛たちが待っている。

 羅羽は、微かな声で答えた。

「心配しないで」

 確かに、さっきは掟に背いたことを大目に見ると言ってきた。

 しかも、羅羽にとっては願ってもない条件付きだ。

 俺と交わって、子を成せというのだから。

 だが、それもまた、羅羽を鬼の世界に引き戻すためだ。

 しかも、俺と、羅羽との間の子どもという仲間を増やすことができる。

 つまり、それは鬼たちの都合にすぎない。

「縛られるだけだぞ、お前たちの掟に」

 羅羽は即答する。

「いいの、お兄ちゃんと一緒なら」

 そのひと言の切なさが、胸を締め付ける。

 だが、それはもう一方で、鬼たちの掟の厳しさを意味する。

 俺さえいれば、どんな目に遭わされても構わないというのだ。

 そこには、羅羽の無理が感じられた。

「俺は……お前を連れて行きたくない」

 鬼の世界に行けば、そこにいる母さんに会うこともできるだろう。

 だが、そこではしゃぐ羅羽の姿は、どうしても想像できなかった。

 夏休みが始まってからは、毎日のように目にしてきたのに……。

 そう思うと、羅羽と交わす言葉は途切れてしまった。

 しばしの沈黙の後で、思い出したことがある。

「咲耶……」

 知らん顔をしたわけではないと、言い訳しようかとも思っていた。

 だが、声をかけた辺りには、もう、静かな夜の闇しかなかった。

 


 姿を現したり消したり、自由自在にできる咲耶のことだ。

 そのときは、むくれて勝手に帰ったのかと思った。

 だから、次の日の夕方、ご丁寧に家のポストへ届いた手紙の差出人が、咲耶だったのには驚いた。

 同じ町内だから、朝早く投函すればその日のうちに着くのかもしれない。

 だが、桃の入ったトートバッグを片手にやって来たのだから、用があったら直接、会えばいい。

 居間にあぐらをかいて封を切ると、いつの間にか後ろに立っていた羅羽が上から覗きこんでくる。

「咲耶ちゃんから?」

 妙に優しい声だったが、その分、背中に感じるプレッシャーには凄まじいものがあった。

 首筋の辺りまで、電気でも流されたようにビリビリくる。

 羅羽に見られないように、手紙をさっと斜め読みする、

 だが、それだけでも、俺は居ても立ってもいられなくなった。

 すぐ目の前の、すらりと伸びた脚のそばをすり抜けながら立ち上がる。

「お兄ちゃん?」」

 鬼娘の羅羽でも反応できないような、自分でも信じられないような瞬発力だった。

 じっくり読む必要などなくなった手紙を、しっかりと握りしめたまま家から駆けだす。

 昨日と同じ黄昏の光の中を、俺は全力で走っていった。

 

 もっとも、それほど鍛えているわけでもない。

 咲耶のアパートに着くまでに、俺はすっかり消耗しきっていた。

 錆の浮いた外階段の手すりを掴んで、ようやくの思いで2階の通路へと上がる。

 だが、咲耶の部屋のドアを叩いたところで、何の音も立てることはできなかった。

「咲耶……」 

 身体の奥から絞り出すような声で呼ぶと、内側からチェーンのかかったドアが、わずかに開いた。

「バカ」

 走ってきた俺をねぎらうどころか、投げかけられたのは悪態のひと言だ。

 言い返す力も残っていないところに、腕を引っ張られて、俺は部屋の中に引っ張り込まれた。

「ほら、何もないけど水でも」

 突き出されたコップを空にすると、不思議な味がした。

 清々しく、それでいて、どこかに苦さが感じられる。

「実家の山の中の湧水なんだ。昨日、送ってきたんだ」

 咲耶は微かに笑っていたが、その言葉には、どこか寂しげな響きがあった。

 無地のTシャツに色あせたジーパンは、見るからに辛気臭い。

 それだけに、俺は腹の中に溜め込んでいた勢いを、すっかり削がれてしまった。

「いきなり何だよ」

 手紙をつきつけて、ようやくそれだけ口にする。

 そのとき、俺は部屋の中がすっかり片付いているのに気が付いた。

 というか、何もない。

 部屋の隅にまとめられているのは、引っ越しの荷物だった。


「もう、いいんだ。幸せになってよ、羅羽ちゃんと」

 手紙の内容を要約すると、学校を辞めて田舎に帰るということだった。

 もちろん、俺はすんなり認める気などない。

 いや、それどころか、まだ逆転の機会はあるとさえ思っていた。

 咲耶の目を見据えて、はっきりと告げる。

「こんなんじゃ、俺は幸せになれない」 

 壁には、まだ咲耶の制服がかかっている。

 俺の通う底辺校なんかとは比べ物にならない、進学校の証だ。

 本当は帰る気などないという読みは、当たっていたらしい。

 だいたい、この街を離れる気なら、黙ってここを引き払えばいいのだ。

 急いで手紙を書いてよこしたのは、俺に止めてほしいという意味にほかならない。

 だが、咲耶は言い訳する。

「学校辞めるにも一応、親の了解がいるから」

 咲耶の両親には、会った記憶がない。

 母さんの実家の人たちにも、会うなと言われていた気がする。

 そんな俺の考えを読んだかのように、咲耶は冷たく言い放った。

「克衛は、ボクたちのことを知らない」

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