第5話 鬼から逃げるときには、言わずもがなのお約束があります

 こんなことがあるなんて。

 そういえば昔、田舎にいた頃、こんな姿を見たような気がする。 

 いや、たぶん、それは本物じゃない。

「薪能?」

 神社に奉納されていた、薪能か何かだ。

 その神社は確か。

「咲耶?」

 俺はその能を、神社の近くに住んでいた咲耶と見ていたのだろう、きっと。

 だから、咲耶の話す能狂言の話が分かるのだ、たぶん。

 でも、目の前で俺を見下ろしているのは、能面と衣装を着けた役者じゃない。

 役者というか……。

 俺の考えていることを読み取ったのか、鬼はその答えを告げる。

「ヤクシャ。遠く印度天竺の神」

 日本では? 

 鬼は、微かな、かすれた声で答えた。

「夜叉」

 それが、羅羽が姿を変えたものだとは、認めたくなかった。

 今日、俺の妹になったばかりの可愛らしい女の子が。

 だから、俺は敢えて尋ねた。

「何者だ……お前は」

 答えは、あっさりと返ってきた。

 俺の喉を締め付ける、長い爪の生えた指と共に。

「……鬼」 

 そう、鬼でなかったら、こんなことはできない。

 だが、俺がそんなのに襲われなければならないのには、納得がいかなかった。

「何で、何でこんなことを?」 

 呻き声をたてる喉元が、掴んで持ち上げられる。 

 かすれた声が、悲しみとも怨みともつかない声で答える。

「見たな……女として生まれたからには、決して見られてはならぬものを」

 鬼の指に力がこめられた。

 いつの間にか夜空のてっぺんにうっすらと掛かっていた天の川が、ますますぼんやりとかすんでいく。

 喉を締め付けられて、俺の意識が遠のいているのだ。

「こんな夜だったっけ……」

 鬼が怒りで微かに呻く。

「何をわけのわからぬことを」

 自分でも、言っていることの意味がよく分からない。

 たぶん、咲耶と薪能を見たときの思い出のことだ。

 こんな思い出が蘇るのは、きっと、俺がもうすぐ死ぬからなんだろう。

 その割には、人生の走馬灯ってやつが目の前を駆け巡らない。

「本当に死ぬって、こういうことなんだ」

 そうつぶやくと、鬼は嘲笑した。

「ならば、覚悟せい」

 言われなくても、そのつもりだった。

 だが、俺には困った性分があった。

 腹が決まると、開き直りのせいか、口が滑らかになるのだ。

 鬼になる前に会った、あの羅羽の可愛らしい姿を思い出しながら、俺は口説き文句を並べ立てた。

「そんなこと言うなよ……ずっと暮らしていくんじゃないか、これから俺たち、兄妹二人で!」 

 どうせ死ぬなら、最後にもう一度、賭けに出ようと思ったのだった。

 だが、これは思いがけず効を奏した

 首根っこを掴み上げた手が緩んで、俺はすとんと地面に落ちた。

 鬼は、その場に立ち尽くしたまま、天の川をぼんやりと見上げている。

「今日から、私のお兄ちゃん……ずっと」

 その声は、初めて会った時の、あの羅羽のものだった。

 だが、感傷に浸っている場合ではない。

 俺は跳ね起きると、その一瞬の隙をついて駆け出した。


 かすれ声が怨念に満ちた響きを取り戻すまで、そんなに時間はかからなかった。

「さればなおのこと、許すまじ!」 

 俺は力の限り走ったが、体育会系でも何でもない、帰宅部だったのが災いした。

 家から駆けだしてきたときでさえ、足はガクガク言っていたのだ。

 ましてや、死ぬか生きるかの目に遭わされた後では、筋肉の耐久性など知れている。

 しかも、鬼の足は疲れを知らないようだった。

 長く伸びた鬼の爪の気配は、すぐに背中にまで迫ってきた。

 何やら寒いものが、頭から踵まで駆け抜ける。


 ……もう、ダメだ。

 

 そう思ったとき、疲れと絶望で朦朧と霞んでいく意識の中で、刹那の閃光を放ったものがあった。


 ……克衛。


 咲耶の声だった。

 これが、走馬灯の始まりかもしれないと思った。

 だが、それは、そんなに遠い昔のことでもなかった。



 ……困ったときに、投げて。


 つい、この夕方のことだ。

 はっと目が覚めた俺は、ズボンのポケットの中をまさぐる。

 出てきたのは、藁で編んだ犬の人形だった。

 逃げるのに必死だった俺は、振り向きもしないで、それを後ろ手に投げた。

 何も起こらない。

 咲耶のオカルトに一瞬でも期待した俺がバカだった。

 そう、諦めたときだった。


 ……くおおおおん。

 

 闇の中で、どこからか甲高い鳴き声が聞こえた。 

 犬? いや、もっと高い。

 

 ……くおおおん! ……くおおおん!


 いくつもの鳴き声が、あちこちから響き渡る。

 やがてそれは幾筋ものまばゆい光となって、息も絶え絶えに走る俺とすれ違っていった。

 そして。

 

 ……ぐうわあああおん!

 

 鳴き声はひとつの大きな叫び声に変わる。

 鬼の怒号が、それに応じた。

「小賢しや、これしきの手妻で!」

 ちらりと振り向くと、無数の狐たちが、交錯する光となって飛び交っていた。

 それを、燐光の衣をまとった鬼が苛立たしげに振り払っている。

 狐たちには悪いが、今しか逃げる時はなかった。

 走るのに最後の力を振り絞ろうとした、そのときだった

「この恥、雪がずにはでおくものか!」

 頭の上から叫ぶ声に目を遣る。

 そこで見たものは、長い髪を振り乱して振ってくる鬼だった。

 短く悲鳴を上げるよりほかに、できることはない。

「ひっ……」

 どうにか立ち止まって後ずさる。

 だが、鬼は独楽のようにくるりと回って、俺の頭に横薙ぎの蹴りを放ってきた。

 今度こそ、死んだ。

 そう思ったときだった


 ……諦めないで、克衛。


 どこからか、咲耶の声が聞こえる。

 とっさに背中を丸めると、しなやかな脚が脳天をかすめていった。

 そのまま地面すれすれに身体を屈めて走り抜ける。

 夢中でポケットに手を突っ込んで手に取ったのは、人の形に丸めた布だった。

 鬼が叫ぶ。

「邪魔だてするでない!」

 もう追ってこないので、振り向いてみる。

 そこにはひとりの、兜をかぶった鎧武者が、鬼との間に壁となって立ちはだかっていた。

 低く頼もしい声が、俺を励ます。


 ……お召しにより、お力をお貸し申そう。


 だが、鬼は怯む様子もない。

「片腹痛いわ、傀儡くぐつめが!」

 高笑いするなり薙ぎ払ったのは、長く伸びた鋭い爪だった。

 バラバラに飛び散った鎧の中には、何もない。

 鬼の言う通り、最初からハリボテだったのだ。

 声だけは、頼りがいがありそうに聞こえたのに。

 盾になってくれるものは、もう、何もなかった。

 鬼は、地獄の底から響いてくるような声で、俺への止めを刺しにかかる。

「おのれ死にゃれ!」

 これで本当におしまいだと思ったときだった。

 確かに首筋の痛みは感じたが、血が噴き出るほどの傷はなかった。

 俺の身体が、あの鎧をまとっていたのだ。

 耳元で、兜があの声で囁く。

 

 ……御身が戦わねば、力の貸しようがござらん。


 セルフサービスに、景品がつくというわけだ。

 いいだろう。

 その間にも、鋭い爪が俺の目に向かって突き出されてくる

 俺は再び、腹を括った。

「このまま死んでたまるかよ!」

 思い切って、迫る爪を振り払う。

 自分でも信じられないような力で、鬼は吹き飛んだ。

 凄まじい怒号と共に、宙を舞いながら反撃を仕掛けてくる。

「小癪な!」

 高々と振りかぶった手刀が、逆袈裟に俺の喉元を襲う。

 プロボクサーも顔負けの動体視力でそれを捉えた俺は、紙一重の差でかわした。

 だが、それはフェイントだった。


 ……油断召されるな!


 ひと声だけ残して、兜が吹き飛ぶ。

 剥き出しになった俺の額を、大上段に振りかぶられた、鋭い爪が襲った。

 だが、ひとたび死を覚悟した俺は、恐れもしない。

 腕を頭の上に掲げる。

 鎧の隙間から斬り落とされるかもしれなかったが、他に防御の手段はなかった。

 どこからか、咲耶の声が聞こえる。


 ……ありがとう、どこまでも信じてくれて。


 その声と共に響いたのは、金属の澄んだ音だった。

 聞き覚えのある可愛らしい声が、呆然とつぶやく。

「どうして、お兄ちゃんが、これを?」 

 どんな仕掛けになっているのか、鎧の肘から刃が伸びている。

 それが、羅羽の降り下ろした鬼の爪を受け止めていたのだった。

 どうやら、勝ったらしい。

 今度は俺が、不機嫌まるだしで答える番だった。

「お前こそ答えてくれよ、羅羽! 何なんだ、これ!」

 まだ、羅羽の返事はない。

 代わりに、どこかで咲耶の声が、褒めてくれていた。


 ……やったね、克衛。

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