第2話 けしからん発育の幼馴染は話をあんまり聞いてくれない
夏の夕方は、なかなか日が沈まない。
夕日は低く傾いたまま、走り続ける俺の背中をじりじりと焼く。
親父のいい加減さと非常識さは、もう我慢の限界を超えていた。
勝手に作った女と出ていった家に、その女の娘を勝手に送り込んでくるなんて、無神経にもほどがある。
その娘が帰ってくるなと言うなら、それは望むところだった。
「こっちから願い下げだ、こんな家」
ひとり、そう吐き捨てる。
だが、このまま家出する準備をしているわけでもない。
かといって、その辺をうろうろした上、腹が減る頃に帰るのもみっともない。
こんなとき、転がり込む先はひとつしかなかった。
そこは、台所付き四畳半ワンルームのアパートだった。
2階建てアパートの上の階だ。
すぐそばにある線路を走る電車の音が聞こえないように、防音窓がぴしゃりと閉められている。
その分、部屋の中は冷房が寒いほどに効いていた。
俺は、絨毯の上へ直に差しだされた番茶を前に正座している。
目の前で同じように正座しているのは、タンクトップにハーフパンツというラフな格好の女の子だ。
「あのね、こういうの特別だって分かる? ……克衛」
俺を呼び捨てにして説教を垂れ始めたのは、
俺の幼馴染だ。
といっても、小学校に上がる前までのつきあいだ。
それでも、頼れる顔見知りは咲耶しかいなかった。
「お前だけだし、事情抜きに話せるの」
男としての意地と見栄が許す限り、下手に出る。
そんな俺を、咲耶は冷ややかに見つめた。
「だから、せめて、ちょっと弁えてくれないかな?」
口調は冷たいが、ボブカットの髪と大きな目には、一緒に遊んだ昔の面影がある。
だから俺は、気おくれもせずに尋ねた。
「何を?」
咲耶はムッとした顔をするが、何で怒っているのか、さっぱり分からない。
昔は、こんなんじゃなかった。
もっと気軽に付き合っていた気がする。
そりゃ、お互い、子どもだったせいもあるが。
全く動じない俺を前に、咲耶は深々とため息をついた。
「キミが男で、ボクが女だってこと」
そんなことも分からないのかと言わんばかりだった。
だが、それを言うなら咲耶だって同じことだ。
お互いに男だとか女だとかは気にせずに、夏の故郷の川辺で裸になって遊んでいたときと、全く変わっていない。
「女ならボクって言うな」
そう混ぜっ返しはしたが、言われてみれば確かにそうだ。
昔は前も後ろも分からないくらいペッタンコだった身体は、結構けしからん育ち方をしている。
それに気づいたのを察したのか、咲耶は薄暗い部屋の中でも分かるくらいに顔を赤らめた。
「だから、どこ見てるのって」
「ああ、すまん」
すっかり冷めてしまった番茶をすすりながら、俺は部屋のあちこちに目を泳がせた。
狭い部屋はきっちり整理整頓されている。
というか、余計なものは何ひとつ置いていない。
部屋の隅には折り畳み式の机と椅子、その上には教科書と参考書。
その隣にある、シーツがキレイに張られたベッドを見たときには、なんだかドキっとした。
「変な想像しないで」
咲耶に釘を刺されて、慌てて目をそらす。
今まで何度か来たことはあるが、何とも思わなかったのに。
年賀状のやりとりくらいで、バレンタインもクリスマスもない関係だったのに。
俺が親父の愚痴を言って、咲耶が何だかよく分からない能狂言の話をするくらいだったのに。
咲耶がいきなり、男だの女だの言ったせいだ。
それでもさすがに気分が萎えたのは、壁に懸けられた制服が目に入ったときだった。
「ええと、あの制服」
俺の通う公立の底辺校とは違って、咲耶が通うのは割と有名な私立の進学校だ。
「だから、なに想像してんの」
いきなり頭を掴まれて、首を横に捻られた。
「痛い痛い痛い……デザイン変わったのかって聞いてんだよ」
確か、夏服のブラウスにはリボンが掛かっていた気がする。
俺を解放した咲耶は、何事もなかったかのように答えた。
「そう、クールビズがどうとかって。ボクもそっちにしたんだ、胸元、楽だから」
そう言われると、その気はなくても、目はついつい誘導されてしまう。
咲耶は俺の頬を軽く張り倒しながら、思いっきり逸れた話を本題に戻した。
「で、何、相談したいわけ?」
そこで俺はようやく、さっきまでの出来事をぶちまけることができた。
だが、話がいったん横道に入ってしまうと、どうも気持ちが乗ってこない。
家を出てきたときは身体中に満ち満ちた怒りは、いつの間にかどこかに行ってしまっていた。
「どう思う?」
俺が割と冷静に話すことができたせいか、咲耶も落ち着いて考える余裕ができたらしい。
そこで出した結論は、これだった。
「ちょっと心配だな」
「だろ?」
親父は女と逃げ、その娘が何の前触れもなくやってきたりしたら、穏やかに迎えられないのが普通だ。
それどころか、いつ終わるか分からないアカの他人とのふたり暮らしが、うまく行くわけがない。
だが、咲耶が問題にしているのは、そこではなかった。
「その子の身の安全が」
もっともらしい顔をして、自分ひとりでうんうんと頷いている。
あまりといえば、あまりの言い草だ。
それには、さすがに俺もツッコんだ。
「待てコラ」
確かに、咲耶は昔からちょっと変わっている。
話していても、どこかピントが外れていて、話が噛み合わないところがある。
それにしても、これはちょっとひどい。
人を見損なうにも限度っていうものがある。
「俺が何するっていうんだ、ああいうのに」
さすがに、そこは食ってかかるところだった。
本当に家出する覚悟もなかった俺だ。
今日だって、日が暮れる前には家に帰らなくてはなるまい。
そうなれば、義理の妹になった羅羽と、ひとつ屋根の下でふたりきりの夜を過ごすことになる。
だからといって、それ以上のことを云々されるのは、男としては許しがたい侮辱だ。
だが、俺の猛然たる講義を、咲耶は事もなげにかわした。
「ああいうのって?」
具体的にどうかって言われると、困る。
それは、俺が羅羽をどういう目で見ているかということだ。
「それは……」
見た目には可愛いけど、どこか幼い。
小柄で、咲耶と比べたら……って、何考えてんだ俺は!
魔が差したといえ、女の子には悟られたくない邪念だった。
それを見て取ったかのように、咲耶は憐れみとも軽蔑ともつかない眼差しで俺を見た。
「克衛がどういうつもりかなんて聞いてないわ」
俺は言葉に詰まった。
言われてみればその通りだ。
「俺だって、別に……」
そんな言い訳は利かなかった。咲耶は更に畳みかけてくる。
「何かあったら、その羅羽ちゃんを克衛が守りきれるかって話をしてるんだけど」
「そりゃあ、もちろん……」
保証はできない。腕っぷしには、まるで自信がないのだ。
そこで口ごもっていると、咲耶はトドメを刺してくる。
「つまり、何かするわけね。ああいうんじゃなけりゃ」
それは断じて、認めるわけにはいかない。
己を失ってでも、ここは抗議しないわけにはいかなかった。
「そんな男だと思ってたわけ、俺を!」
「あんまり目くじら立てないの」
駄々をこねる幼児をなだめる母親のような口調で、咲耶は軽く俺をいなした。
俺は完全に、遊ばれている。
「真面目に聞いてんのかコラ」
そう言いながらも、全身から、どっと力が抜けていく。
俺たちの常識が通用しない、異次元から来た相手と議論をしているかのような徒労感だった。
この辺りも、咲耶の不思議なところだ。
実際、俺たちのいた田舎でも、咲耶の住んでいた辺りだけは別世界のような雰囲気があった気がする。
神社や祠がやたらと多くて、おじさんたちやお爺さんたちは、まるで仙人か何かのようだった。
じゃあ、咲耶は何なのかというと、にっこりと微笑んでみせる様子はちょっと何にも喩えようがない。
「落ち着いた? ちょっとは」
これを落ち着いたというのなら、もう、何も言うまい。
いや、そんな気力もなかった。
どうやら最初から、からかわれていたらしい。
「帰るわ、頭も冷えたし」
そんな皮肉を言うのが精一杯だった。
咲耶に話を聞いてもらって得られたことは、ただひとつ。
逆らっても無駄と分かっていることは、さっさと運命として受け入れるほうが無駄が少ないという悟りだった。
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