第130話

「コーヒーおかわりちょうだい」

「え?」

「もう一杯飲みたい。里見やって」

「………はいはい」

 

 

 

 

 

 パンと卵味のそぼろ風スクランブルエッグを食べて、僕は里見にマグカップを差し出した。

 

 

 里見は一瞬え?って顔をした。

 

 

 でもすぐに目を伏せて笑った。

 

 

 

 

 

 分かりやすく求める。

 

 

 応える。

 

 

 喜ぶ。

 

 

 

 

 

 僕たちはそんな簡単なこともしていなかった。

 

 

 

 

 

 コーヒーなんか、自分でやればいい。わざわざ頼むことじゃない。

 

 

 でも。

 

 

 

 

 

『真澄、コーヒーおかわりー』

『ん?あるよ』

『違う。真澄にいれて欲しい。あるのは知ってる』

『いいけど、どうしたの?疲れた?』

 

 

 

 

 

 いつだっただろう。

 

 

 まだ付き合い始めてそんなに経ってない頃。

 

 

 出かけて帰って来てコーヒーを飲んでほっとして、七星が僕に言った。

 

 




 コーヒーを作るときは多めに作るから、七星はいつもおかわりもらうって自分でマグカップにいれていた。

 

 

 でもその日は違った。

 

 

 疲れてるのかなって、僕は立ち上がって、七星のマグカップをもらって注いで、はいって渡した。

 

 

 そしたら七星は。

 

 

 

 

 

『ありがと』

 

 

 

 

 

 嬉しそうに。

 

 

 本当に嬉しそうに僕を見て笑った。

 

 

 そんな七星を見て、僕も嬉しかった。

 

 

 

 

 

『やってもらうと美味しさ倍増』

 

 

 

 

 

 たったそれだけのこと。

 

 

 でも、たったそれ『だけ』じゃ、ない。

 

 

 

 

 

 分かりやすく求める。

 

 

 応える。

 

 

 喜ぶ。

 

 

 

 

 

 コーヒーをいれる。それは、それ『だけ』のことだけど、意図的に『嬉しいこと』に『する』ことができる。

 

 

 

 

 

 里見は、我慢して諦めることが多かったんだと思う。小さい頃から。親に対して。

 

 

 そしてそれは癖のようになって、大人になっても。僕に対しても。誰に対してもずっとだった。

 

 

 里見がそうだから、僕も里見には我慢して、我慢ばかりで、七星が僕にするようには、僕はできなかった。

 

 

 

 

 

「ん」

「ありがと」

 

 

 

 

 

 テーブルに置かれたマグカップ。

 

 

 僕はすぐに一口飲んだ。

 

 

 そして。

 

 

 

 

 

「美味しさ倍増」

 

 

 

 

 

 飲む僕を立って見下ろす里見を見上げて笑った。

 

 

 里見は一瞬だけ目を見張って。

 

 

 



 笑った。

 

 

 

 

 

 そしてそのまま僕に手を伸ばして、僕の髪に触れた。

 

 

 

 

 

「………知らなかった」

「何が?」

「たったこれだけのことが、こんなにも嬉しいんだな」

「………うん。そうだよ。『里見おかわり』だけでね、こんなにも嬉しいんだよ」

 

 

 

 

 

 許されなかったんじゃない。

 

 

 許してもらうことを。






 僕たちは我慢してしまったんだ。

 

 

 

 

 

 髪に触れる里見の手に自分の手を重ねて、ふとそんな風に、思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 その後僕たちは一緒に洗濯や掃除をしてから出かけた。

 

 

 僕がいつもコーヒー豆を買いに行く専門店に。

 

 




 その店で買ったから。僕が使っているコーヒーメーカーを。豆を挽く手動のミルも。

 

 

 さすがに、何年も前に買った僕のと同じものはなかった。少しデザインが変わっていた。その、僕のとは少し違うサイフォン式のコーヒーメーカーを里見にと僕が買った。

 

 

 コーヒー豆とミルは、里見が自分で買った。

 

 

 

 

 

「里見。ちゃんと奥さんにいれてあげるんだよ。おかわりもだよ。里見も奥さんにいれてもらうんだよ。おかわりもだよ。そしてありがとって、美味しさ倍増って、笑うんだよ」

 

 

 

 

 

 帰り道。



 赤信号でとまった交差点。

 

 

 僕は助手席に座る里見の手に触れて、前を向いたままそう言った。

 

 

 里見は。

 

 

 

 

 

 里見は何も、答えなかった。

 

 

 でもぎゅっと、少しだけあたたかく感じるようになったその手が、僕の手を握った。

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