天使たちに囲まれて
そこは無限の広がりを持ちながら、どこにも繋がっていない、奇妙な空間だった。屋外ではなさそうだが、家具や調度品の類もないため、室内なのかも不明確だ。ただどこまでも見通せそうな、ぼんやりと明るい空間が、むやみやたらに展開している。俺は気がつけばそこに立ち尽くしていたというわけだ。
どうやってここに来たのか、これからどうすべきなのか、何も思いつかない。ただ頭の片隅で、これでは落ち着かない、ここが黒い壁紙、カーペットの部屋ならいいのに、と思った。
「お兄様!」
聞き覚えのある声が響いた。聞き覚えのある、しかしどこか……どこか馴染みのあるものとは、違う声。俺が知っているティーンエイジャーの少女の声より、さらに高く突き抜けるような。
「ダイアナ?」
振り向くと、俺の腰より下、腿の辺りに勢いよく、子供がぶつかってきた。どう見てもまだ十歳程度だ。俺が知っている使い魔の少女に瓜二つだが、……俺が出会った頃よりも、だいぶ幼い。とても小さな頭の中でひときわ目立つ大きな青い瞳が俺を見上げて、これ以上ないという幸せそうな笑顔になった。
「お兄様、大好きよ!」
その、何のてらいもない、正直そのものの言葉に、思わず頰が緩んだ。
「テディもお兄様が大好きですって!」
幼いダイアナはその腕に抱えた大きなテディベアの腕を取り、俺にタッチした。
幼ダイアナは俺の周りをぐるぐる回ったり、脚の間をくぐったり、好き放題に遊び始めた。俺は好きなようにやらせながら、考えた。
これは一体……。
「お兄さん」
澄んだ、魂の美しさを反映したような素直な声に呼ばれて、俺はその少年を見た。さっきまで誰もいなかったように思える場所から現れたのは。
「天使サマ……」
愛する天使……の、子供に変身した姿だった。聡明そうな眼差しや、慈愛に溢れた微笑みはまごうことなくあの美しいエンジェルのものだが……しかし体軀は完全に、子供のそれだ。俺はこの姿の天使を、すでに一度見たことがある。あれは天使が何らかの魔法の不具合により子供に変身したまま記憶を失ったのだったが……。
しかし、今のこの状況は何だ?
「なんで、お前、そんな……」
「お兄さん、御本を読んで」
ダイアナのテディベア同様、少年天使は数冊の分厚い本を抱えていた。読み聞かせをせがむような年齢でもないだろうに……と思って、ハッとする。
いやいや、こいつは本来なら、何百年と生きている俺よりも長生きしているのだ。間違えてもこんなことはすまい。
「お前は……」
俺の困惑は、こうして突っ立っている間にも小さなダイアナが飽きずにひとりで遊びまわり、少年天使がいつまでも俺の答えを待って瞳を輝かせていることから、ある答えに行き当たった。行き当たるまでが遅すぎたくらいだ。
これは、夢だ。
「ラブ、お前疲れてるんじゃないか」
唐突に、眠る前に天使からかけられた言葉を思い出した。そうだ、俺はいつものようにあいつを家に呼んで語らっていて……。
「悪魔の体も天使の体も、疲れなんて知らないものだろ」
俺はそう返した。しかし同じソファの隣に腰掛けた天使は、俺の目をじっと見つめて首を振った。
「肉体は疲れずとも、魂が疲弊している。……私には誤魔化したりする必要はないだろう」
「あー……。ああ、そうだな」
俺は両手を上げた。
「まあ実を言うと、疲れてる。ここ最近は本当に、休息を取る暇がない働き方をしていたもんでな。でもこうしてお前と過ごせて……」
俺が天使の髪に触れようとした時、天使は何かを決めたように頷いた。タイミングがずれて、俺の手は空を掴んだ。
「……天使サマ?」
「疲れているところを訪ねてしまって、すまなかった。お前はこんなことをしてないで、休息を取らなければ」
「あ、いや、それは」
麗しの天使と共にゆったり過ごして回復するつもりだったのだが、当の天使は俺の言葉を聞いていなかった。そうすることが善いと思ったら、そうするものなのだ、天使というやつは。
「よし。それじゃあ、お前が心からリラックスできるような夢を見られる奇跡を使ってあげよう。さあ、目を閉じて」
「…………」
天使の善意に横槍を入れるなんて、とんでもなかった。俺は諦めて、両目を閉じた。天使の温かな掌が瞼の上にそっと置かれ、意識が急速に眠りの淵に落ちてゆき……。
そうして、この夢に辿り着いたというわけだ。
「お兄さん」「お兄様」
ふたつの青い宝石に見上げられて、俺は思わず笑い出してしまった。俺が心からリラックスできる夢は、これか。
「ふっ……まったく。確かに俺は、人間の中でも子供は嫌いじゃないが……」
それにしても、だ。
愛する天使とともにいるより、愛する天使とお転婆な使い魔の、子供姿を眺めていたいなんて。
「悪魔らしくなさすぎるだろ……」
でもまあ確かに、子供の姿のこいつらは無論可愛らしいし、仕事のごたごたを思い出させるようなこともしない。本来の姿の天使と一緒にいても絶対にリラックスできるとは思うが、しかし鼓動が速まったり何だりで、心の底からリラックスするのは難しいかもしれない。天使の善意は完全な的外れではない。
小さな頭を撫でてやると、少年天使はくすぐったそうに微笑んだ。俺の記憶とイメージによって作られた存在だ、俺がそうであって欲しいと思う反応を示す。なんだか、あまり没入しすぎてもよくない気がしてきた。
そんなことを考えていると、後ろに誰かの気配を感じた。これも、よく知っている……。
獏だ。
夢を食べる魔物であるあいつは人の夢を渡り歩いて食べ物を探すが、この夢にまで入り込んできたのに違いない。
これが人間ならば少々気まずくなるところだが……。
「獏、これは俺の夢だ。無断で入って……」
言いながら振り向いて、言葉を止めた。そこにいたのは確かに獏だったが、俺が想定していたあいつではなかった。
獏は小脇にマレーバクのぬいぐるみを抱え、まるで本物の子供のように、きょとんと俺を見上げていた。
「天使サマは俺のことを何だと思ってるんだ……」
思わず首を振った。
獏も、本来ならゆうに百歳を超えている筈だ。外見はともかく、子供などではない。俺を眠らせた天使は、何かとんでもない勘違いをしているようだ。
「兄ちゃん、一緒に寝よう」
「はぁ……」
何が起きても、獏はそんなことを言うまい。天使サマの奇跡は、俺に対する解像度に依存しているらしい。
俺という悪魔が、子供をあやしたり本の読み聞かせをしたり一緒に昼寝したりすることを楽しむ男だという、盛大な勘違い。
子供好きだなんて主張した覚えはないんだが。
……だが、まあ、いいか。
「こっち来い」
獏がとてとてとやって来た。俺は指を鳴らして綿雲でできたベッドを造り出し、三人をそこに寝かせ、自分はその隣に寝転がった。
「みんなで寝な。そら、読み聞かせもしてやるから」
少年天使の持っていた絵本を開き、期待を込めた眼差しでこちらを見つめる六つの瞳に、笑いかける。
「これはある天使と悪魔の物語だ……」
魔力のかけらもない使い魔の少女と、奇跡など使えない天使の少年と、夢を食べたりなどしない魔物は、いつしか揃って寝息を立てていた。人間なら「天使のよう」と表現するだろうその寝顔を見て、俺は久々に心の平安を得た気がした。
「おはよう、ラブ」
目を覚ますと、窓際の椅子に座っていた天使が声をかけてくれた。柔らかく落ち着いた声が、耳に心地よい。
「ああ、おはよう、エンジェル」
「よく眠っていたよ。その様子だと、私の奇跡はちゃんと効いたみたいだね?」
窓から差し込む陽の光を背負って微笑む天使に、俺はちょっと笑って、頷いた。
「ああ、ばっちり効いたさ。ありがとう」
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