九之四
碧は、ふと思い立って古手屋に入って手ごろな赤茶色の羽織をみつけると、買い取ってそれをはおった。
さきほど港で嵐の脇を好奇のまなざしでみていた男たちの眼つきを思い出したからだった。そうしたら、彼らのいやらしい眼の光に寒気を感じたし、袖なしの野良着を着ている自分が急に恥ずかしくなったのだった。
「どうした、急に色気づいちゃって」
奇妙なものを見るような眼で嵐は云った。
碧も嵐も、今は離れてしまった鶫も、もう十八歳になっている。満年齢だと十六、七である。女性としての恥じらいに目覚めるには遅い気もするが、これまでほとんど田舎で暮らしてきた娘であった。ちょっとしたきっかけで、とうとつに羞恥のつぼみが開花するということも、不思議なことではないだろう。
「私、あの新興宗教を追ってみようと思うの」
野良着のままの嵐に碧は云った。ふたりは古手屋で訊いた宿屋に向かっている。
「宗教って、さっき踊っていた、
「そう」
「そりゃまた突然どうして。あんたも直感で動くことの大切さに目覚めたか。つべこべ考えてると勢いってもんがなくなるからな。先々のことにとらわれず、思いついたら即行動あるべし」
「あなたは少し後先考えなさい」と嵐をたしなめておいて碧は、「別段直感とか思いつきではないのよ。あの人たちの音楽があったでしょう。あれを聴いていたらなんだか妙な気分になったのよ」
「うん、あったな、心が抜けるような」
「それよ。あの音楽は一種の魔術のようなものだと思った。思い出すと、服部様がつれてきた
「そこはやっぱり勘なんじゃないか」
「まあ、そうだけど。ともかく宿屋でひと休みしたら、すぐにあの宗教の情報を集めましょう」
「わかった」
古手屋でおそわった旅籠は、堺の旅籠と違ってずいぶんくたびれた建物だったし、店の者の愛想も悪かったが、ともかく
もう陽は傾きはじめていたが、ふたりはべつべつに町をひとめぐりして、地理をあたまにいれつつ住民に話を聞いて、旅籠にもどって宿でこしらえてくれた食事をとりながら報告しあった。
雑穀に薄い吸い物に焼き魚の質素な夕飯であったが、鰆の塩焼きは海が近いだけあってさすがに鮮度がよくってうまかった。
真聖神惶教という宗教は、このあたりではもうそうとう有名なもので、話を訊けば地元のものならたいていの人が質問に応じてくれた。応じてはくれたのだが答えはみな一様であった。これという貴重な情報は手に入らなかったわけであった。
――乱世によって苦難に満ちた暮らしをおくる人々の救済を謳っている。
――かの宗教は淡路の北の方に本拠がある。
――彼らは時々町に来て踊ったり歌ったりしてアピールをしている。
――信者になったものは本山で暮らす。
――一度入信したら最後、二度と帰って来る者はいない。
そんな評判だから、いくら信者達が広場で踊ったり歌ったりしたところで、住人たちはもう誰も相手にしていないようだ。しかし、窮民救済の噂を聞きつけて本土からわざわざやってくる者もいるという。いつの世も、救いをもとめる人はいるものだ。キリスト教禁教令の影響もあって、なにかにすがりたい者が行き場をなくして新興宗教にはしる例もあるようだ。
「あの宗教に潜入しようと思う」
お互いの情報を伝え終わってから、碧がそう云った。碧のなかではすでに決意は固まっていた。
「それはかまわないけど、わたしはなにをしようか。情報を集めるったって、これ以上はたいした情報は得られなさそうだぜ」
「それでも丹念に調査すればなにか出てくるかもしれない」
「つなぎはどうする」
「なしにしましょう。へたに接触するとそれだけ露見する可能性が高くなるわ」
「でも無事かどうかだけでもわかるようにしなくちゃ」
「それもそうね」
そういいながら、碧はもうひとつの懸念を持っていた。心の底にわだかまる嫌な懸念だった。その思いを口に出そうか瞬間に躊躇した。すると、嵐のほうでなにか察したのか、
「鶫は追ってくるかね」
さらりと云ってしまう。
「どうだろう。私たちがここにいることが知られているかどうかもわからないし、紀州のほうで企図されている一揆の、お百姓さんたちを妖術で操る計略をまだ進めているなら、そっちの作業で忙殺されるでしょうし、個人の思惑は後回しにするでしょうね、鶫だったら」
「けど、あいつはけっこう執念ぶかいぜ」
「できれば、争いたくはないわ。どうにかして説得してこっちに引き戻したいわね」
「どうだろうね、こないだの様子だと、わたしたちをずいぶん恨みに思っているみたいだったし」
嵐の言葉を聞き流しにして、碧は黙然と考えこんでしまった。
できればこれ以上、鶫とは顔を合わせたくはない。このさき一生出会うことなく、お互いの道を歩んでいけたらそれに越したことはない。たとえそれが碧の自分勝手な思惑だったとしても。
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