三之十
「うむ」
うなってあぐりは後ろを振り返った。そうして、ふと脚をとめる。
「おい、佐助、今碧殿の声が聞こえなんだか?」
「さあ、気のせいではないでしょうかね」
佐助も脚をとめて、ふりかえった。
「おおい、碧殿!」
あぐりが呼びかけてみるが、先ほどまで後ろを歩いていた碧の気配がまるでない。
「お、おい佐助?なんじゃこれは佐助?」
あぐりは横に顔を向ける。
「姫様、動かないでください」
霧の中で、佐助の顔はおぼろにさっすることしかできないが、声の調子からは、異常な緊張感が感じられるのだった。
すると、後ろから、つまり高野山に至る方向から、錫杖の
それもそこそこ近くで鳴っているようで、そうしてすぐに、ひとつの大きな人影が霧に包まれて黒く湧き出てきた。
その人影は、網代笠をかぶって、黒染めの直綴……、
「おお、高野山のお坊さん!」
あぐりはすがるように、その雲水に走りよる。
のを、
「動かないでと云ったでしょう!」
佐助が襟首をつかんで引っ張るものだから、あぐりは脚だけが前に進んで、霧の中を駆けあがるようにして浮き上がった。
「なにをするのじゃ、半人前忍者!」
「おい、雲水」
佐助はあぐりの罵声などは無視して、雲水に問いかけた。
「お前、高野山の僧侶じゃないな?」
くすり、と雲水は笑ったようだ。
「この深い霧の中、ようやっと人に出会えたと思うたに、ずいぶんなけなされようじゃのう」
「こちとら、高野山の坊さんは見馴れてるんでな」
もっとも、雲水とは禅宗の修行僧のことをさす言葉ではあるのだが。
「ふふふ、別段、他宗派の僧が高野山を訪れていけない理由はなかろうが」
「いやいや、聞いているんだよ、昨日知り合った胡乱なくノ一たちから、盗賊一味に胡散臭い雲水がいるってことをな」
「ははは、こりゃあまいった。どうも若いもんは苦手じゃのう。とくに、おぬしや以前知りおうた女忍のような、鋭い直感でものを見る若者はな」
そして、雲水――鬼巌坊は、錫杖で地を突き、ちゃりとひとつ遊環を鳴らし、低いがよく通る声で、恫喝するように云った。
「その後ろに背負った桐の箱、おとなしく置いて行けい」
「ことわるっ!」
佐助は腰を落とし、帯に差した愛用の忍刀の鞘を左手でつかんだ。
「よせ、小僧。わしは男には、若輩であっても容赦せんぞ」
佐助は、右手を顔の前に、人差し指と中指をそろえて立てて、
「オン・キリキリバサラ・ウンハッタ」
呪文を唱えはじめる。
「オン・キリキリバサラ・ウンハッタ。オン・キリキリバサラ・ウンハッタ。オン・キリキリバサラ・ウンハッタ……」
精神集中の呪文であろう。呪文の文句自体に意味はなさそうだ。
さきほどまで薄ら笑いを浮かべていた鬼巌坊は、顔を厳めしく引き締め、真剣な眼差しと真一文字に引き結んだ唇をして、腰を落として錫杖を槍のように地面と平行に構えた。
「オン・キリキリバサラ・ウンハッタ!」
佐助の、何度目かの呪文が途切れた瞬間……。
鬼巌坊の岩壁のように強固にそびえる、その懐に飛び込むように跳躍し、しつつ腰の忍者刀を抜き打ちに薙いだ。
しかも、その二尺一寸五分の刃は炎につつまれていて、ぼっと激しい燃焼音とともに雲水の巨体を切り裂いた。
が一瞬はやく、鬼巌坊は後ろに飛んで避けていた。切り裂いたのは霧に漂うただの残像。
甲賀流忍法、火遁火炎剣――。
読んで字のごとく、燃える剣である。これは、刃の側面に甲賀秘伝の発火性の薬が塗り付けられており、鞘の鯉口には刃の薬を発火させるための燐が付着している。つまり、現代のマッチの仕組みになっていて、刀を鞘走らせた瞬間着火し、刃と炎の同時攻撃で相手の意表を突くとともに、刃から逃れても炎が衣服を燃やす数段構えの剣術忍法である。
佐助は追った。炎の刀を振る。鬼巌坊は後ろに飛んで逃げる。追う、斬る。飛ぶ、逃げる。
「ぬう」
佐助はいささか狼狽した。この雲水、見かけのわりに、ずいぶんすばやい身のこなしをする。火炎が着物を燃やしている形跡もない。六尺豊かの体躯、筋肉が隆々と盛り上がった胸板、圧迫を感じるほど広い肩……、あの身体で、なぜああもしなやかに身を躍らせることができるのか。
いったん、刀を鞘に戻した。炎は、納刀すると酸素供給が遮断されるため、消火される構造である。
佐助と鬼巌坊は、二間ばかりの距離をへだてて、にらみ合う。
「よいのかの」
鬼巌坊がぽつりと……、
「姫様をほうっておいて、よいのかのう」
――しまった!?
佐助は振り向いた。しかし、あぐりはもう影も形もない。
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