一之六
藤林家の本拠地である東湯舟という土地は、伊賀の北部にあって、山をひとつ越せばもう
伊賀と甲賀と云うと、住民たちが常にツノを突き合わせて、その境界あたりでいつ果てるとも知れない死闘を繰り広げていた印象があるかもしれないが、実際はそのようなことはない。
戦場や潜入先でばったり、などという場合ならばともかく、ライバルだからと云っても、そこは当たらず触らず、住民同士の交流もあれば、物の売り買いもあり、平穏無事にみんな普段の生活を送っていたのであった。
互いに諜報活動に携わる商売である以上、もちろん任務上の秘密は厳守であるし、男女の恋愛関係も禁忌とされてはいるが、碧たちの世代になると、そのあたりのルールも、どこか時代錯誤の感もしなくはない。
それでも藤林の屋敷が、周囲に堀を巡らしていたり、高い土塀で囲んでいたりして一種の
ちなみに、当然と云うべきか、いかにも忍者屋敷らしい、どんでんがえしに隠し通路に隠し扉など、からくりや仕掛けが至る所に施されてはいるのだが、忍たちは常からそんな仕掛けを使用しているわけでもなく、平時はごく一般的な、少なくとも傍から見ただけでは、いささか厳めしいだけのありふれた土豪の屋敷でしかなかった。
座ると、彼女らを待ちかねていたように、すぐに、当主であり碧の兄である、当代の
碧と長門とは母が違うし、年齢も二十くらいのひらきがあったから、彼女にとっては兄というよりも叔父くらいの感覚の人ではあるが、三十六の若さで、すでに伊賀の三家と呼ばれる内の一家を束ねる頭領としての威厳と風格と器量を備えた、堂々とした人物であった。
そろって頭をさげる三人に向かって、
「わざわざご苦労」と長門は挨拶するのもわずらわしそうに早口でいった。「伊賀崎と城戸の娘たちもいっしょだったか、ちょうどよかった」
「常にない急なお呼び出し、なにか大事でもございましたか」
碧がいぶかしそうに、訊いた。
すると長門は、まだ話していなかったのかとでも云いたげに又左衛門をじろりと見てから、
「花神が帰ってこぬ」
とずばり云った。
碧はその名を耳にし、ぞっと青ざめる思いがした。
「さて、どこから話そうか」長門は碧の心中を気づかうように、声の調子を落とした。「先日……、というのは五日ほども前の話だが、鳥羽の九鬼様から、直々にご依頼があった」
その依頼というのは――。
九鬼家が藤林家に依頼をするさらに数日前、志摩のとある岬の、岸から一町ばかりの浅瀬に、イスパニア(スペイン)のものと思われるガレオン船が漂着した。
それだけならば、どうということもない。先年発布された禁教令によってキリスト教の宣教は禁止されているとはいえ、不幸にも難破漂流した南蛮船の乗り組み員を無下に処罰する必要もない。幕府に届け出て、長崎の平戸にでも送ってそこから国へと帰せばいいだけの話であった。
ところが、鳥羽藩の者が監視を続けても、いっこうに船員は姿をあらわさない。どころか、人が乗っている気配すらしないことに、監視の者たちははたと気づいた。
――船員たちは見知らぬ異国の者たちを警戒して降りてこないのか、はたまた最初から無人であったのか。
そこで数人の藩士を選別し、探索または交渉のために船に向かわせた。
だが、だれも帰ってこない。
翌日、また数人を送る。
帰らない。
――これはおかしい。
と監視役はやきもきし、そして冷や汗をかく思いで浜から船を凝視していると、ひとりだけ、船べりから小舟に落ちた。それは彼らが乗っていった小舟で、ガレオン船の脇に着けてあって、そこには梯子がかけてあったのに、それを使わず、船の端からころがるように落ちたのだった。
慌ててその者を助けに行くと、落ちた拍子のものか骨折や怪我を負っていたが、それだけではなく、なにか恐怖に取りつかれたような、云ってみれば精神が崩壊したような異常な様相で悲痛な叫び声をあげ、うめく。その場にいた全員が息を飲んだ。そしてすぐに、彼は絶命した。
時はあたかも大坂の陣前夜。
正体不明な南蛮の難破船一隻ごときに、いつまでもかかずらっている場合ではない。
「そんなしだいでこちらに探索の依頼が舞い込んだわけだ」とひとつ長門は苦笑した。「こちらも暇を持て余しているわけでもないのだがな」
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